第8話

 体を拭き、私服に着替えると、市営プールの施設から出た。自然溢れる公園を抜け、駅前の喫茶店に足を運ぶ。

 店は東側がガラス張りで、外から中を見渡せた。すでにメンバーは揃っているようだった。ドアを押し開け、店員さんに案内してもらう。

 挨拶をしたら、快く受け入れてくれた。端の席に腰掛ける。


 ひときわ目立つ女性に目を向けた。視線が合う。優しく微笑まれ、緊張した。手汗をテーブルの下で、こっそりと拭う。

 鈴原ミココだった。今日は白いワンピースを着ている。とても似合っていた。初めて会う気がしないのは、一方的に動画や配信で、見させてもらっているからだろう。


 オンラインサロンのメンバーだけが参加できるオフ会だった。恋愛の悩みをリアルに会って吐露し合う。今日はそういう目的で集まっていた。

 雑談をそこそこに、ミココの左隣の女性から恋愛の悩みを話始める。

 彼氏ができないんです、というものだった。メンバーは基本的に黙って傾聴する。具体的なアドバイスを飛ばすのはミココだけだった。優しく、それでいてちょっと厳しい言葉が、静かな店内に響いていく。

 以降、順番ずつ同じ流れが繰り返された。


 わたしの番になった。全員の視線が集まり、緊張でがちがちになる。最年少の女子高生が理路整然と話していたので、プレッシャーが大きかった。


「初めまして、璃子といいます。水族館好き女子大生、っていえばわかりますかね」

「もちろん知ってますよ」


 ミココが笑う。あのスパチャの人か、と女子高生が隣で呟いている。


「話、下手なんで、よくわからないところがあったら指摘してください」


 そう前置きしてから口火を切る。

 自分には同棲している恋人がいる。最近、その恋人が、違う女性と秘密裏に会っている。しかも、男性と会っていると嘘をつかれてしまった。いろいろなものをぼかしながら説明する。

 ミココが眉を下げる。同情の色を浮かべて言った。


「それは辛いですね」

「仕方ない、とは思うんですよ。いずれ人は離れていくものですから」


 父、母、弟のことが思い出される。


「でも、今の恋人とは、まだ離れたくないと思ってます。我儘ですよね」

「そんなことないですよ! 不安にさせる方が悪いんですから!」


 女子高生が拳を固めて言う。

 他のメンバーからも、優しい言葉を掛けられた。

 涙が出そうになる。自分のすべてが肯定された気がした。参加してよかったな、と心の底から思う。

 ミココが、紅茶に口をつけてから言う。


「彼氏にどうしてほしいんですか?」

「振り向いてほしいです」


 最近、自分磨きを頑張っていることを伝えた。

 凄いですね、と隣の女子高生が目を輝かせる。胸に空気が通った気がした。やはりわたしの行動は正しかったのだ。


「なるほど。それは素晴らしいですね」


 ミココが笑みを浮かべる。


「しかし、その努力はすべて無意味です」


 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

 思わず「えっ」という声を漏らしてしまう。思考が空回りする。

 しん、と場が静まり返った。換気扇の音が聴こえる。

 ミココは、ゆっくりと口を動かした。


「璃子さんは自分の気持ちに蓋をしています。そのことに自分自身、気づいていないようですね」

「蓋、ですか?」

「ええ。本当は彼氏に対して罵詈雑言を浴びせ、引っ叩きたいはずです。そうでしょう?」


 いや、そんなことは思ってなかったんだけど……。

 否定の言葉が出そうになる。だが、ぐっと飲み込んだ。


「自分磨きは素晴らしいことです。継続していくべきでしょう。でも、今の彼氏とは別れちゃった方がいいですね」

「え? ど、どうしてですか?」

「屑だからですよ」


 満面の笑みを浮かべた。


「璃子さんは素晴らしい女性です。そんな浮気男とは一刻も早く別れちゃった方が身のためです。璃子さんは筋がいい。わたしと同じように、いずれ恋愛のプロフェッショナルを名乗れる日が来るでしょう。もっと高いステータスを持つ誠実な男性に乗り換えるべきだと思います。その人にこだわる必要はないのですから」


 ミココは言い切り、鞄から何かを取り出した。本のようだった。


「実は、本を出版することが決まったんです。これはその見本です。ここには、わたしの恋愛テクニックが、体系立てて書かれています。これを読めば、誰だって、今よりいい恋人を作ることができるでしょう。多くの人に読んでほしいので、皆さん身近な人に、それとなく本作をお勧めして頂けるとありがたいです」


 わたしを除いた全員が、「凄い、おめでとうございます!」と拍手をする。わたしも一拍遅れて拍手をした。ぱちぱちぱち、という音が、どこか遠くの雨音のように聞こえる。目次だけでも読ませてください、と参加者の一人が言った。皆で盛り上がっている。


 喉に違和感を覚えた。

 わたしはコップを手に取り、水を一気飲みした。ピッチャーで注ぎ、また飲む。ごくごくと音を鳴らした。隣の女子高生が、ぎょっとした顔をこちらに向ける。

 四杯目を飲んだところで、全員の視線がこちらに向いていることに気がついた。


「どうしたんですか?」


 ミココが訊いてくる。わたしは、店員さんに「ショートケーキ一つ、お願いします!」と大声で注文した。それから、またコップに水を注ぎ、言った。


「喉に違和感があることに気づいて……。でも、解決しました。喉が渇いて渇いて仕方なかったみたいです。あと、ちょっとお腹もすいちゃってるみたいで。ダイエットで、まともなものをここ一週間、ずっと食べてなかったからでしょう。ケーキ、もう一つ注文しちゃおっかな。あはは」

「そ、そう……。無理しちゃだめですよ」


 ミココが半魚人を前にしたような顔を浮かべて視線を逸らす。他の人たちも、微妙な顔をして口を噤んだ。

 ケーキが運ばれてくる。フォークを操って口に入れた。生クリームのとろけるような甘さ、ふんわりとしたスポンジ、すべてが懐かしく感じられた。


 人はいずれ、わたしから離れていく。わたしの方から離れることもある。

 それは自然なことで、避けられない運命であることを、改めて思い知った。

 恋人との別れも近いかもしれない。

 そうなる前に、早くサヨリに会いたい。

 イチゴを口に入れ、わたしは強くそう願った。

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