第2話
サヨリと初めて会話したのは、高校二年の夏だった。
放課後、わたしは屋内プールにいた。授業に出れなかったから補習を受けることになったのだ。
体育教師はベンチに腰掛け、欠伸を連発していた。かと思うと、背もたれに寄りかかり目を閉じてしまった。いびきが聞こえてくる。
生徒を放置して寝ちゃダメでしょ……。そう思ったが、これで自由にやれるな、と嬉しくなった。気ままに泳ぐ。ひんやりとした冷たさが肌に心地よかった。
クロールで何往復かしてからゴーグルを取る。疲労からか、ゴーグルを手放してしまった。たまたま目の前を女子が通り過ぎ、ゴーグルが離れていく。慌てて追いかけた。
すぐにゴーグルは見つかった。足をしならせながら近づいていったら、わたしとは反対方向から、女子生徒が泳いできた。彼女はゴーグルを取ると、その場に佇んだ。
「これ、お前のか?」
岩永サヨリだった。手をこちらに差し出してくる。
まじまじと全身を眺めた。
初めに、「まつ毛が長くて羨ましいなぁ」という感想を持った。顔の造形は整っている。髪を薄く茶色に染め、耳にはピアス穴を開けていた。さすがに学校では、ピアスはつけてはいないようだった。スレンダーな体つきで、お腹がくびれている。
渡され、装着する。それから、「うーん……」と唸った。
「なんだよ、そのリアクション」
サヨリが目を細めて小首を傾げた。なかなか迫力のある表情だ。
「あ、ごめん。ヤンキーだから金銭を要求されると思って」
「しばくぞ」
「こ、怖い! ごめんなさいごめんなさい! 殴らないで!」
慌てて距離を取り、顔をガードする。
「調子狂うな、お前……」
サヨリは肩を竦めて笑った。柔らかさと優しさを滲ませた笑みに、どきりとする。そういえば、彼女には隠れファンが多いと聞く。女子に人気があるのだ。
とはいえ、わたしは「暴力反対。暴力を振るう奴がいたらぶん殴れ」を座右の銘にしている。そもそもヤンキーとは価値観が違い過ぎるから、決して仲良くはなれないだろう。
距離を取ろうと後ずさったら、サヨリに「あぶねえ」と腕を掴まれ、引き寄せられた。
体の一部がくっつく。水面の中で膨らみ同士がぶつかり、なんとも気まずい気持ちになった。
背後の女子とぶつかりそうになっていたので助けてくれたらしい。
ありがとう、と小声で言ってから、改めてサヨリを見つめる。
美形だなぁ、と思った。
「ヤンキーにしておくには惜しい。惜しすぎるよ」
「は? 何言ってんの?」
化粧をして微笑むチンパンジーを見るような目を向けられた。
「わたしの美少女センサーがビンビン反応してる。放っておけないよ」
「わけわかんねえな……。あ、説明はいらないから」
冷めた顔で離れていこうとする。今度はわたしが、サヨリの腕を掴み、思い切り自分の方に引き寄せた。水しぶきが舞う。わたし達は再び向かい合った。
「なんだよ。あたしはUFOキャッチャーの景品じゃねえぞ」
「サヨリさん、わたし、凄いことを思いついちゃったの! 話していい?」
「駄目だ」
「発表するね!」
「よせ、やめろ」
「サヨリさんはまずヤンキーをやめること! これは決定事項ね!」
「話聞く気ないな……。鼓膜破れてんの?」
「それから、わたしと一緒にアイドルになって武道館を目指しましょう! これも決定事項だから!」
わたしは握りこぶしを突き上げた。頭の中で良い感じのBGMが流れる。青春映画の主題歌にぴったりだと思った。
サヨリは溜息をついた。水面の底に沈んでいくような重さを感じさせる溜息だった。
こちらを向いて眉を吊り上げる。
「武道館を舐めるなよ」
「え?」
意外な返しに驚く。
「てんねんズでさえ武道館にまだ行けてないんだぞ」
「てんねん……え?」
サヨリは、信じがたいものを見るような目をした。
「知らないのか。……マジかよ、嘘だと言ってくれ」
「ご、ごめん」
「説明する」
「え?」
別にいいけど、と断ったが、サヨリの耳には届かなかったらしい。笑顔で話始める。
「てんねんズは独自のパフォーマンスと個性的なメンバーが評価されて人気を博しているアイドルグループだ。二〇一九年に結成してもう三年になるな。最初は地元の小さな箱でこじんまりやっていたらしいが今は東京に進出して多くのアイドルファンを癒してくれている。リーダーのえりにゃんが一番人気みたいだが、個人的にはナンバー3の桜ちゃんもクール系美少女って感じでめっちゃ可愛いと思ってる」
「そ、そうすか……」
ガチの人だった。うっとりとした目をしている。
女子生徒がクロールをして真横を通過していく。水しぶきが掛かり、顔に手を当てた。サヨリも同じ動作をしている。
無言で向き合う。
サヨリは憮然と言った。
「ドルオタではないからな」
それは無理があるだろー。
顔を真っ赤にしている。どうやらドルオタであることは秘密にしていたらしい。わたしが不用意に、「武道館」というワードを出したから、我慢できず、語り始めてしまったのだろう。
ふふふ、と笑う。
「おい、何笑ってんだよ」
サヨリは、恨みがましい目をこちらに向けた。わたしは「何でもない」と水面に潜り、その場を離れた。
この出会いをきっかけに、わたし達の関係は始まったのだ。
たぶんこの時、わたしはサヨリに恋をしたのだ。だから、強引に絡んだのだろう。何も考えず、ノリだけで行動するのは得意だったから。
そして今では、ルームシェアをしている。
恋人として。
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