中編


 思い立ったら吉日という言葉がある。私は基本的に何も言葉を信じない性質ではあるものの、今日に関してはなんとなくそんな言葉を信じたいと思って行動をしてみた。


 その結果が、目の前の現状である。


「……」


「……」


 ……どこまでも気まずい空気。男の子の匂いがする部屋の空間。そこには男女の沈黙だけがそこにはびこっている。


 確かに思い立ったら吉日という言葉の通りに行動はしてみたけれど、ここまでとんとん拍子に上手く行くとは自分自身でさえも思っていなかったのだ。


 適当に出かける用事がある、と母に誤魔化したら訝しい目で見られたものの、その後の勢いで彼の家に行けば、久しぶりに彰人のお母さんと対面し、あれよあれよというまに彼の部屋まで案内されてしまう。


 手にはしわくちゃになっている彼の本がある。その手元を見て彼は不思議そうな顔をしている。


「そんな感じでやってきました」


「どんな感じだよ」


 彼は苦笑した。


 彼の部屋を見渡してみる。小学四年生のころまでは行き慣れた空間だったはずなのに、長い年月を経て来てみれば懐かしさしか覚えない。それもきっと彼の部屋がそこまで変わっていないからだろう。強いて言うならば、小学生の時にはなかったスポーツ用品がところどころ散らばっているくらい。


 確か彼はテニス部だったはずだ。帰りがけにフェンスの向こうで頑張っている姿を何度か見たから、たぶんそうだと思う。


 彼の頭髪は少しばかり茶色がかって見える。それも部活の影響なのだろうか、長い間頭髪が日にさらされたことがよくわかる気がした。


「それで、何しに来たの?」


 こちらを気遣うように彰人が声を出す。彰人からすればいきなりもいきなりだ。ずっと彰人は私の手に持っているしわくちゃな本に視線を向けているけれども、だからといって理解できるものでもないだろう。なんなら思い付きだから仕方がない。


「……えっと、本を返しに来ました」


「なんで敬語?」


 彼ははにかみながら私が差し出した本を手に取る。「うわ、懐かしい」と大げさなくらい声を出して、彼はぺらぺらとめくる。そのはしゃいでいる様子がどことなく昔のような空気間で楽しい。


 ……でも、この後どうすればいいのだろう。思えば、本を返しに行く、という用事を利用することは考えていたけれど、彼に会うという目的以外では何も思いついていない。


 この後に沈黙が来たら、どう対応すればいいかわからない。過去と比べて人と関わることが少なくなってしまった私にとって、気まずい空気は毒も同じだ。


 なにか会話をしなきゃいけない。なにか会話をしなければいけないのだけれども、思いつくことは勉強のことばかり。


 彰人に勉強のことを話すのもいいのかもしれない。彰人だって三年生だから、高校に向けていろいろと頑張っているのかも。


 ……でも、部活の大会で忙しかったりするかもしれない。彼の状況についてよくわかっていないのに、そんな話を切り出していいのだろうか。


 私は今の彼のことをあまりにも知らなすぎる。そんな私が彼に対して提供できる話題なんてゼロに近い。


 せっかく彼と近くに、同じ空間にいるのに。どこまでも会話を紡げない。彰人も気まずさからなのか、本をめくる動作をやめようとしない。もし、その動作が止まったら、私たちはどうすればいいのだろう。


 ──そんなときに飛び込んでくるドアをノックする音。


 彰人がその音に対して返事をする、その返事と同時くらいに食い気味に彰人のお母さんが部屋にやってきた。お母さんの手にはお盆があり、そのうえで荷は茶色い液体が注がれたガラスのコップがある。少しばかり表面に水滴がついているのが見えた。


「はい麦茶持ってきたよー……って、あんたたち静かすぎない?」


 ……会話できることがないのだから仕方ない。彰人はページをめくる手を止めた


「……そうかな」


「そうよぉ! 女の子がいるのに本なんか見つめちゃって。なんかいい話題とかで楽しくお話しぃ、とかないの?」


 そう言いながら彰人のお母さんは私に詰め寄ってくる。


「芽衣ちゃんもつまらないわよねぇ?」


「え、あ、いや」


「彰人ったら本当に根性なしなんだから。デートの一つくらい連れて行きなさいよ!」


「……母さんには関係ないだろ」


「関係あるわよ! 家の中で辛気臭い空気を女の子で過ごされちゃあ、こっちも気まずくなっちゃうわ。適当に外にお出かけしてきなさいな!」


 ……え? お出かけ?


「いや、ほら、外とか暑いし……」


「言い訳無用! さっさと支度して外に出ていきなさい!」



 そうして私と彰人は外に出ていかされたのだった。


 



「……なんか、ごめんな」


「いや、ぜんぜん」


 逆に私がいるせいでこんなことになっているのだから、申し訳なさしか感じない。


「……それで、どっか行きたいところとかある?」


「……うーん」


 行きたい場所……。行きたい場所……?


 思い付きで彼の家に行ったくらいなのに、行きたい場所なんて思いつかない。


 というか、こういった男女で出かける時って、どこに行けばいいのだろうか。そもそも人と出かける以前で独りで出かけることもない。唯一出かけたのは、母に頼まれて行った買い物とか、もしくは勉強するときに必要な参考書のために本屋に行ったくらいしか思い当たらない。


 そんな私が、こんな場面で有意義な場所を挙げられるはずもない。


「それならさ、芽衣が良ければ水族館でも行かない?」


「……え?」


「母さんに『女の子と出かけるんだからそれっぽいところ行ってきなさい』って金持たされたから、なんかそれっぽいところに行かなきゃ怒られそうで……」


「……ぷっ、何それ」


 なんか、可笑しくて噴き出してしまう。きっと笑っちゃいけないんんだろうけれど、彼の言動が面白くて仕方がない。


「それじゃあ、行こっか! 水族館!」


 私はその勢いのまま声を出す。そんな頃合いには、先ほどまで感じていた気まずさは消えていた。

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