第2話 日常と徴兵
「私が戦場へ……ですか?」
突然の領主の呼び出しに、アウローラは何事かと緊張に震えながらも屋敷を訪問して。でっぷりと太った領主――その前に控える壮年の男性の言葉に尋ね返した。
「そうです。偉大なる皇帝陛下は、各町村から一人以上の回復魔法使いの派遣を命じられました。ゆえに、この街唯一の回復魔法使いであるアウローラに、名誉なる戦地へと出立を命じます」
「え、でも……」
拒否は許さない、と鋭い銀の眼光がアウローラを射抜く。八歳に過ぎない少女に、その威圧に抗う術はなかった。何より、たかが一平民のアウローラには、男爵とはいえ貴族の命令を拒否する権利も方法も、持ってはいなかった。
口から出かかった「この街には領主様の娘の回復魔法使いがいるはずじゃあ」という言葉は、結局喉の奥に引っかかったまま。
アウローラは絶望に肩を落として領主邸を後にした。
「嘘でしょ、アウローラが戦場に⁉」
素っ頓狂な悲鳴を上げたレインは、おろおろと止めるアウローラから話の詳細を聞いて激怒した。
「あんの狸男爵め!貴族様ってこういう時のためにいるんだよね⁉娘と一緒に国を守るためにあいつが戦場に行けばいいんだよ!」
「だ、駄目だよ、レイン!しーっ」
「お前なあ、男爵の娘の身代わりで戦場に行って来いってことだろ、ソレ⁉十歳にもなってないお前を戦場に行ってこいって命令するとか、どこの悪徳貴族だよ⁉」
「だから男爵様だってばぁ~」
礼節のすっぽ抜けた発言を繰り返すレインを、アウローラが涙声で止める。今すぐ男爵に文句を言ってきてやる、と血気盛んに叫ぶレインの腕を引っ張って止めること十分ほど。
二人は肩を弾ませながら草原の上に転がっていた。
「戦場、か……」
小高い丘の上。吹き抜けていく春の風がレインの髪をなでて過ぎ去っていく。
顔を横に向ければ、そこには街と呼ぶには少々無理がある大きな村といった家屋の並ぶ居住地が広がっていた。点々とした木造の建物の中、ひと際大きくそびえる石造りの建物が男爵邸宅だった。
再びレインの胸の中に怒りの感情が膨れ上がる。あるいは、無力感がレインの心を押しつぶそうとする。
アウローラが戦場に行かないで済む方法は、思い浮かばなかった。貴族の命令は絶対。そんなことはレインにだってわかっていた。
けれど、レインは誓ったのだ。アウローラの父親が、土砂崩れで埋もれた道の復旧作業の徴用の中で死んだときに、祖母と二人きりになってしまったアウローラを、自分が守って見せると。
それから三年。アウローラはレインの守りなど必要とせず、どんどんと成長をしていった。薬屋を営んでいた祖母に薬草の知識を学び、回復魔法を発現させ、既に祖母の後を継いで村唯一の薬屋の店主になっていた。
対してレインは、ただの農家の長男。今日も朝からの畑仕事を、父親に命じられて嫌々こなし、本の虫になっていると思っていたアウローラを連れ出そうと薬屋に訪れて。
僕は何もできていない――無力感に涙が出そうだった。
目を片腕で覆う。反対の手に、アウローラの手が触れる。震えが、レインにまで伝わって来た。
血が沸騰しそうだった。小さな手を、優しく、強く、握りしめる。温かな手。これまでの苦労を思わせる、かさついた、豆のついた手を握って、レインは心の中で決意する。
僕が、守るんだ――
勢いよく立ち上がる。
レインに引っ張られる体勢になったアウローラが、わわっ、と声を上げながらレインの胸の中に収まった。
その小さな体を、抱きしめる。小さな――けれど、レインより少しだけ大きくなってしまった体を抱きながら、レインは顔を真っ赤にして視線を彷徨わせた。
その視線の先に、ずいぶん前に探し求めた真っ白な薬草の花を見つけた。アウローラに気づかれないようにその花を手折って、レインはゆっくりと立ち上がる。
膝を地面につけて座るアウローラが、ぽかんと口を開けてレインを見つめていた。
レインは、覚悟を決めてアウローラへとその白い花を突き出して、口を開く。
「アウローラのことを僕が守ってあげるから、例え戦場に行っても僕が守ってあげるから。だから、結婚しよう」
顔を真っ赤にしたアウローラが、小さくうなずいたのをレインは見逃さなかった。レインの目をじっと見つめたアウローラが、花が咲いたような笑みを浮かべた。
その目ににじむ涙はきっと幸せの涙だと、そう思った。戦争への恐怖の涙ではないはずと、レインはそう己に言い聞かせた。
両親に殴られ、泣き叫ばれ、それでもレインは折れなかった。アウローラとの約束を、裏切るわけにはいかなかった。
けれど、その翌朝。アウローラはすでに村を出ていた。
昨夜のうちにやって来た帝国の兵士が、アウローラを戦場へと連れて行った――そんな話を、アウローラの祖母から聞いて。
レインは目の前が真っ暗になった。
レインの希望の光は、大切な幼馴染は、そうしてあっさりを姿を消して。
けれどレインは、泣くことはなかった。
アウローラを追ってレインが家を飛び出したのは、それから一か月後のこと。
村を経由した徴兵部隊に紛れ込んで、レインは戦場へと向かった。
アウローラを、守るために。
アウローラが村を出るのは、初めてのことだった。
レインとの別れの挨拶もできぬまま、アウローラはまるで囚人を移送するように監視付きで馬車で運ばれた。
静かに、泣いた。祖母と、レインと離れ離れになることが辛くて、泣いた。けれど声を上げれば、罵倒が飛んでくるから、必死に声を押し殺した。
そんなんで戦場で生きていけると思っているのか、お前は皇帝陛下が下された名誉を汚すのか――何度も、騎士の男はアウローラに罵声を浴びせた。
多分、男の言う通りなのだろうと、アウローラは思った。戦場がどんな恐ろしい所なのか、アウローラには想像することも叶わなかった。祖母に戦場に行くことを話した、夜の時間。祖母は目に涙を湛えて、アウローラの体を強く抱きしめた。
それから、かつてない真剣な声音で、真っすぐな瞳で、アウローラに告げた。
戦場では、まず心が死ぬんだよ。そして次に、体が死ぬんだ――
祖母の言葉の意味はよく分からなくても、戦場がいかに恐ろしい所なのかだけは、はっきりとアウローラの魂に刻まれた。
だから、アウローラは男の言葉に言い返すこともなく、ただ、泣き続けた。
今にも拳が飛んできそうな中で、アウローラは顔をうつむかせて泣いた。泣くことしか、できなかった。馬車の中に、アウローラはただ一人。遠くから聞こえる虫や鳥の声、すれ違う集団の音を聞くうちに、時間は過ぎていった。
三日もする頃にはアウローラの涙は収まっていて。
その頃には、アウローラ以外の回復魔法使いも、馬車に乗せられるようになった。そこで、アウローラはユリーカに出会った。
貴族令嬢然とした美しい格好をしたユリーカを見て、騎士の男は小さく鼻を鳴らした。その目に宿る暗い色が気持ち悪くて震えていたアウローラに、ユリーカは何の気負いもなく声をかけて来た。
大丈夫?どこから来たの――
優しい声に、再び泣きそうになりながら。アウローラは少しずつ、ユリーカと言葉を交わしていった。
そうして、もうどれだけ経ったかわからないほどの月日が経過した後、アウローラたちは戦場の最後尾へとたどり着いた。
嫌な空気が、漂ってきていた。後方へと運ばれていく、負傷者たち。赤く染まった彼らを見て、アウローラは吐いた。ユリーカを初めとする他の者も、顔を真っ青にして、あるいはアウローラのように吐いた。
この程度で嘔吐するんじゃねぇ――
男性兵士の罵倒に、アウローラは恐怖を大きくするばかりだった。
仄かに香る血と死の匂いのもとへと、アウローラは恐怖にふるえる一歩を踏み出した。
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