第25話 恐怖

 目の前にそびえる、緑の肌。それは、イエルが倒したドラゴンの皮。

 ドクン、と心臓がひどく痛んで、手足が震えた。

 恐怖に息が荒くなり、視界が明滅した。


「アウローラ!」


 イエルの声が、聞こえた。

 心静めろと、自分に言い聞かせる。心殺すのではなく、静める。そして、強い覚悟を宿して、前を向く。

 握る剣を、ゆっくりと持ち上げる。

 その覚悟を示すように、まっすぐに剣を振り下ろして。


 そして、竜鱗に覆われたその肌に、木剣はあっさりとはじかれた。







 アウローラのトラウマにイエルが気づいたのは昨日のこと。まるで緑を避けるように森の中で不思議な動きをしていたアウローラに気づいたイエルは、観察の結果アウローラがあの緑のドラゴンにおびえ、緑色すべてにドラゴンを見ていたことを見出した。


「……いいか、恐怖すること自体は悪くない。それは自分が生きようとする本能だ。だが、おびえすぎるな。少なくとも、世界に満ち溢れる緑すべてにおびえていたら何もなせないぞ」


 いわれずともわかっていた。森の緑におびえるなど、薬屋として恥でしかなかった。森に、自然に、申し訳なかった。

 けれど、視界の半分ほどを緑色が占めると、それだけで心臓が握りつぶされたように痛くなった。

 木漏れ日の金色に、ドラゴンの瞳を重ねずにはいられなかった。

 激しく揺れるこずえの音に、ドラゴンの歩みの振動を重ねずにはいられなかった。


 はぁ、と小さくため息をついたイエルは、それからアウローラのトラウマを克服する計画を練った。


 ドラゴンの血肉は魔物にとって己を強化するごちそうであり、当然以前イエルが狩ったドラゴンの死体は骨一つ残さずに森から消えていた。けれどアウローラの訓練のためにと、イエルは新たに一体のフォレストドラゴンを狩り、その巨体をアウローラの前へと引きずってきた。


 ずりずりと大きな振動を立てて森を進む緑の巨体を見て、アウローラは腰を抜かして地面に座り込んだ。けれどイエルは無情に、アウローラにドラゴンを切り刻むように命令した。死体を傷つける剣士にあるまじき行為だと思ったが、今はアウローラの心の回復が優先だった。


 そうして、おびえながらも剣を握ったアウローラは、分かり切ったことだがドラゴンの鱗を切り裂けずに木剣を跳ね返された。


 けれど、アウローラは諦めなかった。心に荒れ狂う激情を宿し、アウローラは剣をふるった。何度も、何度も、魔力を木剣に送り込んで、何度も。

 はじかれるたびに木剣は傷つき、けれどドラゴンの皮の一部に的確に叩き込まれ続けた剣は、確実にその場所に筋を作っていた――切れては、いなかった。


 その鬼気迫る様子を、イエルはじっと見つめていて。そして、ピクリと眉尻を上げて素早く周囲を見回した。獣の気配がした。静かな森に潜む、狩人の気配。

 アウローラに危険を知らせようと口を開きかけ、イエルは動きを止めた。

 アウローラの纏う雰囲気が一変していた。鬼気迫る様子から、凪のような静寂へと。けれどそこには、敵の接近に反応する剣士としての立ち居振る舞いがあった。

 手を出すべきか考えて、イエルは背後の木の幹に背を預けて戦いを見守ることにした。


 ボコボコボコ――周囲の地面を突き破って表れたのは、フォレストドラゴンの眷属であるフォレストスネークたち。大きいものでは全長数十メートルに至る緑の大蛇たちが、アウローラへと怒りの視線を向けていた。


 わずかな恐怖が、アウローラの心に鋭い痛みを生み出す。

 けれど、そこにドラゴンはいない。無数の蛇だけが、目の前で敵意を見せていた。


 汗をにじませながら、アウローラは頼りない木剣を強く握る。この二か月で手になじんだ木剣が、まるで手に吸い付くようにぴたりとはまるのを感じた。

 冬の風が、汗ばんだ肌に吹き付ける。

 ゆっくりとにじり寄る大蛇たちへと、アウローラは剣をまっすぐに構えて。


 そして、死闘が始まった。






 地面を這い、あるいは折り曲げていた体を勢いよく伸ばして襲い掛かってくる蛇たちの体を、アウローラは間一髪のところで躱していく。

 その間隙を縫って剣をふるう。

 動きは十分。場を把握し、巧みな位置取りはたかが二か月剣を振っただけとは思えない力量だった。それは、アウローラが必死に覚えたナイフ使いと、生き抜くために身に着けた動体視力と観察眼、さらにはこの二か月死ぬ気で剣を振った成長のあかしだった。

 だが、足りない。

 たかが木剣は、アウローラのひ弱な力では大蛇の皮を切り裂くには全く攻撃力が足りていなかった。


 鉄の剣を、望んで。

 けれどそんなものを振り回して、アウローラはこの数を相手取れるようには思えなかった。

 ナイフが懐かしかった。それなりの切れ味を誇るあの刃なら蛇たちをたやすく切り裂けただろうかと、そんなことを思った。

 そんな余計なことを、考えた。


 その隙を、大蛇たちは逃さなかった。

 これまで見せていなかった攻撃を、アウローラに繰り出す。

 地面に叩きつけられた尻尾が、無数の石をアウローラへと弾丸のように飛ばした。

 砂埃に交じって飛ぶその攻撃が、アウローラの体を穿つ。

 額にぶつかった石で血が流れ、脳が揺さぶられてアウローラは膝をついた。


 勢いよく迫った蛇の尻尾が、アウローラへと叩きつけられる。

 さすがにまずいかと、イエルは踏み込む動作をして。


「ああああああああッ」


 前へと、アウローラが一歩を踏み出した。

 歯を食いしばり、揺れる脳に鞭打って、前へと走る。

 迫る尻尾に木剣を添えて、その軌道から自分の体を弾き飛ばす。

 地面に叩きつけられた尻尾が小石を飛ばす。強風がアウローラの体をあおるが、体勢を低くして地面すれすれを疾走するアウローラにはほとんど影響しなかった。


「はああああああッ」


 蛇の体に飛び乗って。その頭部へと、アウローラが飛躍する。

 生き残るために、アウローラは両手に握った剣を振り下ろした。

 その剣が、金色に輝く蛇の瞳へと振り下ろされた。


 大蛇の一体が絶叫する。

 追い詰めていたはずの獲物に一撃を食らったことに、ほかの蛇たちが動揺した――のも一瞬のこと。弱者の手痛い反撃に、むしろ蛇たちが怒り狂った。

 ぐぐ、と頭を後方へ下げた蛇が喉元を膨らませる。

 勢いよく顔を前に突き出すとともに、その口内からうっすらと紫がかった霧がアウローラへと噴射された。

 大蛇の毒が、アウローラを襲う。

 とっさに背後に飛びのいたアウローラだが、わずかに吸ってしまった毒が、その体の制御を乱す。

 ドクン、ドクンと心臓が強く脈打った。

 体がゆっくりと異様な熱を帯びていく。

 視界がかすんだ。

 強烈な毒が、アウローラを犯していく。


 緑の影が、視界をよぎった。

 反射的に飛びのいたアウローラは、けれど後方から迫っていた尻尾に気づかず、勢いよく吹き飛ばされて地面を転がった。


 額から流れる血で、視界が赤く染まった。全身が激しく痛み、熱を帯びていて。

 うごめく緑のその先で、ゆらりと黒い影が揺れた気がした。


「――待って、イエル!」


 動き出そうとしたイエルを、アウローラは全力で叫んで止めた。自分はまだやれるからと、だから手を出すなと、獣のようにギラギラした目を蛇たちに向けたアウローラが、体を前傾させる。


 ――あぶないよー?

 ――死んじゃうかも?


 耳鳴りの奥で声が聞こえた気がした。

 その声を一喝して、アウローラは回復してくれと願った。


 ――仕方ないなぁ。

 ――はーい!いっくよー!

 ――かいふーく!


 緑の光が、アウローラを包み込んだ。急速に痛みが消えていく。毒の症状は消え、けれど体内に入った毒そのものが消えるわけではないのか、浅い痛みとわずかな発熱が続いた。


 膝を曲げたアウローラが、走り出す。

 迫る蛇の頭部を横っ飛びで回避。叩きつけられた尻尾に木剣を合わせて、その下を滑りぬける。

 前へ、前へと走る。

 その剣に、全力で魔力を注ぎ込みながら。

 願う。


「力を!」


 求める。


「敵を斬る力を!」


 祈る。


「守るために!二度と、同じ失敗をしないために!」


 ――しょうがないなぁ。


 どこかあきらめのにじんだ声が、聞こえた。

 その瞬間、アウローラの握る木刀の質が変わった気がした。その剣身に宿る空気が、変化した。

 成功した――イエルが、目を見開きながら見つめる先で。


 淡い緑の輝きに包まれたアウローラが、蛇めがけてとびかかった。

 ああ、とアウローラは気づいた。緑はいつだって自分を助けていたと。この色は、回復のあかしで。アウローラの成長のあかしで。

 だから――


「ごめんねッ」


 自分の成長の糧になってくれと。

 飛び上がったアウローラは、そう叫びながら一体の大蛇の頭部へと、その木剣を振り下ろした。

 血が飛び散る。

 頭部を切り裂かれた大蛇がもだえ苦しみ、そして、ゆっくりと動かなくなった。

 無秩序に暴れまわる大蛇の胴体にぶつかって吹き飛ぶアウローラは、けれど再び地面を転がることはなかった。

 とすん、とあたたかな抱擁。

 イエルに抱き留められたアウローラの耳朶を、優しい声が揺らす。


「合格だ」


 そして、次の瞬間。

 一陣の風が吹くとともに、強烈な殺気が大蛇たちに叩きつけられた。

 イエルから放たれたその威圧に、大蛇たちはたじたじになり、そして我先にと逃げだした。


「お疲れ様」


 ぽん、と頭にのせられた手のあたたかさを感じながら、アウローラはゆっくりと意識を手放した。

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