勘違い自主性の押し付け
日本人学校でも避難訓練がある。自然発火による森林火災の多い都市では、火災による煙は都市部まで覆うこともあるし、勢いが強く動植物が傷つくだけでなく、家や命を失った人も多くいる。火災によって学校が休校になることもあり、それは日本人学校も例外ではなかった。それゆえ、避難訓練は学内からの出火というより、森林火災を意識したものになっていた。
そんな避難訓練での話だ。学内全体に避難訓練の通知がされていたが、明子のクラスにだけ「生徒の自主性を育むため」に、担任は事前に避難訓練の通知を行わなかったそうだ。しかし事前に、明子のクラスメイトが、となりのクラスには避難訓練について大きく書かれているのを見つけた。
「今日、避難訓練があるのか?」
と担任の先生に確認したのだか、はぐらかされた。しかし、あるかもしれないとわかってはいたので、実質通常の避難訓練になり支障はなかったらしい。
明子のクラスだけが知らされなかったのはなぜかと疑問に思い、そっと教頭先生に尋ねたところ、学校としては全クラスに抜き打ちで行いたかったそうだ。明子のクラスの担任の先生の対応は間違っていないらしい。しかし、学校全体で抜き打ちで行うならほかの先生に全く周知されていないのが問題だ。そこを指摘するともごもごと口ごもり、明確な返事はもらえなかった。
2、3年ごとに入れ替わる先生と違い、既に先生方より長く在籍していた明子は、生徒に知らされずに避難訓練があることが今までになかったことも知っていた。避難訓練は、いざというときにスムーズに対処できるよう事前に「学習する」ことを目的に行われているのだと捉えていたので、もしいきなり訓練を行い、慌ててしまって怪我をするというような事態になった時に、どのように対応されるのかと聞いても返答はなかった。
これが担任の先生を失態をかばっての言い訳であったことをあとで知る。スタッフや先生を守る組織内の管理職としては極めて優秀だ。では、だれが子どもたちを守ってくれるのだろう。そこはもう、モンスターペアレンツ扱いを受けたとしても、子どもの不利益になることについては、やはり親が訴えていくしかないのだ。
明子が通っていた日本人学校は、社内で働く人だけを考えてお客様を見ない会社であるのと同じで、生徒の立場に立っての運営ではなかった。まだ社会というものを知らない子どもが相手で、そこには保護者である大人の目も直接はない「聖域」。給与をもらって働く「会社」では成り立たっていかないようなことも、政府に給与が保証されている職種であれば、成り立つということかもしれない。
何も教えられずにいきなり自分で確認して行動しろ。これは大人でも難しいことであるし、現に日本国内の中学校では、手取り足取り指導や情報提供があった後、子どもたちが自分で考え判断できるように段階を踏んだ指導が行われ、生徒は「学んで」いいく。日本に帰国してみると、その指導の懇切丁寧さには驚くほどだ。
日本ではそういった指導を行ってきたであろう日本から派遣された先生方なのだか、海外だとゆるくていいと思うのか、学校として体制がないのか、日本の中学での対応を知らない家庭となめてかかっているのかは知らないが、とにかくやたらに「生徒の自主性」を盾にされた。現地校でさえ、ハイスクールの子どもたちに対してもそんな対応はしないと知っていたが、抜き打ちで避難訓練を行うメリットもある。
問題は、避難訓練の連絡等では他学級では伝達済みであるのに、明子の先生のクラスでだけ自主性を育むため「言わない」ようにしたこと。そして、それに気づいた生徒から「避難訓練があるのですよね?」と確認と質問を自主的に行った際にも、「先生は知らなかった」というように対応したことにある。学内で整合性の取れない対応をしたことは混乱を生じさせるだけでなく、子どもに不信感や疎外感を産まないのだろうか。
「生徒の自主性」を重んじるという名の、明子の担任による指導はそれだけではなかった。たびたび、学校行事を保護者向けの携帯アプリで家に帰って自分で確認しろというのだ。
日本人学校では、現地の学校を模した様々なイベントが行われている。普段は制服着用だが、ハロウィンのコスプレをしていく日やへんてこな髪形にしていく日などテーマに合わせた格好でいく日というのがある。そんな「あるテーマ」の日は学校全体で行われ、クラスごとに撮影をするのが慣例だった。学校から保護者にもイベントのお知らせがあるのと同時に子どもたちは担任の先生から聞いてきていた。
ある日、隣のクラスに立ち寄った明子と同じクラスの英治が「明日はクリスマスのモチーフを身に付けてくるように」と黒板に伝達されていることに気づいた。クラスに戻った英治は、自分たちのクラスだけイベントについて聞かされていないことをクラスメイトに確認した。英治は担任の先生が教室に入ってくると同時に、みんなの前で
「明日はクリスマスのイベントがあるんですね。私たちも参加ということでいいのですよね?」
と確認した。すると先生は驚いたように
「聞いてないなぁ。あとで聞いておくね。」
と答えた。
その時点で不審に思った子どもたちだが、後で再び尋ねると
「先生たちは参加するんだって。あなたたちは親向けのアプリで自分たちで確認して。自分たちでなんでもすること。それが自主性だし、日本ではみんなそうしているんだから!」
と答えたのだ。この話は帰宅した明子が親向けアプリの通知をみせて、と聞いてきて知った。
「保護者向けのアプリで学校行事を自分で把握しなければならない」
今までそんな話は聞いたことがなかった。親から教頭に確認をしてみると、その必要はないし、必要な連絡は先生から生徒に行うと聞いて安堵した。そこで、単に明子の担任の先生だけがそのクリスマスのイベントについて聞かされていなかったのかと思った。しかし、1週間前には当然に伝達されており、その日の朝にも全体に伝えているとのこと。学校では毎日伝達会議をするし、水曜日の放課後には時間をかけた会議をして共有するという。「知らなかった」と子どもたちに言ったのはどういう意図であったのかは、先生の使う「自主性」という言葉にあるようだった。
明子の担任は度々生徒に「伝達」を行わず、保護者向けのアプリを見て「自分で」情報を取りに行き、確認しろと指導している。あらかじめ情報を与えられないで、自分たちで判断して物事を行う訓練も大切だとは思う。しかし、自ら質問している生徒たちに回答や説明もない行いが、学校が生徒のこれからを考え「自主性」を育むために行っている教育としてはいかがなものかと思わずにはいられなかった。
「自主性」、教育者にとって思えばこれほど便利な言葉もない。自主性に任せるといえば聞こえはいいが、本当の自主性を育むためには、本来は根回しやそれまでの子どもをよく見るサポートが必要だ。放置し、質問に答えず、自分たちで何とかするようにという、谷に突き落とす対応を行う学校は、それなりの体制もサポートもある。しかし、生徒が質問しているのにはぐらかすことは自主性を育む対応とは言えないのではないか。
生徒の自主性をはき違えて指導を行う事の理不尽さを感じた。
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