第5話 中央戦線

 帝国と皇国の国境の中央付近。そこは大きな岩がゴロゴロと転がる小高い丘になっていて、遠くが見渡せる自然展望台となっていた。山の頂上には帝国の砦が存在し、国境の周囲一帯に睨みを利かし、皇国を牽制していた。

 その山を奪取するべく、皇国が大量の人材を投入し始めたのが、今から一か月ほど前――ちょうどアウローラが初めて戦場に足を踏み入れた頃の話だった。

 日夜襲い掛かる皇国の襲撃に帝国兵は疲弊していき、その砦を囲う空堀の一つが埋め立てられた。

 帝国はこれを問題視して、即座に周辺戦線から人材を集中させ、皇国軍の撃破を目指した。


 そんな本当の中央拠点から一つ離れた砦。そこが、アウローラたちが派遣された新たな戦場だった。要は、中央拠点への派兵によって不足した人材の穴埋めという立場が、アウローラたちに与えられた役割だった。

 それを喜ぶべきかはともかく、最も激しい戦場一歩手前のこの地は、これまでいた場所より戦いの規模も、そして負傷者の数も多い激戦区に変わりはなかった。


 多くのうめき声が聞こえる空間を、アウローラとユリーカは駆けまわる。薬を与え、傷を縫い、止血し、あるいは壊死しそうな足を切り落とす。十分な薬もない中での外科施術は激しい痛みを伴うもので、何人もの兵士に押さえつける協力をしてもらいながら、回復兵は泣く泣く戦士の四肢を切り落とした。

 アウローラもまた、その補助や、施術を執り行うことになった。

 最初の一回が終わった後には吐いて、夜も眠れなかった。脳裏にこびりついた絶叫が、暴れまわる男の顔が、忘れられなかった。

 けれど、二回、三回とこなしていけば、その記憶も薄れ、混ざり、日常の一部になった。


 命を救うためだと、そう心に言い聞かせて。アウローラは無心で人々を治療していった。


「…………ふぅ」


 聞こえないほど小さな声で、アウローラは嘆息する。じっとりとした悪意の視線が、自分に張り付いているのを感じていた。始まりは、この戦場で慕われていた優秀な女性騎士が負傷したこと。問題は、その女性騎士が無茶を押し通した結果、敵兵が剣に塗っていた毒が致命的なまでに患部を襲ったこと。

 切り落とす以外に、選択肢はなくて。

 戦場にて英雄と称えられた女騎士は、そうして利き腕を失った。


 方法は、他になかった。この場にいる回復兵全員が魔法を使ったところで助からない致命傷だった。だが、その決断を下したのがアウローラで、そしてアウローラがろくに回復魔法を使えないことが問題だった。

 砦の兵士たちは、考えた。もしアウローラ以外の回復兵が女騎士を治療していれば、彼女は腕を失わずに済んだのではないか――と。


 アウローラは、それに肯定も否定もしなかった。ただ黙々と食事を続けた。

 アウローラが一人倒れるだけで、戦場で死ぬ数が増える。軽度の負傷兵だとしても、十分な手当てができなければ患部が膿み、傷は悪化し、破傷風やその他の感染症に侵され命を落としかねない。

 アウローラは、生きなければならなかった。生きて、一人でも多くの兵を、救わないといけなかった。そう、心に言い聞かせて。

 アウローラは淡々と食事を摂っていた。


「ここ、いいか?」


 静かな、心殺したような声を聴いて、アウローラは恐る恐る顔を上げた。

 そこには無表情の中に狂気の光を宿した目を輝かせるレインの姿があった。鋭い悪意が、アウローラに突き刺さる。

 心をより閉ざして、アウローラはレインの視線から心を守る。

 何を隠そう、レインこそが、慕っていた女騎士に肩を貸して帰還し、その時手が空いていたアウローラに治療を求めた人物だった。

 女性騎士の腕を斬り落とした際の、侮蔑に満ちたレインの顔を思い出し、アウローラの背中に寒気が走った。

 自然と、アウローラの背筋が伸びる。


「…………あの人は、スカーレット様は、戦場を去ったよ」


 戦場を去った――負傷兵として後方に回されたか、あるいは、死んだか。どちらであるか、アウローラに尋ねる勇気はなかった。

 うつむいたレインの顔に、ランプの明かりが影を差す。その顔に、アウローラは死の気配を感じた。


 小さく頭を振って、その予感を消し飛ばす。レインは大丈夫だ――そう、自分に言い聞かせる。

 どうしたんだ、と不審気なレインの視線が体に突き刺さって、アウローラは金縛りにあったように動きを止めた。

 周囲の音が、消えた気がした。ランプの明かりが、小さく揺れた。

 一瞬、レインの瞳の奥に強い憎しみの炎が垣間見えた気がした。


「……ユリーカさんが、呼んでたよ」


 用事はそれだけだとばかりにレインは食事に手を付ける。言うべき言葉を探して、けれど言葉は見つからなくて。

 アウローラは小さく頭を下げて、トレーを持って席を立った。






「……ホルトが、死んだよ」


 テーブルに両肘をついたユリーカが、うめくようにアウローラに告げた。

 ホルト――とその名を、アウローラが復唱する。記憶を、探る。窓枠に肘をついて荒野を眺めていた、虚無を纏った男の顔を思い出した。

 アウローラとユリーカと共に、この中央付近の砦にやって来た回復兵の名前だった。


「あの人が、死んだ?」


 そう、とユリーカは頷く。そして、一瞬の躊躇いの後、口を開く。


「彼は、自室にて自殺していた。発見されたのはつい先ほどだ」


 ぽかん、と口を開いて。声の一つも出すことができずにアウローラは立ち尽くした。

 ユリーカが、顔を上げる。アウローラの顔を見て、その顔がくしゃりと歪む。言うべきではなかったと、そう言いたげに。

 死の匂いが強くなった気がした。どこからか、死神の気配が近づいている気がした。


 黒の死神――中央で暴れまわっている皇国の将の名前が、アウローラの脳裏をよぎる。

 通った戦場跡に無数の死を積み重ねる、黒の男。

 真っ黒なフードをかぶった恐ろし気な人物がアウローラの脳裏に作り出される。


 恐怖が、アウローラの手足を震わせる。その顔から、血の気が引いて。


「大丈夫よ。大丈夫……だから」


 気づけば椅子から立ち上がっていたユリーカが、アウローラの小さな体を抱きしめた。

 その温もりを、感じながら。アウローラはひどく自分の体が冷えていることに気づいた。

 そして、気づいたことがもう一つ。


 アウローラの心は、ユリーカの体の温かさに触れて氷解することはなかった。まるで氷のように冷え固まったアウローラの心は、動くことはなくて。

 ただぼんやりと、アウローラはユリーカの腕の中に抱かれ続けた。


 アウローラが戦場に立ってちょうど一年目の夜は、そうして濃密な死の臭いをアウローラに届けて、更けていった。


 一人、自室に戻って。

 人間であり続けるために日記を取るといい――祖母に勧められて始めた日記に手を伸ばして、アウローラは動きを止めた。

 軋む木製の窓を開いて、空を見上げる。

 わずかに赤みを帯びた、欠けた月が空に浮いていた。吹き抜ける風は、荒野の砂を含み、そしてどこか血生臭く感じた。

 そしてその臭いを、アウローラは当たり前のこととして受け入れていた。

 戦場に降り立ち、戦場に染まったアウローラは、心殺した兵士となっていて。


 ふと脳裏によぎったのは、自殺をした青年回復兵ホルトに見た、死の気配。

 その気配を先ほどレインに見たことを、アウローラは思い出した。


 けれど、それだけ。レインを心配することはなく、その命が風前の灯にある可能性がアウローラの心揺さぶることはなかった。


「戦場では心を殺せ。心持つ者から死んで行く――」


 教官の言葉を口ずさむ。

 心が死なないように――祖母の声が思い出されることはなかった。

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