第3話 戦地と死

 戦場――それは無数の死が積み重なる場所なのだと、アウローラは理解した。

 怨嗟のうめき声、広がる血のにおい。血のにじむ包帯を身に着け、力なく座り込む兵士たち。

 暗い、光の無い瞳がアウローラたちを貫いた。

 ヒィ、と誰かが小さく悲鳴を上げた気がした。

 回復魔法使いとして戦場に連れてこられたのは、男四割と女六割。その皆が、恐怖に顔を引きつらせていた。

 ふん、と鼻息一つ鳴らして誘導係の男性騎士は歩みを止めることなく進んでいく。

 蔓延する低迷した空気に飲まれながら、アウローラはその後を追った。


「お前たちにはここで、一般兵に混じって戦闘訓練に励んでもらう」


 無言の回復兵見習いたちを男が一喝する。慌ててアウローラたちが返事をすれば、眉間に青筋を浮かべた男性騎士を押しとどめて、一人の筋肉質な男が回復兵たちの前に進み出る。

 頬に傷を負った、いかつい男だった。胸元には、帝国の徽章である剣とドラゴン。ならぶ勲章の数は、屠って来た敵の数。


「俺はダンドン。お前ら新米兵を鍛える教官役だ。いいか、回復魔法使いは、敵に狙われる。なぜなら、回復兵が一人減るごとに、敵の兵の回復速度が落ちるからだ。そして何より、回復兵を一人拉致すれば、味方の回復速度が増すからだ。お前たちは兵器だ。回復を司る、戦争兵器だ。それを頭に叩き込め。それを理解しろ。でなければ、真っ先に戦争の悲劇に飲まれるぞ?」


 底なしの闇のように光のない茶色の瞳がアウローラたちを貫く。回復兵たちは、もはや言葉もなく立ち尽くしていた。

 そして、ダンドン教官による地獄のトレーニングが、始まった。


 戦争において最も重要な力は体力だ。体力があれば戦い続ける――そんな脳筋な考えのもと、夜が更けるまで延々と走らされた。息が切れて、口の中に血の味がにじんで、水分補給の時すらも足を止めることは許されず、ただひたすらに走り続けた。

 足を止めた者にはえげつない叱責が飛び、人格を否定する言葉が飛ぶ。それでも立ち上がれない者には鞭が襲い掛かった。

 これが、戦場――アウローラは、そう理解した。


「いいか!兵士に感情は要らん!兵士が一人敵兵を殺すごとに、世界は平和に近づいていく。だから殺せ。敵を殺せ。目の前の敵を無心で殺せ。目の前から敵が消えた時が勝利の瞬間だ!」


 手渡された剣を、何度も何度も振った。手にマメができて、それもすぐにつぶれた。

 痛くて、血でぬれた手から剣が抜け落ちて、けれど休むことは許されなかった。敵にとっても味方にとっても重要な回復兵が生き残り、自陣で敵を癒すこと――そのために、回復兵にも最低限の自衛能力が必要なのだと、泣き叫ぶ回復兵に叫ぶ教官の声を聴きながら、アウローラは剣を振り続ける。


 アウローラの視界の中、恐怖に染まりながら剣を振るう訓練仲間の姿がブレる。目の前の光景が、変わる。

 広がる大地。鍬を振り下ろす自分。故郷の畑の光景が目の前に広がっていた。父が、祖母が、そこにいた。優しく笑いながら、アウローラの協力にお礼を言ってくれる、心温かな家族がそこにいた。


「おい、お前ッ」


 怒号が、アウローラの夢の空間を吹き飛ばす。汗臭さの中にわずかに混じった血の匂いが、アウローラの鼻を襲う。

 肩を縮こまらせるアウローラの、その隣、妙齢の女性兵を教官が叱咤していた。

 涙目になる女性兵を横目に見ながら、アウローラは剣を振り下ろす。


 ブン、と振り下ろされた剣の先に、血のような赤い光が飛んだ気がした。






 本来はひと月に渡って行われるはずの新兵訓練は、けれどわずか一週間で終わりを告げた。理由は、皇国の強襲。

 魔道馬車という、魔力を消費することで高速移動を可能とする馬車による奇襲を受けて、帝国が有する砦の一つが陥落。その奪還戦と、敗残兵たちの救護のために、新兵たちが動員されることになった。


「……行くも地獄、留まるも地獄ね」


 地獄の訓練の中で絆を紡いだユリーカに話しかけられ、アウローラはやや不思議そうに首を傾げた。


「アウローラは、この訓練に残りたい?」


「ううん。残りたくない」


 でしょうね、とユリーカが嘆息する。回復兵の白い制服の下、疲れのにじむユリーカの服装がありふれた麻の布に変わっていることに、そこでようやくアウローラは気づいた。

 周囲を見回したユリーカは騎士が側にいないことを確認。体をかがめてアウローラの耳元へと顔を近づける。

 ユリーカの長い髪が、アウローラの首に触れてこそばゆかった。


「でも戦争に行くのだって、できれば避けたいでしょう?」


 こくり、とアウローラが頷く。顔を離したユリーカは、丁寧な動きでアウローラの髪をなでて、小さく告げる。


「こんな戦い、なければいいのにね……」


 泣きそうなユリーカの顔が、アウローラの瞼の裏に焼き付いた。


 瞬きした次の瞬間には、先ほどの辛い表情などどこにもうかがえない、気丈な顔つきをしたユリーカが視界の先に立っていた。


「さ、行きましょう――私たちの戦場へ」


 ユリーカに手を引かれて、新米回復兵アウローラは、戦場へと一歩を踏み出した。


「うっ……」


 濃密な血の匂いに、アウローラは胃からこみ上げるものを必死で抑えた。口に手を当てて、のど元までせり上がったものを飲み込む。

 口内に酸っぱい味が広がった。


 目の前に広がるのは、傷ついた人で埋め尽くされた簡易救護室。地面に敷かれた軍用マットの上に、夥しい数の負傷兵が横たわっていた。

 うめき声、悲鳴、助けを呼ぶ声。無言で虚空を見上げる者がいれば、悪夢を見て泣き叫ぶ者もいた。


 アウローラがその空気に飲まれていたのも一瞬のこと。背中に触れたユリーカの熱に、アウローラの体が溶かされる。

 顔を上げる。そこには、大丈夫だから、と気丈な笑みを浮かべるユリーカの姿があった。その目は小さく揺れていて、ユリーカもまた恐怖を感じているのだと、アウローラは見抜いた。

 目を閉じ、心に強く言い聞かせる。大丈夫だと。だから落ち着け、と。

 目を開けたアウローラは、真剣な顔でユリーカに頷きを返し、そして無数の負傷者たちの海へと一歩を踏み出した。


 そこからのアウローラの記憶は、曖昧だった。

 目まぐるしく過ぎていく中、目の前の負傷者を診察し、治療。あるいはもう駄目だと判断を下す。

 手早く治療を進め、薬あるいは回復魔法で治療を行う――のだが、アウローラはろくに回復魔法を使えない。より正確に言えば、使っても患者の傷がろくに癒えないのだ。

 自分に向けられた失望の目を思い出しながら、アウローラはできるだけ多くの人を救うために奔走した。

 視界の端で、歓声が上がる。アウローラがちらりと視線を向けた先では、火傷を負っていたはずの女性兵の片腕が、綺麗な白い肌を取り戻していた。その横には、額ににじむ汗を袖でぬぐって満足げな笑みを浮かべるユリーカの姿があった。


「……すごい」


 ぽつりとつぶやき、そして。

 アウローラは自分を呼ぶ負傷者たちの声を思い出し、汚れた水桶を片手に水場へと走り出した。






「ひどいわよね。一人に魔力を使いすぎだって。もっと、多くの人たちを死なせないために魔法を使えって……ここでの回復魔法は、延命手段でしかないのね」


 翌朝。ようやく一波乗り越えた回復兵たちは、深い眠りに落ちるか、あるいは興奮冷めやらぬ精神を落ち着けるために話をしていた。アウローラとユリーカは後者で、外にある小さな岩に腰を下ろして、ぬるい水を口に運んでいた。


「……ユリーカはすごいよ」


「すごくなんてないわよ……ってどうしたのよ?」


 今にも泣きそうな、そんな顔をしたアウローラを見て、ユリーカが動揺を露わにする。どうしたらいいかと手を振り、そして、えい、と勢いよくアウローラを抱きしめた。

 柔らかな胸に、アウローラの顔が埋まる。バタバタと、アウローラが細い手を動かす。


 ユリーカの腕から解放されたアウローラが、ぷは、と息を吐く。


「……苦しかった」


 涙目でそう告げるアウローラに、ごめんなさい、とユリーカがしょんぼり謝る。


「ううん、でも、ありがとう」


 ぼんやりと空を見上げながら、アウローラがつぶやく。月が、アウローラの横顔に影を落とす。長い黒髪が、夜闇の中で風に吹かれてたなびいた。

 まるで感情が削げ落ちた人形のような横顔に、ユリーカは「どうしたの?」と優しく尋ねた。


「……私、回復魔法が上手く使えなくて……全然、役に立たなかった」


 木のコップを握りしめるアウローラは、その水面を見下ろしてつぶやく。揺れる水面はアウローラの影が差し、何も映してはいなかった。


「アウローラはすごく役に立っていたわよ。わたくし、一人に魔力を使いすぎだって怒られたって話したでしょう?その先輩回復兵が、彼女はすごいって、アウローラのことをほめてたわよ。魔法に頼りすぎないで的確に治療をする、優れた回復兵だって」


「…………私は、ただの薬屋だもん」


「その年で、もう仕事をしていたの?平民なら普通のことかしら?」


 数度目を瞬かせたユリーカの顔へと、アウローラが目を向ける。真剣な顔をして何かを考えているユリーカの顔は、ひどく綺麗だった。


「私が小さい頃に、お母さんは魔物に襲われて……お父さんも、土砂崩れの復旧作業で死んじゃったの。だから、私はおばあちゃんの薬屋を受け継いでたの」


「アウローラはすごいわね。わたくしは、何もしてこなかったわ。ただ、貴族としての勉強ばかり。いかに夫となる男性を立てるか、良き夫をどう見つけるか、正しい貴族の淑女としてどうあるべきか、貴族社会での話術……学んだ知識は結局一つも役に立たなかったわね」


 月を見上げて、儚く微笑む。その横顔を見て、アウローラはユリーカを守りたいと、そう思った。

 そして、思い出す。レインも、私を守りたいと言ってくれたレインも、こんな気持ちだったのだろうか――


 どうしたの、とユリーカに尋ねられて。

 アウローラは、なんでもない、と首を横に振った。

 それから、小さくあくびを一つ。

 白んできた空を見上げながら、流石にもう寝ましょうか、とユリーカがつぶやいた。


 そうして、アウローラの長い初戦は終わりを告げた。

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