第26話 美しき世界
「アウローラ、今日の修業は休みだ」
修行を始めてから、三か月。雪が降り積もった一面銀世界の中で、アウローラは今日も剣を振ろうと木剣片手に家を出るところだった。
イエルの言葉に、アウローラは不思議そうに――そしてやや険のある表情で振り返った。
「……一日訓練しないと、勘を取り戻すのに三日かかるって言ったのはイエルだよ」
「ああ、確かにそう言った。だが、いくら何でも毎日朝から夜中まで剣を振り続けるというのは不味い。……アウローラ、お前最近、何も考えずに剣を振っていないか?」
そう聞かれて、アウローラはピクリと眉を動かし、思索にふける。最近の記憶を思い出そうとして、剣を振った記憶しか浮かんでこなかった。後はせいぜい、イエルに剣であしらわれる記憶程度。
振り下ろす一撃一撃に思いを込める――そんなことは、アウローラの頭から抜け落ちて久しかった。
「今のお前は、心を置き去りにして剣を振るっている。そうして行きつく先は修羅の道だ。俺はお前にそんな未来を歩んでほしくない」
そう言いつつ、イエルは自分が「アウローラは間違いなく修羅の道を進むだろう」と確信していることに気づいていて苦い顔をした。戦争を止める――そのために、たかが一人のちっぽけな存在ができることは少ない。どれほど強くたって、数の暴力を前にしてはなすすべはないし、何より世界には自分より強い存在が必ずいる。力によって戦争を止めるなんて、そんなことは無理だとわかっていて。
けれど、かつて自分が望み、そして諦めたその思いを。受け継ぐように現れたアウローラを、イエルは手放せそうになかった。その思いを否定できなくて、そしてイエルには否定する権利もなかった。
真っすぐな、光を宿したアウローラの瞳を見ながら。どうかその目から光を失わないでくれと願いながら、イエルは諭すように言葉を続ける。
「だから、心に余裕を取り戻すべきだ。自分が何のために剣を振るのか、それを再確認するための時間が必要だ。それに何より、俺はお前に、この世界の美しさを知ってもらいたい。戦争だ何だと灰色の世界はこんなに美しいんだと、この世界に生きる意味は確かにあるんだと、そうお前に伝えたいんだ」
子どものように輝いたイエルの目を見て、アウローラは小さくうなずいた。イエルがそれほどに言葉に熱を込めて話す世界の美しさを、アウローラも知りたいと思った。知って、共有して、語りたいと、他でもないイエルと話したいと、そう思った。
そうして、イエルはアウローラを連れて、まだ空が暗い夜明け前から家を出て森の奥へと歩き始めた。
気配を読んで魔物を避けて、戦いにならないように進む。今日は休みだとわかっていて。けれどアウローラは、そんなイエルに少しでも近づくべく、その一挙手一投足を目に焼き付けながら森を進んだ。
サクサクと雪を踏み、銀色の世界に二つの足跡を残しながら、アウローラとイエルは進む。時折交差するように魔物や動物の足跡を乗り越える。
「……スノウバード」
真っ白な羽毛に赤い目をした鳥と、目が合った。雪の中。くるくると揺れる黒混じりの赤い目は、どことなく可愛らしく見えた。
「スノウバードを見つけるとその日は晴れだって話を聞いたことがあるか?」
「ううん、ないよ。有名な話?」
「あー、どうだろうな。そういえば俺も辺境の村で聞いたことがあるだけだな。その言い伝えによると、スノウバードたちはとんでもない鳥目で、十分な日差しのある晴れた日じゃないと周囲がよく見えないらしい」
「……陽が差してる雪山って眩しいから、むしろ曇りの方が見やすくない?」
さぁな、鳥のことはよくわからん――自分から話を回しておいて肩を竦めて返すイエルに、アウローラがふくれっ面を返す。そして、アウローラの斜め先、雪をずっしりと枝に乗せた木に視線が吸い寄せられる。
こっそりと、イエルに気づかれないように気配を殺して枝をつかんだアウローラが、強く枝を引っ張って揺らす。
ぐわん、と揺れた枝から、積もっていた雪が一斉に落ちた。
真白な雪の塊が、勢いよくイエルの頭に降り積もった。
「冷た⁉」
「ふふっ、イエル、怒ったときのスノウバードみたい」
ぶわっと羽毛を膨らませて顔を縦に伸ばして威圧するスノウバードそっくりに、イエルの頭部に雪が乗っていた。
「……あんなトサカ頭はご免だよ」
ふるりと首を振って雪を振るい落としたイエルは、未だに小さく笑っているアウローラを見て、にやりと口の端を吊り上げて。
素早くしゃがむと共に、手近なところの雪をひっつかみ、握り固めてアウローラの顔に投げつけた。
ばふ、とアウローラの顔面に着弾した雪玉が弾ける。
口に雪が入ったアウローラが、すっぱいものを食べたような顔をする。
「冷たい」
「だろうな。さっきのお返しだ」
「私も仕返し」
いそいそとかがんで雪を集めるアウローラ。だが、創り上げた雪玉を投げるより先に、イエルの二投目がアウローラの持ち上げた顔を襲った。
視界が白く染まり、顔が冷たくて、そしてアウローラの片手の中にあった雪玉は、雪原の中へと転がって埋まってしまった。
「卑怯だ」
「卑怯じゃないだろ。腕一本と二本だぞ?」
ぷんすかと形容されそうな顔をしたアウローラが、かがむと同時に雪を両手に握る。握力で固めた小さな雪玉を投げるも、一方は途中で崩壊してバラバラの雪になり、もう一方はイエルの軽やかな身のこなしによって回避されてしまう。
「避けるの卑怯だよ」
「冷たいのは嫌だからな」
袖で顔を拭ったイエルが、アウローラの雪玉に当たるものかと、雪の中をずんずんと歩き出す。
両手に雪玉をつかんだアウローラも、その後を追って駆けだした。
「…………冷たい」
「そりゃあずっと素手で雪玉を持ってればそうなるな。息でも吹きかけとけ」
凍傷にならないようにしろよ、と告げるイエルに従って、アウローラは真っ赤になった両手に息を吹きかける。白い息が、わずかな熱を手に届ける。けれどかじかんだ手はそう簡単には温まらなくて。
「えい」
「うお⁉」
イエルの大きな手を、アウローラが両手で包み込む。
突如手を覆った冷たいものにイエルは困惑し、それがアウローラの冷えた手だとわかると、小さくため息を吐いて、振りほどくことなく歩き出した。
両手で握り続ける体勢がしんどくなったアウローラは、そのうちに片手でイエルの手を握り、二人並んで銀世界を歩いた。
「小さい手だな」
「イエルの手が大きいんだよ」
「だろうな。アウローラより手が小さかったら泣くぞ」
「泣いてもいいよ?慰めてあげる」
「大の男がそう簡単に泣き顔を見せてたまるか」
「……泣かないのは健康に悪いよ。泣きたくても泣けないよりは、ずっといい」
次第に温まって来た手で、アウローラはイエルの大きな手をぎゅっと握りしめる。見下ろすような形で視線を下に向けたイエルと、アウローラが視線を合わせる。
アウローラは、イエルの瞳の奥に、大きな悲しみの色を見た。胸の内に巣くって外に出すことのできていない大きな悲しみ、あるいは絶望。はたまた、己への怒り。
「大丈夫だよ。私は、戦争がどんなところか知っている。戦争は、大人も子どもも、みんな等しく壊しちゃうものだって知ってるよ。だから、取り繕わなくてもいいよ」
軽く、アウローラの手が振りほどかれる。離れていくイエルの手を、拒絶されたと思いながらアウローラは呆然と眺めて。
「ったく。子どもが余計な心配してるんじゃない」
「……子どもじゃない」
髪をすくように頭をなでるイエルの手の動きを感じながら、アウローラはふんと顔を逸らした。その目が、木々の先に広がる明るい世界を見つける。
ゴウゴウと、水の音が聞こえてきていた。
「……ああ、もうすぐそこだな」
再び、イエルはアウローラの手を握って歩き出す。また冷えるといけないからな――そんな言い訳をするイエルの耳は、寒さのせいだけとは思えない赤さをしていて。
ふふ、と頬を緩めたアウローラは、駆け足でイエルの先へ進み、その手を引くようにして前へと向かった。
点々と立っていた木々が、消える。
その先には、大地すらなくて。
右側に、そびえたつ広い絶壁があり、そこから水が真っすぐ下へと落ちて行っていた。
透き通った水が流れる大きな瀑布が、そこにあった。
一面が雪に覆われたその場所に、飛沫が霧となって立ち込める大きな滝。ガラスのように透き通ったつららが伸びる場所があれば、差し色のように苔の緑が雪の下に覗いているところもあって。
「……秋の方がきれいだったな」
そんな無粋なことを言うイエルの言葉さえ耳に入ることはなく、アウローラはかつてない大自然の息吹を前に圧倒されていた。
感じる全てが、アウローラの心をどこまでも広げていく。飛び散る水しぶきの音、流れて来た氷が割れる音、木々が揺れ、枝に降り積もっていた雪が落下する音、遠くから響くかすかな鳥の鳴き声。肌に刺すような寒気に、吹き抜ける乾いた風、きゅっと固まる足元の新雪、風に吹かれて舞い散る雪の白、氷の半透明、木々の焦げ茶色、岩肌の褐色や灰色、苔の緑、空の青、雲の白。
「すごいだろ。こんなにもこの世界は、美しいんだ」
澄んだ冬の空気を、大自然の息吹を、大きく吸い込む。
体が、キンと冷えて。思考がスゥッと冴えていく気がした。
広がる世界が、まるで命吹き込むようにアウローラの体に宿る。
ぎゅっと、手を握る。その力が、手を伝ってイエルの体に宿るようにと、願いながら。
「ありがとう。……来てよかった」
だろ、とイエルは目尻を下げて小さく笑った。アウローラも、すがすがしさでいっぱいの心で、笑った。
そうして二人は、飽きることなく水が落ちていく光景を眺め続けた。
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