第3話 夢は途中下車できない
梅雨明けしたはずなのに雨が止んでも大地は湿っている。空気にも水分が滞留している。潤いはありがたいはずだが過ぎたれば及ばざるがごとしで病んでしまう。じっとりと濡れたまま放置された布地からは嫌な臭いがするものだ。細菌が繁殖しうとましい時を分解し始める。
「この前は悪かったね」
とおばちゃんは言う。
「あの二人をほっといたらよくない気がしてあんたを巻きこんじゃった」
「美津子さんは途中で帰って牟田口さんと二人で蛍を見ました」
「あんたの来る前から喧嘩していたからね」
布巾で皿を拭きながらいつものように目を細める。
「我慢しなければいけない時にできないみたいね。待つことも必要なのに。せっかちとも違う。堪え性がなさすぎるよ、今の人たちは」
そうぼやいている。
「あたしが若い頃は待ち続けたよ。今もそうかもしれない」
「今も? 」
「そう。あたしは今もあの人を待っているよ」
「あの人、って誰ですか」
ヒーミーツっ、とおばちゃんは珍しくふざけた調子で声を潜める。からかっていいものかどうか判断がつかず黙っていると、決まっているじゃない、いい人だよ、と藤原さんが口をはさむ。
「よしてよ。うかつに夢をしゃべったらよくない、って言うでしょう」
とおばちゃんは言い訳めいて呟いていた。
そんな信仰があるのだ、と。決まってもいないことを声高に主張するのはみっともない。夢はひそやかに寝かしておくべきものなのだ。へたに主張すると思わぬ横やりが入ったりしてかなわなくなる。呪文と同じだ。いいことはいくらしゃべってもいい。でも縁起が悪いことは口にしない方がいい。確かに「死」をイメージするから四階とか四号室を避ける、というような風習は今もある。言葉には魂がやどっている。とりわけ日本の文字はアルファベットのような記号とは違う。一つ一つに力がある。もちろん悪い意味だけではない。「勝つ」ためにカツを食べる受験生もいるではないか。
だからおばちゃんも「あの人」が帰ってくるまで囁き声をあわいに保留して表には出さないわけだ。
帰宅してラジオのスイッチを入れる。
ジ・ナーダ。
美津子がナビゲーターを務めている番組である。ボサノバを中心にブラジルなど海外の音楽シーンを紹介する通好みの番組で、夜十一時という時間帯に合っていたと思う。提供は化学メーカーで知名度アップやイメージ戦略の一環なのだろう。必ずしも景気が悪いとは思えなかったが無駄だと切り捨てられたのかもしれない。ITバブルだとかで外国のファンドが入ってきてなんだか妙な居心地の悪さを感じていたものだ。あれは変化が激しくなる時代の前触れだったのかもしれない。
あたし、サボテンを育てているのです、
と美津子は語っていた。
プロヴァンスを旅していたら浜辺の店で見つけて、なんていう話ならかっこいいのですけど本当は違うの。家の近所に花屋さんがあって、ご主人がいつも演歌をハミングしているのだけど、こういう音楽はどうですか、って先週ご紹介した「マイ・ベスト・ボサノバ」のCDをあげたらお返しにもらっただけで。あたしとしては演歌じゃなくて「イパネマの娘」とか「おいしい水」あたりを口ずさんでもらえればすてきなお花屋さんになるのかなって思っただけで余計のお節介だったのだけど思わぬ結果になりました。なぜサボテンかと言えば、当然、手間がかからないからでこっちの不精な性格をすっかり見抜かれていたわけね。
でもね、不思議なことに時間が経つにつれて愛嬌を感じちゃうの。サボテンって言うとイメージはメキシコの砂漠にひょっこり伸びている感じかしら。イソギンチャクみたいな丸い奴やジグザグした怪獣みたいな形もあるけどうちのはこれぞサボテン、っていう細長いタイプで、枝分かれした先が曲がっていて、遠めに見るとサボテンクンが照れて頭に手を当てているみたいに見えるのよね。勝手な思い込みだけど。
水をやり過ぎないで、と言われたのでほったらかしにしているけどけっこう成長するものよ。二ヶ月で三センチくらいは伸びた。そうするとね、部屋に生き物がいる、って感じられる。親が厳しくてペットを飼ったことなかったし飼いたいとも思わないけど犬や猫と暮らしている人の気持ちが少しだけわかった。特に一人だとね、部屋に入ったときの雰囲気が違うの。誰もいない真っ暗な部屋でさ、電気をつけても建物に染み付いた匂いがするだけでがらんとして寂しいものだけど、ちっちゃなサボテンの鉢一つで変わるのね。窓際に行って、
ただいま、
って声をかけるのよ。そうすると声は聞こえないけど、お帰り、って返事しているような気がするのよ。かわいいの。
こんな風に語って、ウフフッ、と少女のような笑い方をする。顔が見えないからラジオの出演者は得だな、と思う。どう見ても三十歳は過ぎていたが、音だけだとティーンにも化けられる。声は低くかすれており個性的だ。それでいて柔らかく耳に心地よい。
こんな番組も悪くないじゃないか、
と思った。番組終了は告知されなかったが、残念な気もした。音楽はボサノバじゃなくてもいい。うるさすぎず、押しつけがましくなく、そしてどうでもいいおしゃべりと身近な感じがいいのだ。テレビだとこうはいかない。チャンネルを変えられないように刺激に満ちた効果音がひっきりなしに繰り返され疲れてしまう。
気がつくと番組は終わっている。
当時、中野で借りていたアパートは部屋も狭くしゃれた造作など皆無だった。近所の写真館の主人が親切で、ときおり暗室を使わせてくれるのがありがたくて住み続けていたが、もう少しましなところへ移ろうか、と考えた。
美津子のように窓際にサボテンでも置いて。
明かりもつけずに美津子がサボテンを見つめている姿が思い浮かぶ。きっと彼女もそんなふうにしてオンエアをチェックしているのだ。発声を確かめながら。それとも牟田口が言っていたように闇をすかして追っ手を見極めようとしているのだろうか。いやいや、己の声を聴くなど耐えられないと逃げ出してしまうのかもしれない。
牟田口がおばちゃんの店に一人で現れたことがあった。ガラッ、と戸を開き、店内を見渡した。このときも全身黒づくめだった。
来てないよ、
とおばちゃんは発した。そうですか、と頭を下げるので帰るのかと思っていたら、隣に腰を下ろして、ビールを頼んだ。
この前はどうも、と。
「彼女、すっかりお冠でね」
「あの後、ここには来ていないですよ」
「そうでしょうとも。音信不通で困りました。最後の収録はすっぽかすつもりかと心配で。幸い、さっき無事に済みましたけどね。挨拶もせずに出て行ってしまって」
「それで探しに来た? 」
「ええ。ただ、誤解されるといけないので言っておきますけど、俺は彼女のなにかではないですから。男と女の関係でもありません」
そんなこと聞いていないよ、と思ったが黙っていた。おばちゃんも無視している。なんだか気まずくなっていた。
「新しい番組のタイトルはボイスオブネイチャーです」
空気を察したのか話題を変える。
自然界に存在するさまざまな音をクローズアップして、それをBGMにアレンジして届けるとか。新しいスポンサーは札幌に本社がある健康食品の会社で全国展開に備えて知名度アップを狙っての提供らしい。まずは北海道でサンプリングする。雨、風、川の流れ、雷、鳥や虫の声、それらに加えて葉が開く音、樹の実が落ちる音、キツネやウサギの足音などなかなか聞けないものも予定されており、環境音楽の作曲家に構成してもらう。ナビゲーターはアウトドア雑誌の編集者に依頼したという。
「面白そうですけど、ネタ探しがたいへんですね」
「そんなことないですよ。相手は自然です。テーマは無限にありますよ。例えば今、考えているのは時間です」
「時間? 」
「そう時を主題にして構成するんです。都会にいると時計に刻まれた時刻と考えるけどそれは一面に過ぎません。森にはたくさんの時が含まれています。樹々の時間、虫の時間、風の時間、みんな一つ一つ違っていてしかも変化している。ていねいに味わうことで番組に深みが出ます」
もっともらしい能書きだが考え過ぎだとも思えた。
「時間ですか。確かに面白そうだけど」
「時間そのもの、ってのがあるのでしょうか。不思議ですよね。現在、過去、未来と言う。過去は確かにあったけど今はない。未来はまだないことだし、現在も捕まえようとすると過去になっている。つまり時間はどこにもない。違いますか」
「人が不完全なだけと思います。完全ではないから時間を捉えられない。完全ではないから時間がある。時間にもてあそばれる。恐らく時間を捕まえられるのは死ぬときでしょう。人は死んで初めて完成するのです。そこから先は変わりようもない。すべてが停止するから時間からも逃れられる。この世の外に出れば過去も現在も未来もない。全部いっぺんに見渡せる」
コトン、と音をさせて牟田口はグラスを置き目を剝くようにしてこちらを見た。驚いたのか。それとも怒っているのか、とも思えた。
「あなたはカメラを使うからそんな考え方になる。カメラは機械だから完全だ、時間を超越している 、そういうことですか? 」
「確かにカメラは人間を超えています。でも道具に過ぎません。見るのは結局、人間です。写真は現実のコピーでもないし、意味を語るものでもありません。たまたまそこにあった光を記録しているだけで、絵画と同じ恣意性もあります。過去の痕跡ですが、時間を超え出ているわけではありません」
「なるほど。それならば時間は前から迫って来るのでしょうか。それとも後ろから追ってくるのでしょうか」
「どちらでもないのです。今、ここにあるとしか言えない」
牟田口はため息をついてこめかみに指を当てている。
時間は流れない。どこかに存在しているわけでもない。かといって幻でもない。確かに目の前で経過しているのに触れられないのだ。
「札幌に行くだけでも時間の流れは違うでしょう。東京ほど早くない」
「そうですね。のんびりしたものです」
実は北海道に弟がいまして、と僕は告げた。
「山男で山小屋に務めてますよ」
「そうでしたか」
「兄貴もはみ出者ですけど我慢して東京で働いている。弟はこらえ性がなくて彗星みたいに飛んで行ってしまった。それでも落ち着いたほうで若いころはヒマラヤだアンデスだのあちこち出歩いて帰ってこなかった」
「かっこいい生き方ですね」
「他人から見ればそうかもしれないけど本人はそう思っていないし、家族からするとなんとも面倒な奴です。生きているかどうかもわからないわけですから」
「今度、紹介してください」
牟田口は名刺を差し出した。帰宅すると記されていたアドレスに弟がいる山小屋の場所をメールで送った。そのことはそのまま忘れていた。
夜光時計を再度確認する。目覚ましをきちんとかけただろうか。時計は夜の深さを測っている。朝が来るのを恐れているかのようにひっそりと。夢は眠りの浅いときに見るものらしい。寝入りばなと起きる直前だ。何度も寝たり起きたりしたら、夢の数は増えるはずだ。転寝すると豊穣な夢想に耽ることができるような気がするのもそのためか。
時計の背後を探って目覚ましのスイッチを確認しようとするのだが見つからない。闇だけがしんしんと積み重なり、引き返すことのできない隘路をたどっている。
夢は鏡に似ている、と美津子は言っていた。
目の前に自分の顔が写っているとする。顔と顔の間には距離があり深さがある。すぐそばに見えるのだが決して届くことはない。腕を伸ばしても鏡の表面にはじかれる。同じように夢の中に入ったとしてもそこにあるものに触れることはできない。実在しているのに確認はできない。しかもそれは自分自身なのだ。
鏡は人を惑わす。反射に過ぎないと軽んじてはいけない。そっくりそのまま写しているようでいて左右は反転しているし、ときには直視しても見えないものまで収めているのかもしれない。それが鏡の秘密なのだ。三面鏡の扉を開いて、頭を突っ込んでみれば両側に己の顔がある。顔を見ている顔の背後には、その顔を見ている顔が写っている。そのまた後ろにも顔。鏡の角度を調整すれば顔は無限に連なって闇の果てへと導くだろう。左右に開いた鏡の間を顔たちは飛来して連鎖する。鏡を合わせると悪魔が出るという言い伝えがあるのは理解できなくもない。無数に並ぶ顔はすべて同じはずなのに一つだけ意地悪な微笑を浮かべた者が混ざっているのではないか。その顔こそ悪魔なのではないか。
いや、むしろ真実の心なのかもしれない。
隠されていた魂の真相だ。錯視ではない。鏡の魔術が生み出したファンタジーでもない。鏡は潜んでいた瑕疵をあぶり出す。
だから鏡の表面は常に磨いておかないといけない。曇っているとありもしないものが見えてしまう危険がある。経年変化で生ずるくすみやしみも心配だ。鏡はガラスの裏側に水銀を付着させたものだから錆びも出て、いつの間にか妖しい人型が浮かび上がっていたりする、という次第だ。錆びは酸化現象の一種であり、原理的には燃焼と同じ結果をもたらす。炎は激しい反応で瞬時に対象を焼き尽くすが、錆びはゆっくりとことを運ぶ。いわば凍りついた炎だ。不可逆的な時間がその効果に手を貸す。
こうした幻像に騙されてはいけないのだ。
夢は創造をしないものらしい。登場する材料はすべて心の底からくみとられたものであるはず。未知のもの、初めて見ると思えるものがあったとしてもそれは無意識のうちに醸成されたもので、明け方に怪物を見て冷や汗をかいたとしてもそれは外にいるわけではない。目が醒めたらきれいさっぱり消えている。しかし安心はできない。怪物は己の顔だからだ。何度でも現れる可能性がある。外部の物体は原理的に消去可能だが内部にあるものは消し去ることはできない。忘れたとしてもそこに残っている。完全に消えるとしたらそれば自分が死ぬときでしかないのだ。
夢に外部はない。
しかしまた夢は内部にある外部と感じられることも事実だ。夢とは入ったことが出たことに感じられ、出たことは入ったように感じるそんな場所なのだ。
夢からは途中下車できないの。一度乗ったら、どこかにたどり着くまでつき合わなくちゃならない、そうでしょう?
これもまた美津子の言葉だ。
だから気をつけないといつまでも同じ列車でさまよい続けることになる。飽きちゃうよね。なるべくいろんなところを冒険してみたい、そう思わない?
悲しそうに眉をしかめたあの横顔は、はたしておばちゃんの店で見た表情だったのかそれともこれまた夢の中だったのか。靄の彼方で曖昧になっていく。細い背中だけがシルエットとなって。
そうなのだ、夢から降りる方法を取得しなければならない。
時刻を確認しよう。
時計はどこにあるのだろうか? 目覚まし時計を使わなくなって久しい。景品でもらったドラえもんの形をした時計だ。ベッドの下に落ちているかクローゼットの奥で埃を被っているか。いや、本棚にあったような気もする。それともこの記憶も夢なのだろうか。
あの時計はもうないのか?
こうしていったいいくつの夢を渡ってきたことだろうか。数えることは不可能だ。そしてもっとも恐ろしいのは、これはたった一つの同じ夢かもしれない、ということだ。
あのころ、すでにそれに気がついていたのかもしれない。
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