後日談 - 彼の家で勉強をする話


 夏も終わり、秋の風が吹く夕方の話だった。


「最近勉強してるの?」


 そろそろ受験も近くなってきている。いよいよ勉強というものに真剣に取り組まなければいけない状況に対して、母は呆れるようにそう言葉をつぶやいた。


「え、あー、うん。まあ、やってるよ?」


 嘘は得意ではない。だから言葉の節々が途切れてしまう。その嘘を悟るかのように母はあからさまにため息を吐いた。なんとはなしに気まずい空気が漂っている気がする。


「彰人くんと仲良くするのは別にいいんだけど、それで勉強がおろそかになったら駄目じゃないの」


「……別に、勉強をしてないなんて一言も言ってないじゃん」


 ……実際にはあまりしていないのだけれど。なんならあまりにもしていないのだけれど。以前確保していた学習の時間と比べれば半分よりも少ない。半分の半分もないかもしれない。


「……まあ、別に困るのは芽衣だから、私もとやかくは言いたくはないけどね?でも、彰人くんはスポーツ推薦でいい高校に行くっていうじゃないの。もし彰人くんと同じ高校に行くとなったら、きちんと勉強をしないと──」


「──え、そんなの聞いてない」


「……はあ」


 母はまた深くため息を吐いた。


「彰人くんのママから聞いたのよ。うちの息子、スポーツ推薦で成実高校行くって。最近それでよく帰ってくるのが遅いとか……」


 ……最近、彰人が遅く帰る理由って、そういうことだったのか。一切本人から聞かされていないから……、というか、進路についての話をはぐらかしていたのは私の方なのだけれども。


「まあ、よく考えなさいな。彰人くんと同じ学校に行きたいんでしょう?」


「……うん」


「そうなら頑張んなさい」


 母はそう言って、適当な荷物を準備して外へと出かけていく。だいたいこの時間ならスーパーにでも行ってタイムセールへと争いに行くのだろう。


 勉強。勉強かぁ。


 最近、ことごとくの時間を浪費しているような気がする。


 彰人と一緒に過ごす時間は楽しい。今まで互いに距離を測れずに過ごせなかった時間を埋めるように過ごしていたから、勉強のことなんて考えようともしなかった。


 ──夏休み、彼と水族館に行った時から、もう二か月余り。結局、私と彼はお試しという具合で付き合うことになって、そうして一緒に毎日を過ごしている。お試し、という具合なのは、いまいち私が人を信じることができないから。その実、依存してしまいそうになるくらいに彰人と過ごしてはいるから、もうお試しとは言えないのかもしれないけれど。そこは暗黙の了解で特に彼と話すことはない。


 ……彼が家に帰ってくるまでの時間は、まだ結構ある。


 最近の彰人は付き合いが悪い。もう彼はテニスの大会を終えて放課後はフリーだったはずなのに、それでもテニス部に行くといって放課後の用事をはぐらかしていた。でも、それはスポーツ推薦のために努力をしていた、ということなのだろう。


 ……それなら教えてくれてもいいはずなのだけれども、私が聞こうともしないから話さなかったのかもしれない。


「……くぅっ」


 声にならない声が出る。後悔先に立たず、とは言ったものだ。


 確かに、彼から話そうとする様子は何度か見られた。でも、すごく大事な話の雰囲気になると、途端に私は話を変えたくなって、そうして実行に移してしまうから、結局彼の話を聞くこともない。それから彼も他愛のない話題しか出さないから、停滞したままの日常を送っている。


 ……だって、大事な話の雰囲気ってなんかすごく怖いし。もしかしたら『やっぱり付き合うのやめよう』とか言われたら、もう明日から学校は行かないことを誓うくらいには精神面がズタボロになる。


 ……でも、きっとそんなことをされても、私は彼を嫌いに離れない。話してくれる時点で、裏切ることなく真摯に私に対して向き合ってくれているということなんだから。


 ……いや、でも今まではあからさまに話を逸らしすぎた。それが怖いからって、彼の言い分を聞かないターンがあまりにも多すぎた気がする。


 彰人がいくら優しいからと言って、甘えすぎた。そろそろテレビでよく見る『重い女』の特徴に当てはまってしまう気がする。


 ──今日こそは、彼に対してきちんと向き合おう。それとほんの少しでもいいから勉強をしてみよう。


 私はそんな決意を胸に、自室へと向かい勉強を始めた。





「……成美高校行くって、ほんと?」


 彰人からメールが来て、そうしていつも通りに彰人の家に行く。彰人と対面した瞬間に出た言葉は、取り繕うことさえできていない一言だった。


 ──しまった、焦りすぎた。もっと紆余曲折を経てから話すべきだと頭の中で整理していたはずなのに、どうして空回ってしまうのだろう。


「あれ、そうか。言ってなかったっけ。そうだよ。一応成美に行くつもりだよ」


「……聞いてない」


 ……そもそも聞こうとしなかったのは私の方なのだけれど。


 私がそう言うと、彰人は私の頭をぽんぽんと触りながら、悪い悪い、と返してくれる。こういう優しさに甘えてしまって、駄目になる感覚がすごくなんかいけない感じ。語彙力がない。


「話そうとは思ってたんだけど、なかなかタイミング掴めなくてさ」


「……うん。私がずっと話すからだよね」


「ま、そういうこともあるっしょ。とりあえず部屋上がってきなよ」


 そうして私と彰人はいつも通りに、彰人の部屋に上がった。よくよく考えれば、人様の家の玄関で話すべき事柄ではなかった……。





「勉強をします」


「……え、いきなりどした」


 彰人は戸惑うように笑う。


「……だって、私、彰人が成美高校に行くとか知らなかったし、勉強しないと彰人と同じ高校に行けない……」


 成美高校の偏差値は、もともと私が狙っていた学校よりも少し高い学校だ。夏休み辺りなら勉強もきちんと行っていたし、その状態を維持し続ければ成美高校も別に高い壁ではなかったのだろうが、現状では少し……、いやだいぶと難しい。


「え、俺と同じ高校来るの?」


「うん、当たり前じゃん」


 当たり前なのかは知らないけれど、彰人のいない高校に通う気は、今のところはさらさらない。


「というか何その反応。少し嫌そうな感じじゃん」


「いや、そういう訳じゃないよ。なんというか、その気持ちはめっちゃ嬉しいんだけどさ」


 彰人は少し躊躇うように言葉を呟く。


 『だけど』。この文言が加わるだけで、すごく不安になる。


「……やっぱり嫌なんだ」


「そうじゃない、そうじゃないから聞いてくれよ」


 彰人は話を続ける。私は視線を彰人に合わせた。表情がいつになく真剣に見える。


「──ほら、こういうことって、めちゃくちゃ大事なことじゃん?彼女とか彼氏とかだからって、安易に高校を決めるのは、なんかよくないって感じがするんだよ俺」


「……」


 夏休み前、そんなことを担任の先生も言っていたような気がする。その時は友達もそんなにいなかったし、我関せずとしか考えていなかったけれど、実際目の前の状況に直面してみれば、確かにと思う部分はある。


 でも。


「それでも、私、彰人と一緒がいい」


「……」


「だって、今まで全然話せなかったんだよ?私たち、ずっと話したかったのにさ。だから、その時間を取り戻したい。高校で一緒に過ごせたら、それだけで私、幸せだと思う」


「……そか」


 彰人は、そう相槌を打つ。


「結局、決めるのは自分自身だもんな。俺からとやかく言えたもんでもないから、そこは芽衣に任せるよ」


「──うん!」


 私は勢いのいい返事をして、彰人に向き合う。


 ずっとこんな時間を過ごしたい。だからこそ、私はきちんと勉強をしなければいけないのだ。


「──もしさ、もしね?」


「うん?」


「私が一緒に彰人と同じ高校に通えるようになったらさ」


「うん」


「今度は、私から告白するからね」


 まだ、彼には言葉を返し切れていない。仮の付き合い、お試しの付き合いだからこそ、本当に付き合うために。


 人は信じることは難しい。裏切られる怖さだって確かにある。人だけでなくとも世界が私を裏切るかもしれない。


 でも、彰人なら。彰人とならそんな世界にも怖さを持つことなく前を向けるような気がする。


 私は、裏切られる怖さ以上に、信じる気持ちを大切にしたいのだ。

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