後編

 

 そうして彼と向かったのは駅を少しばかり乗り継いで来た海沿いのそばの水族館。水族館、というか、シーランドと書かれているが、実質水族館ということで捉えてもいいだろう。


 こういう場所は幼い頃にも行ったことはない。幼稚園の頃などは、確か動物園などは家族ぐるみで連れて行ってもらった記憶はあるけれど、それくらいだ。そもそも海洋生物に興味を抱いたことがないから仕方がない。


「彰人は海って好きなの?」


 私が彼にそう聞くと彼は困ったように笑った。


「別に好きっていうほどでもないけれど……」


「それならなんで水族館?」


「ほかにそれっぽいところが思い浮かばなかったんだよ」


 私は笑ってしまった。


 彼は入場口をくぐって、お金を払う。私からもお金を出そうとしたけれど「いや、お前の分の金持ってるから」と私の分も彼は出してくれた。中学生にしては結構な入場料だと思ったけれど、それを躊躇うことなく彼は出すので、私は一瞬どうすればいいのかわからなくなる。


「気にする必要はないから。さっきも言った通り母さんに金もらってるからさ」


「……まあ、そうらしいけども」


 少し忘れかけていた気まずさというか不安を抱くと、彼は私の肩をぽんぽんと叩く。


「とりあえず、水族館に来たんだから楽しもうぜ、どこからいく?」





 そうして一番にやってきたのは、コンサートをするために開かれているようなステージと客席のあるスタジアム。ここでは演目でアシカのショーが見れるとかなんとか。


 席は結構まばらだ。きっと、夏という季節のせいかもしれない。外に開かれたこのステージは太陽の日射が燦燦と降り注いでいる。観客席に少しばかり日陰がかかるようにシェードがかけられているけれども、それだけで温度は改善するわけもない。唯一の救いといえるものは海沿いの近くだから、そこそこに強い風が吹いてくるくらいだ。


「……暑いな」


「……そうだね」


 彰人の顔を見れば、額に少しばかりの水滴が見える。外に出て少ししか時間が経っていないのに、ここまで汗をかいてしまうことが、ここに人が来ないことの証明であるような気がする。


「……やっぱり違うやつにする?」


 私は別に無理をしてアシカのショーを見たいわけではない。いつもテレビで見ている特集の中でしかアシカの姿を見ていないから、生で見たらどれくらいなんだろう、とそんな気分でここを提案しただけだ。


「いや、どうせなら見ておこうぜ。俺、生アシカ初めてだからさ」


「生アシカって……」


 表現が少し独特に感じるけれど、昔から彼はそういう言葉を使うから懐かしさで笑ってしまう。暑いという不快な気持ちはあるけれど、彼といる空間は楽しい。風が汗を凍らせる感覚が身をゆだねて、暑さを忘れようとする。


 そんな頃合いからアシカのショーが始まる。


 丸みを帯びたフォルム。バレーボールを弾いたり、もしくは頭の先でボールのバランスを取ったりしている。知能があることを証明するように、飼育員と会話をしたりする場面がコミカルで面白い。


「生アシカの迫力はすげえな」


「すごいね、生アシカ」


 彼の表現に合わせて、私も言葉をつぶやく。


 実際、アシカがここまでのことを目の前でやるのは凄く楽しい。先ほどまで意識していた暑さも楽しさに還元されるくらいには。……まあ、暑さを思い出したらまた暑くは感じるのだけれども。



 

 

「それじゃあ、今度はイルカのコーナーにでも行ってみるか」


 今度は私からではなく、彼の提案でサーフスタジアムという中央にとても大きなプールが置かれた場所まで移動する。


 ここに関しては屋外ではあるけれども、そこそこに賑わいを見せている。アシカのショーだって凄かったのに、ここに多く人が集まると、少しばかりアシカが可哀相に思えるのはなぜだろう。


 そこそこに埋まりつつある観客席、真ん中あたりが空席だったから、私たちはそこに入り込む。いよいよ始まるという頃合い。


「生イルカ楽しみだね」


 私が彼の表現を思い出しながらそう言うと、彼は「生イルカ?」と笑いながら返してくる。もともと彰人の言葉なのに、どこかとぼけている様子なのが面白い。


「イルカって凄いんだよ。人間みたいに社会を形成しているとかなんとかってテレビで言っていたから」


「そいつはすごいな」


「……なんか適当な返事してる」


「そんなことはないさ」


 彰人は照れくさそうに笑った。


 そんなこんなでいよいよイルカのショーが始まる。イルカの名前の紹介から始まり、飼育員が高くに指をさすと、プールから勢いをつけて跳んだり、そしてボール遊びをしたり。アシカのショーの時に見たボール遊びと同じようなことをしているから、なんとなく海洋生物は水中にいるだけで陸でも生活ができるのではないか、なんていう錯覚が生まれてしまう。実際、アシカあたりは頑張れば(?)なんとか生きていけそうではある。でも、イルカについてはどうなのだろうか。


 こういうときに、きちんと知識を持っていればよかったな、と思わずにはいられない。私の頭の中には、最近詰め込んだ学習の内容と、過去に見たテレビの記憶くらいしか残っていない。人のボキャブラリーが経験から生まれるというのならば、私には経験が少なすぎる。


「……どうかした?」


 彰人が私の顔を見て不安そうに声をかけてくる。


 私は、別に何もない、とだけ返す。彼にこの感情は悟られたくなかった。


 彼と私が関わらなくなってから、彼はどんな経験を重ねたのだろう。私がいないところで、どのような出会いを果たしたのだろう。それに比べて、私という存在はどこまで薄くなってしまったのだろう。私という人間に人間性は存在するのだろうか。


 会話できる種も見つからず、彼の優しさに甘えてばかり。彼の個性に頼って、言葉をそのままオウム返しすることしかできない。自分の意見というものを確実に話すことができない。


 この数年で、私と彼はどこまで異なってしまったのだろう。


 そんな憂う気持ちを、やはり彼には悟られたくなかった。





 イルカのショーが終わり、私たちは水族館らしい様々な海洋生物が展示されている空間を歩いた。


 暗がりの中、水槽の中が青く光って、足元がおぼつかない感覚。それでも行く先を示すように、床には矢印が淡く点滅していて、なんとなくでも行く道はわかる。


 でも、この先に行って私はどうすればいい?


 この先の道は、どこに通じているのだろう。


 現実的な場所のことなんかではなくて、この先の未来。私と彼の未来。それがどんなものなのか、想像することもできないし、想像することが怖い。


 なんとなくの行動でここまでやってきたけれど、それ以外に私の意志は彼との間には存在しない。そんな不義理な空間で、私は彼とどんな会話をすればいいのだろう。


 懐かしさに溺れるだけで、それ以上にどうすればいいのかはわからない。私は、暗闇の中で溺れそうになった。


 目を閉じれば楽になるような気がする。そうすれば海の中にいる感覚があるから。……別に、ただ水族館の中にいるというだけの話だけれども。


「……どうした?」


 彰人の声が聞こえるような気がする。その声にどう答えればいいのかはわからない。


 どうもしていない、と答えればいいのかもしれない。でも、そう答えてどうすればいいのかわからない。


「……どうなんだろうね」


 だから、そう答えるしかない。


「彰人はきっと、私と過ごしていても楽しくないよね」


「……え?」


「だってそうだよ。今まで会話もしていなかった人と会話をするのなんて、皆辛いはずだもん」


「そんなことない──」


「彰人は優しいからそんなことを言ってくれるけど、きっと本心はそうじゃないよ。私なんかといてもつまらないだろうし。きっと小学生の時に話しかけてくれなかったのだって、私がつまらないからなんだよね。そうだよ。きっとそう」


「……」


「私、今日ずっと彰人に迷惑かけてる。無理にお出かけさせて、時間奪って、楽しくないことさせてる──」


「──そんなことねぇよ」


 彰人は、私の言葉を断ち切って、言葉を紡ぐ。


「俺さ、ずっと前から芽衣と話したかった気持ちはあったんだよ」


「……それならどうして六年生の時に話してくれなかったの?」


 あの時の彰人は私のことを見ても見えないように過ごしていたと思う。時折私が彼を見ると、恥ずかしそうにかかわってはくれるけれど、それだけでしかない。本を貸してくれたのも、私がそんなまなざしで彼を見ていたからに過ぎない。


 彼は、ただ優しいだけなんだ。それ以上はない。私に何かを抱いてくれていることなど、あり得ないのだ。


「──お父さんとのことが、あったから」


 彰人は、小さな声で呟いた。


「……芽衣のお母さんとお父さんが離婚したって母さんから聞いてから、どう話しかければいいのかわからなかった。俺は芽衣と話さないうちに、芽衣のことを全然知らなくなって、そうして関わる資格もないと思ったから、──だから話せなかったんだよ。


 ずっと俺だって話したかったよ。いろんな奴に揶揄われても、それ以上に一緒にいた方が楽しいんだから、俺はそれでよかったんだよ」



 


 ──私の父は、小学六年生の時に母と離婚をした。原因は父の不貞であった。


 確かに、私と彰人の距離感は当時も図れなかったけれど、きっとそれでも彰人は私のことを見てくれていたはずなのだ。


 それでも、それを本当に見ない振りをしてしまったのは、私の方だ。


 どこか人間という生物が信じられないような気がしたから。


 人間は海洋生物のように単純でもない。裏切る時には確実に裏切り、そうして人の心を殺していく。そんなことを経験してしまったからこそ、私は人との距離を測ることをやめた。


 人は信じていいものなのか? その行く末に裏切られたときの情緒はどうすればいいものなのか? 私はそうして距離感を図っていいのだろうか。私は彼と距離を詰めていいのだろうか。


 

 


「──俺は、芽衣が好きだよ」


「……うん」


「距離を取られていても、俺は芽衣が好きだよ」


「……うん」


「……それしか、今は伝えられないけれどさ」


 



 私はまだ、彼を信じることができていない。だから、曖昧な返事をするわけにもいかず、その場は何も答えることはできなかった。


 夕焼けの電車に揺られながら、私は彼のことをずっと考えている。


 人に裏切られる怖さを知っているからこそ、人を信じることができていない。


 でも、裏切られる以上に、私は彼のことを信じたい気持ちがあるのだ。


「ねえ」


 私は彼に向き合った。


「好きになっても、いいのかな」

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