第37話 うずまく殺意
「……こっちもずいぶんと本気だね」
何食わぬ顔で帝国軍に潜り込んでいたホウエンは、訓練休みの今日、のんびりとした様子で帝国軍の拠点を見回っていた。せわしなく走り回る兵士たちには、わずかに張り付いた疲労を打ち消して有り余る激情が宿っていた。戦争という狂気の熱にあてられた兵士たちは、自分たちがこれから何をしようとしているのか――人殺しをしようとしていることに――気づくことなく、あるいは気づかないふりをして必死に目をそらしながら、今日という日を生きていた。
「結構集めたみたいだけど、皇国にぶつけるにはちょっと足りないかなぁ。第一、これがあるしね」
そんな帝国軍の陣地の中。雑多な唸り声が響く巨大な天幕を見ながら、ホウエンは薄らと笑った。その手で腰に差した漆黒のナイフをなでながら、これともしばらくおさらばかと、少し寂しそうに告げた。
そんな空気も、けれど次の瞬間にはどこかに消え去ってしまって。そこには相変わらずとってつけたような微笑が浮かんでいた。
「おい!何やってんだホウエン!」
「やぁ、ジージス。なに、みんなが慌ただしく動き回っている中でのんびり本を読む気にもなれなくてね。ちょっとあたりを歩いていたんだよ」
「ったく、こんな状況で本を読もうなんて考えられるのはお前だけだろうよ」
ホウエンに声をかけてきた新米兵仲間のジージスは、短く刈り上げた茶髪を掻きながら、そわそわと落ち着かなさげに視線を周囲にさまよわせた。
「……君もずいぶん浮足立ってるね?」
「お、おお!なんたってもうすぐ戦争だからな!そりゃあ気も高まるってもんだよ!」
「そう、ボクは早く戦いが終わって、のんびりと趣味に過ごせる時間が欲しいんだけどね」
そう告げるホウエンは、趣味を尋ねてくる同僚に「魔道具作りだよ」と答えた。魔道具、とやや素っ頓狂な声を彼が上げたのは、帝国では魔道具があまり一般的でなく、さらには彼が学問を好まない脳筋気質な男だったから。そして――
「魔道具って、あれだろ。皇国が開発してる兵器って噂の」
「多分その兵器も魔道具だろうね。でも、魔道具っていうのは魔力を使って機能するもののことで、別に兵器に限ったことじゃないんだよ。例えば帝都を照らす街灯も魔道具なんだよ」
知らなかったぜ、と男は目を瞠ってつぶやいた。そんなものか、とホウエンは少しだけつまらなさそうにつぶやいた。
「それで、そんなに殺気立ってるのはどうして?」
わずかに汗をにじませ、訓練用の木剣を握る彼が今にも戦いたくて仕方がないといった様子なのを再度確認して、ホウエンはそう尋ねた。それに対して、男は凶悪な笑みを浮かべて、笑った。
「んなもん、皇国のクソどもを早く殺しに行きたいからに決まってるだろ」
「ふぅん、そんなに恨みがあるの?」
「……ああ。俺の両親も妹も、皇国のクソッタレどもが放った魔法で、街とともに死んじまったからな。故郷と、家族と、同時に奪われたんだ。だったら俺も、あいつらを同じ目に合わせるのがスジってもんだろ」
そうかな、と小さくつぶやいて、まあがんばれ、とホウエンは気の抜ける声で男の肩をポンポンとたたいた。その肩は、汗でじっとりと湿っていた。
うげ、と顔をしかめたホウエンは、さっさと体を流してきなよ、と男を水場に行くように促した。
最初からそのつもりだったんだよ、とぶつくさ告げる男は片手をひらひらと振り、肩に木剣をトントンと当てながらホウエンに背を向けて去っていく。
その背が消えていくまで見送って。
「……やっぱりこっちにはアウローラちゃんはいないよねぇ」
喧騒に包まれた帝国軍の中で、ホウエンはちいさくつぶやいた。
着々と、まるで死に急ぐように戦争の準備は急ピッチで進められた。国境で向かい合う帝国と皇国の軍勢は、実に十万を超える大軍となった。そんな両国は、今にも爆発しそうな自軍の高揚した空気を感じながら、敵の出端を叩くべく、全身全霊をかけてぶつかり合った。
泥沼の戦いが、戦争という悲劇が、始まった。
ぶつかり合う帝国と皇国の兵士たちは、目の前に存在する憎き敵へと、己の得物を叩きつけた。
皇国兵は、呪術というものによって無辜の市民を襲うという外道な行為に出た帝国への報復に心燃やして。言いがかりをつけて戦争を始めた帝国へと、正義の鉄槌を下すために。あるいは、帝国兵に殺された仲間の、友人の、家族の、仇を討つために。
帝国兵は、大規模な魔法によって街を滅ぼすという下劣な行為に及んだ皇国への憤怒に心燃やして。大量虐殺の引き金を引いた皇国と、その国への愛国心を隠す怪物たる民を滅ぼすために。あるいはやっぱり、皇国兵に親しき者を殺された自分と、同じ痛みを敵に与えるために。
ぶつかり合う兵士たちは、狂気に身を染めて敵を殺し、殺され、わずか一時間ほどで無数の屍が平野に積みあがった。
そこには戦術と呼べる戦術もなく、ただ狂気と殺意と敵意があった。
殺意が殺意を呼び、敵意が敵意を呼び、死を恐れることなく、一人でも多くの敵を倒して、死んでいく。
アウローラが教えられた通りに育った兵士たちが、他者を慈しむ能力を持つありふれた人間であるはずの一般兵たちが、狂気に堕ちて剣を振るっていた。
誰も帰ってくることのない救護室にて、回復兵たちも敵国の兵が一人でも多く死にますようにと、そう祈っていた。
やがて戦場には魔法が飛び交い、無数の魔法が皇国兵を襲った。皇国軍はこれに対抗すべく、帝国軍の魔法発射地点に大規模魔法を発動することを決定。放たれた凶悪な一撃が、周囲にいた帝国兵と、そして大地を焼き滅ぼした。
火柱が、狂気に飲まれていた帝国兵にわずかな平静を取り戻させた。彼らの心に、一気に恐怖が走り抜けた。
そしてそれは、皇国兵を活気づけるのに十分なものだった。
戦場の士気が、一気に皇国側へと傾いた。
それを敏感に察知した帝国は、ここで虎の子の魔物たちを戦場に解き放つことに決めた。
そうして、帝国は呪術師たちを総動員して帝国中からかき集めた魔物たちを皇国へと向けて。
皇国は、ドラゴンの姿をした魔道具――とある一振りのナイフを核としたドラゴンゴーレムを、帝国へと向けた。
二つの殺戮兵器が、解き放たれて。
魔物たちが、帝国兵と皇国兵を、分け隔てなく襲い始めて。
ドラゴンゴーレムが、帝国兵と皇国兵をまとめて漆黒のブレスで消し飛ばした。
そうしてようやく、一般兵たちは我に返った。自分たちが国にとって、いくら消耗しても構わない存在でしかないと気づいて。
けれどその気づきは、少しばかり遅かった。
怨嗟の声が、絶望の悲鳴が、混乱が、戦場に広まる。
生き残りたいと一心に願う者も、逃げ惑う人も、恐怖に心壊れて笑う者も、これ幸いと目の前の敵兵を殺す者も。
皆が、狂気と殺意にからめとられて、死んでいく。
そうして、死と死体が山となって積みあがるそこで、帝国が誇る魔物の群れと、皇国が誇るドラゴンゴーレムがぶつかり合った。
怪獣大戦争の様相を呈する戦いが繰り広げられて、その余波が弱者に過ぎない兵士たちを十把一絡げに吹き飛ばす。
死の旋風が吹き荒れて、無数の魔物が噛み千切られ、吹き飛ばされ、肉塊となって消えていく。魔物たちもまた、噛みつき、爪を振り下ろし、魔法を放って、ドラゴンゴーレムを傷つける。
そうして、半刻。
残された勝者たるドラゴンゴーレムも動きを止めて、戦場に一瞬の停滞が生じた。
ドクン――心臓を握りつぶすようなプレッシャーが、周囲へと広がる。
ドクン、ドクンと、脈打つように、ドラゴンゴーレムが漆黒の霧を放ち始める。
来たか――ホウエンが、鉛のようによどんだ瞳でドラゴンゴーレムを見つめながらつぶやいた。
無数の死が積みあがったそこで、無数の悪感情を飲み込んで、そのドラゴンゴーレムは――あるいは想定通りに――暴走した。
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