第4話
月が見ていた (4)
いつもと同じ朝が来て、いつもと同じように、豊の平和そうな寝顔を見ながら出勤するのだろうと思っていた。
しかし、何事もなかったかのように朝が来たものの、私の現実、日常は大きく変わったことを思い知らされる。
病院で精算をしようにも、保険証や財布がない。
辛うじて一枚だけ持っていたクレジットカードで精算は済ませられたが、事件、事故、保険証なしということで、
医療費は全額自己負担だった。
痛いのは懐だけではない。
タクシーを降りた自宅マンションの前には、既に報道陣と野次馬が待ち構えていた。
「彼女は被害者ですから!」
有松刑事が咄嗟にジャケットで私を隠してくれ、オートロックは角膜識別だったため、マンション内に入ることに
不便はなかったが、エレベーターに乗り込むまで、自分に向けられた大勢の視線、好奇心の矢が胸に突き刺さった。
エレベーターホールでは同じ階の住民が屯しており、挨拶もそこそこに、逃げるように部屋へと駆け込んだ。
やっと部屋にたどり着き、玄関で触れた五感に、遂に涙が溢れてきた。
……土間にあるべき筈の、豊の靴がないのだ。
「お帰り」の声も、少し五月蝿いBGMも流れていないのだ。
キッチンで、料理の匂いがしないのだ。
寝室に、豊の脱いだスーツが掛かっていないのだ。
ベッドには、微塵の温もりも残っていないのだ。
ベランダに、洗濯物が広がっていないのだ。
それら全てが、豊がもう此処にはいないことを語ってくれた。
そして、気が付けば、私はまるで母親を見失った子どものように、大声で泣いていた。
そんな私の肩に手を置き、有松刑事は言った。
「一之宮さんは、沢園さんにとって、どうでもいいヒモなんかじゃなく、大事な家族だったんっすね。」
「そんなことない!豊は本当にどうしようもない奴で……」
「それなら、なんでそんなに悲しんでるんっすか!」
「……悲しい??」
「えっ?」
戸惑う表情の有松刑事。
「ああ…私、悲しいのか…。」
自分の感情すら分からなくなっている自分が滑稽に感じて、私は薄笑いを浮かべてしまった。
「家族同然の存在が、突然、無慈悲に殺されてしまった深い悲しみや怒り、痛みを、桜園さんは感じているはずっす。でも、それを受け入れるしかないんっすよ…」
「有松刑事…」
「はい?」
「私、悔しいです。」
「…お察しします。」
「犯人を、許せないです。」
「…………。」
「必ず、償わせてやります。」
「…えっ?!ちょっと、どういう意味っすか?」
「それは…今は、内緒です。」
私は少ない手荷物をリビングに置くと、キッチンに入り、3人分の朝食を作り始めた。
不思議と自然に鼻歌が出てきてしまう。
この歌は、豊がお気に入りだった曲だ。
「有松刑事の分もありますからね。朝はしっかり食べないと。」
「いや…自分はいいっすよ。もう勤務時間になりますし。」
「だめよ、これから仕事なら尚更、しっかり食べて下さい。張り込み、するんでしょう?」
「…はぁ、まぁ、それは……。」
「それなら、椅子に掛けて待っていて下さいね。すぐできますから。」
私が朝食を準備している間に、有松刑事は上司に連絡をしている様だった。
何か深刻そうだった気がするが、それは彼の人柄、職業柄だろう。
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『有松…お前、正気か?お前が、何故、マルタイな訳でもないガイシャの張り込みをする必要があるんだ!』
想像通り、デカ長はそう一喝してきたが、
『彼女…沢園かほりはちょっとヤバイ予感がするんっすよ!』
と切り返したところ、デカ長は気の抜けた声で
『…お前なぁ…』
と呟いた後、
『そう言うなら、納得するまでやれ。何もなかった時には始末書を覚悟しろよ?』
と言って、電話を乱暴に切られた。
『彼女…沢園かほりはちょっとヤバイ予感がするんっすよ!』
そう。
俺の中で、彼女…沢園かほりの感情に大きな変化が起きたのを感じていた。
でも、その正体は、まだ刑事としてのキャリアの浅い自分にははっきりと掌握できなかった。
ただ。
『とにかく、極力、彼女から目を離さないこと。犯人と対峙させないこと。』
それしか浮かばなかった。
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