第4話 新米回復魔法使いの戦いの場
アウローラの朝は早い。まだ日も上らないうちから、患者が使ったシーツやマット、包帯を洗濯する。周囲にも生えている効能のある薬草を採取し、乾燥や加熱などのひと手間を加える。
そのあたりで夜が明け、日が昇るのを確認したら拠点へと戻り、朝食を摂る。
昨日の治療者の状態を見て、必要なら包帯やガーゼを取り換える。高熱に苦しむ者には解熱剤を処方し、不幸にも敵兵に毒を貰った兵士の経過観察をする。
そうする頃には今日の戦線が切って落とされており、遠くから戦いの音がし始める。
「……中央戦線への派遣、ですか?」
「そうだ。現在押されている戦線中央部への人材の融通が決定した。この命令は帝国軍総帥に正式に認可を受けた名誉ある任務である」
鋭い眼光をした初老の男を前に、アウローラとユリーカ、そしてもう一人の少年回復兵が並んでいた。
ユリーカは質問に対する男の返答を受けて、これは駄目だ、と内心で頭を抱えた。五女とはいえ貴族の令嬢であるユリーカはその話術を使って戦場でわずかとはいえ情報収集に当たっていた。そして、よその戦場から流れて来た比較的軽度の兵士から、中央付近の苛烈な状況を耳にしていた。
曰く、中央には黒の死神と呼ばれる気狂いの類が存在し、彼を中心に皇国は帝国の砦の多くを潰して回っている――と。
死神などという痛い名前を思い出しながら、ユリーカはせめてアウローラだけでもこの場に残すことはできないだろうかと考え、やっぱり首を振った。
なぜなら帝国軍総帥とはすなわち皇帝を指すから。皇帝が認可した移動命令に一兵士が諫言を行ったとあってはどんな処罰が下るかわからなくて。そして万一アウローラをこの場に残すことができたとしても、皇帝の命令に背いたという事実をもとにどんな罰がアウローラに与えられるか分かったものではなかった。
逃げ場はない。端から予想はしていたがここまで苛烈だったかと、ユリーカは内心でため息を吐きながら上官に承諾の返事をした。
「いい、アウローラ。何かあったら全力で後方へと避難すること。いいね?」
両肩をつかんで念を押すユリーカに、アウローラはこくこくと頷きを返した。それから、ちらりと同行するもう一人の人物へと視線を向けた。ユリーカと同じか、それよりもう少し年上と言ったほどの青年回復兵。その顔は青白いどころかもはや土気色をしていて、今にもその場に膝を付いて吐きだしてしまいそうだった。
どう声をかけるべきか悩んでいるアウローラの頭部に、ユリーカの手が置かれる。
「……まずは自分のことだけ考えるべきよ」
手を、少しだけ持ち上げて。それからアウローラは、その手首を反対の手でぎゅっと握った。ドクン、ドクンと脈が手のひらに伝わった。
私はまだ、生きている――
遠くから香って来る死の匂いを感じながら、アウローラは移動用の馬車へと振り向いて。
「アウローラッ」
感極まった叫び声と共に、一人の少年がアウローラへと走り寄ってくる。その顔に焦点を結んで、アウローラの視界はにじんだ。
茶色のふんわりとした髪を揺らす、一人の少年。見覚えのある、懐かしい顔がそこにあった。
「レイン⁉」
がばり、と抱きしめられた腕の中でもがきながら、アウローラは少年の名前を呼んだ。故郷で離ればなれになってしまった少年が、レインがそこにいた。
「久しぶりだね、アウローラ。元気だったよね?大丈夫だよね?怪我はしていないよね?」
怒涛の質問を前に、アウローラは目を白黒とさせる。そんなアウローラの混乱に気づいたユリーカが、レインの首根っこをつかんで、アウローラから引っぺがす。
「誰かな、君は?」
「僕はレイン!アウローラの……その、将来の夫、です」
へえ、とユリーカがからかい混じりの笑みを浮かべる。顔を赤くしたアウローラが、視線を足元へとそらす。バタバタともがいていたレインが、ユリーカの腕の中から降ろされる。
そうしてすぐに、今度は抱き着くことなくレインはアウローラの手を取り、しげしげと観察を始める。
優しく触れるその手がこそばゆくて、ひぅ、とアウローラが小さく声を上げる。
「ずいぶんカサカサだね。苦労したんだよね。ご免ね、来るのが遅くなって。でも、これからは僕も一緒だから。僕が、アウローラを守ってあげるから。だから、安心して」
「レインが、私を……?」
そう、とレインは胸を張って、真っすぐにアウローラを見つめて告げた。
新米兵士としてアウローラに同行することになったんだ、と。
「だから僕が、からなずアウローラを守ってあげるから」
あ、それからこれ、アウローラのおばあちゃんが届けてって――そう言って薬草の茎で編んだお揃いの組紐を手渡し、レインは笑った。白い花――レインに手渡されたあの花の茎で編まれたからし色の装飾を、アウローラはきゅっと両手で握りしめた。
ヒュゥ、とレインの同僚である新米兵たちの口笛の音が、拠点に高く響いた。
「将来、かぁ」
ややからかいの混じった、けれど真剣なユリーカの声を聴いて、アウローラが不思議そうな視線を向ける。
ガタガタと揺れる馬車。窓枠に肘をついたユリーカが、ちらりと視線をアウローラに向ける。
「……将来のことよ。この戦争が、終わった後の話」
戦争が終わった後――アウローラが繰り返す。そして、考える。
戦争が終わった後、私はどうしているのだろうかと。私は、レインと一緒に、またあの田舎の村で静かに暮らしているのだろうかと。少しだけ頬が熱を帯びて、けれどその熱は自然と消えていった。
心が、その可能性を否定していた。落ち着けと、そんな感情はこの場に必要ないと、アウローラを諫める。
「……この戦争は、きっと終わりませんよ」
小さな、諦観のこもったため息のような声が、揺れる馬車の中に響いた。無駄に体力を消費して魔力不足にならないように――そんな配慮を受けてこの馬車に乗せられた回復兵の一人の青年が、濁った瞳をユリーカとアウローラへと向ける。
「帝国も皇国も、きっと今後さらに人材を、資材を投下して戦争を続けますよ。このひろがった火種は、悪意は、どちらかの国が亡びるまで続きますよ……きっと、ね」
ぼんやりと馬車の天井を見上げながら、青年は告げる。
その体には、死の気配がこびりついていた。そう、アウローラには思えた。
「まあ国の滅亡とはいかなくても、どちらかのトップが変わるまで戦いは続きそうよね」
皇国に並ならぬ恨みを抱く皇帝が死んで帝国の足並みが崩れるか、皇国トップの皇王が死んで皇国が揺らぐか。どちらの終わりも、諸国乱立と吸収合併という更なる混沌の幕開けに思えてならなくて、ユリーカは小さく嘆息した。
不思議そうなアウローラの視線を受けて、ユリーカは何でもないと首を振る。
「……仲がいいんですね」
青年が小さくつぶやく。
「そう、ね。多分一人だと戦場の空気にやられていたと思うわ。だからアウローラとは、持ちつ持たれつな感じでやっているわ」
「ユリーカさんは、優しくて、話していて心が軽くなる、大事な人……です」
ふぅん、と気のない返事をこぼして、青年回復兵も先ほどのユリーカのように窓の外を眺める。その暗い目が見つめるのは、どこまでも広がっていそうな荒野。
帝国と皇国の緩衝地帯でもあるやせた大地に、馬車は乗り出そうとしていた。
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