第12話

月が見ていた (12)


昼休み。

勤務先が曲がりなりにも大手企業であったため、社員食堂もあり、昼休みに外に出る必要はない。メニューもそれなりに充実しているので、そうそう飽きることもない。

いつ、どこに犯人が現れるのかもわからない現状、社員食堂の存在はありがたい。


事件のことがあってか、何となく周囲から距離を置かれているようにも感じるが、今は寧ろ好都合だ。事件のことやら、豊のことやら、根掘り葉掘り訊かれるのは、まるで会社でまで事情聴取を受けているような有様になる。

このまま面倒なことなく一日が終わってくれれば、とりあえずは御の字だ。


普段しない神頼みが功を奏したのか、会社側も安全面での配慮をしてくれ、当面の間は定時で上がれることになった。

上司は珍しく機嫌が良く、タクシーを呼ぼうかと言ってくれたが、いつまで続くのかわからないのに、そこまで甘える訳にもいくまい。

私は丁重に固辞して会社を出ると、食料品を買いにスーパーに立ち寄ることにした。


最早『尾行』とも言える張り込み。

大内刑事は私の姿を確認すると、恐らく「読んでいるフリ」の雑誌を鞄にしまい、私の左斜め後方を歩き始めた。


その時だ。

大内刑事の僅か右側を掠めるように、こちらへ目掛け走ってくる男がいた。

男は体の前に何かを構えっているように見える。

それに気づき、走り出す大内刑事。

私は咄嗟にバッグの中からアレを出そうとしたが、焦りでまごついて出て来ない。

男は、もうすぐそこまで来ている。


「終わった…」

そう感じて目を閉じた時、誰かに右腕を強く引かれた。

「もう大丈夫。奴はそのまま、大内が追ってる。」

目を開くと、どこから現れたのか、有松刑事がいた。

何故だか分からないが、不覚にも涙が溢れてしまった。

「怖かっただろ。ああいう時は逃げなきゃ危ない。」

そう言ったかと思うと、何かを思い出したように、

「そう言えば、あの時。逃げるどころか、バッグを漁ってたね。あれ、何?」

と私のバッグを指差す。

私は無言で、それを差し出した。


「スタンガン…。」

有松刑事はそれを手に取り、何を思ったか私に向けた。

「ちょ…、危ない!!」

私がそう言うと、有松刑事はちょっと怒った顔をして、

「…そういうこと。相手に奪われて、自分に向けられたら元も子もないだろ?もう、こんなことは考えないでくれ。まぁ…スタンガンくらいで良かった。そうでもなけりゃ、今頃、あんたを逮捕しなきゃいけなかったかも知れない。」

と、それを返してくれた。

「…ごめんなさい。」

私はそれを受け取ってバッグにしまうと、取り出したハンカチで涙を拭った。


結局、買い物どころではなく、有松刑事に付き添われてマンションに戻る。

エントランスに大内刑事が立っていた。

「申し訳ありません。もう少しのところで取り逃がしました…。ただ、奴の落としたナイフは署に届けてあります。今、指紋照合をしているところです。」

「ああ、お疲れさん。後は引き継ぐから、今日はもう休んでくれ。」

「それでは、お疲れ様です。」

二人は互いに敬礼をして、大内刑事は通りに向かって歩いて行った。


管理人室の前を通り過ぎ、エレベーターホールに着く。

有松刑事はこちらに向き直り、

「部屋まで送る。」

と言って、エレベーターに先に乗り込んだ。

エレベーターの中では何だか気まずくて、無言のまま、狭い空間を対角線上に立っていた。


12階でエレベーターが止まり、有松刑事が先に降りて付近を確認する。

何も問題なかったようで、私達は部屋へと向かった。


彼女はドアの鍵を開けると、

「有松さん、少し時間はありますか?」

と言う。

「ありますけど…もう夜だし、近所の目もあるから…。」

俺がそう答えると、彼女は食い下がり、

「それは今更のことです。怖いことが続いて、ザワザワして落ち着かないから、

少しの間、話し相手になってくれませんか?」

と譲らない。しかも、そう言われてしまえば拒否のしようがない。

「当分は管理人室にいるけど…わかりました。今は少しお邪魔します。」

彼女に続いて室内に入ると、リビングに通された。


コーヒーを淹れて戻ってきた彼女は、向かい側のソファに腰を下ろす。

コーヒーを一口飲んで、

「有松さん、今日は体育会系言葉じゃないですね。あれ、やめたんですか?」

と、イタズラそうな目をした彼女。

俺はコーヒーを吹き出しそうになりながら、

「そう?」

と答えつつ、自分の中にある変化に気づき始めていた。


俺が「〜っす」を使うのには理由がある。

別に相手を牽制するとかいう程のことではなく、単純に、相手との間にワンクッションを置くような感じだ。深く踏み込まず、踏み込ませず。快適な間合いというか。

なんて言えばいいのか…親しすぎず、離れすぎず…そういう距離感を保ちたい。

そんなところだろうか。


けれども。

彼女が、ありのままの剥き出しの感情を晒してくれたことで、もう少し人間味のある刑事であっても良いような気がしてきたのだ。

人間味のある刑事、それもそんなに悪くないんじゃないか?

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