第4話 UFO
美津子の自宅は北区の住宅街にあった。都電荒川線の駅から歩いて十分くらいで、広い通りに沿って屏風のようにマンションが並んでいたが入り組んだ路地を入ると古い家が軒を並べている。手狭な一軒家だったが、主である父親は入退院を繰り返しほとんど自宅にいなかったし、母親はずいぶん前に離婚して郷里の新潟に帰ってしまいがらんとしていた。父親が手入れしていた庭は荒れ放題だし玄関の前には干からびた根がこびりついた植木鉢が転がっていた。引き戸を開くとカビの臭いがして、たたきと柱には立派な木材が使われているが靴箱は合板で扉に張られた樹脂ははげ天板が焼けて色が落ちている。その上に小さな座布団が敷かれ電電公社時代の黒電話が鎮座していたのを覚えている。
帰宅すると美津子はいつもヒールを脱ぎ散らかしたまま駆け上がり、明かりもつけずに台所に入って冷蔵庫を開く。庫内灯の青白い光が廊下に漏れて幽霊屋敷のようだった。
隣接して庭に面した洋間があり、猫足のサイドボードの上でSEIKOと書かかれた置時計がきらきらと天使の飾りを回している。ゴルフコンペの賞品だったとかで、隣にはいくつものトロフィーが埃をかぶって並んでいた。壁には紅葉の渓谷を描いた油絵がかけられ、大型のステレオセットが置かれている。レコードプレーヤーには「グレン・ミラーの世界」と書かれたLPが載ったままになっていた。
お父さんはビックバンドが好きみたいだね、
と言うとどうかな、と答える。演歌でも歌謡曲でもなんでも聞くよ、とのことだった。確かにラックを改めると松田聖子あり、フランク永井あり、喜太郎の「シルクロード」にシューベルトの未完成、荒城の月、ゴダイゴに中島みゆきとジャンルも趣味も雑多である。
「でも音楽が趣味だろう」
「そうは思えないけど」
「このステレオは高かったはずだよ」
「見栄なのよ。大してこだわりもないのにわかったふりしてさ。ゴルフでもお酒でもなんでもそう。あの世代の人はね、急に世の中が変わったから、一生懸命背伸びして自分を飾りたてたのよ。まあ、あたしだって似たようなものだけどさ」
そういってペロッ、と舌を出すとサイドボードを開く。中にはジョニーウォーカーとかホワイトホースとかこれまた昔流行した舶来のスコッチの瓶が並んでいた。
「ほとんど空だね」
「捨てればいいのにね、なんだか捨てられないみたい。もったいない、って感覚が抜けないの。母もそうだった。デパートの包み紙とか古着の端切れみたいなものを山のようにため込んでいてさ、全部あたしが捨てたけど。ものを大切にするのはいいことかもしれないけど貧乏くさいよね。家全体がガラクタばかりでさ、気が滅入っちゃう。貴重な資料もあるけどね。UFOの雑誌とか。ずいぶん前だけどあたしが仕事でUFOの取材をしたら、それがきっかけで興味を持ったみたい」
そんなことを言いながらも
そうだ!
と急に階段を駆け上がり、二階でがたがた音をさせていたかと思うと駆け下りてきた。ぱたぱた、と裸足で階段の板を鳴らして。手にしていたのはクマの形をしたかき氷製造機だった。
「キョロちゃん、知っている? 目が動くの。かわいいよ。子供のころ宝物だったの。これでかき氷を作ろう」
そう言って台所に入ると冷蔵庫から氷を取り出して作業し始めた。蒸し暑い夏の夕方で、僕はその週取材していた電子部品メーカーの記事をまとめ、ファックスで編集部に送ったところだった。玄関の脇にある四畳半がいつの間にか仕事場になっていた。窓に取り付けられたエアコンの効きが悪いのが難点だったがそこに入ると集中できて仕事がはかどったのだ。いつかラジオで聞いたサボテンクンも美津子の部屋から持って来られて僕が持参したドラえもんの形をした目覚まし時計の横に鎮座した。毎朝、おはよう、と声をかけ、夜はおやすみ、と挨拶する。ときには水もやる。いつも照れたような表情で答えてくれる。ある意味、望んでいた通りになったわけだ。
おまけに敷地の隅に置いてあったヨドコウの物置がにわか作りの暗室になった。父親の園芸用品を取り出すと二畳くらいのスペースとなり、引き伸ばし器を置くのにおあつらえ向きだった。夏場は殺人的な暑さに見舞われたが午後になると家屋の影に入るので夕方から作業することにしていた。部屋にこもって作業している僕とは裏腹に美津子はあちこち出歩いて仕事を探していたがはかばかしい結果は得られなかったようだ。
リビングに座っていると西日が入ってもわっとした空気がなんとも不快だったが、橙色の光は次第に淡くなり、空が菫色に染まり始めると、室内の灯りが窓ガラスに映って鏡になる。ソファにふんぞりかえっている影は自分なのだが、入院中の主が戻ってきたようにも見えた。窓は外側を縁取って提示してくれる。鏡は内側を反映して明らかにする。二つの機能が同時に作動している。
だとしたらそこにいるのは過去の亡霊だろうか?
むしろ未来の姿なのか?
前にいるのに後ろに見える。いや後ろにいるものが前に映し出されたのか。時間は前から迫って来るのでしょうか、それとも後ろから追ってくるのでしょうか、と問う牟田口の声が耳朶に甦った。はっ、として身を乗り出すとあいまいな影は消えてしまう。
ほら、と美津子はかき氷を持ってきた。
シロップがないからマーマレードかけてみたけどどうかな、と。小さなガラスの皿に氷が盛られ、上にオレンジ色の塊が載っている。妙な取り合わせにも思えたが意外とうまかった。そう言うと美津子は微笑んだ。
「なんだか父さんに似ている」
そんなことを呟くのだった。ごめんね、変なこと言って、と慌てて言い足しながら唇をぬぐう。
秋の気配が漂いかけたころ、おばちゃんの店の暖簾をくぐった美津子はいきなり、あっ、と叫んだ。同時にカウンターの端にいた背広姿の男が、やっと現れたね、と立ち上がる。冷蔵庫の前で立ったまま落花生を剥いていた僕や藤原さんら常連が事態の成り行きを見守っていると美津子はすばやく踵を返し姿を消した。男は、待て! と叫んで追っていった。なんだろね、と顔を見合わせているとものの十分ほどで戻ってくる。男の態度は居丈高で絡みつくような仕草をする。その度に美津子が振り払う。
「関係ないでしょう。帰ってよ」
「話くらいしてもいいじゃないか」
「話すことはない」
「仕方なかった。俺の力で決められることではない。理解してほしい」
「わかっている。だからさっさと帰って」
「バカ言うな。そんなわけにはいかないぞ。こっちの言い分も聞けよ」
美津子はプイ、と席を立つと離れたスツールに移る。男はにじり寄って腕を取ろうとする。二人が揉み合いになると、
「お客さん、すみませんけど痴話喧嘩は外でしてもらえませんか。ほかのお客さんに迷惑だから」
とおばちゃんが言う。男が目を三角にして、なんだと、と声を荒げたので僕と藤原さんもジョッキを置いて一歩前に出る。五十歳くらいだろうか。地味だが仕立てのいいスーツを着ており、それなりの地位にある人だと推測できる。酒で気が大きくなっているだけだ。
「暴力はいけないと思います」
相手の目をじっと見つめてそう言うと青筋がたった。
「落ち着いてください。警察沙汰にでもなったら碌なことにならない。ここはお引き取りいただくのが良いのでは」
鼻息が荒くなったが、ふざけんな、と低い声で呟き、後で連絡をよこせ、と指先で美津子の身体をつつくと荒々しい動作で出て行った。
一件落着。
美津子は萎れた花のように小上がりの縁に座り込んだ。おばちゃんが黙ってグラスを渡し僕らは元のところに戻った。テレビではお笑いタレントの笑い声がかしましかったが誰も聞いていない。
美津子がうな垂れたまま、すみませんでした、と出ていこうとしたとき、送ってあげなよ、と指示が出た。
虫の集く声がすごかった。
ありがとね、と彼女に言われる。地下鉄を乗り継いで、ずいぶん遠くまで行くな、と思ったら最後は都電だった。停留所で降りると、ここで、となるのかと思ったら家まで来て、と頼まれて結局、門の前まで送った。道中、ぼそぼそと語ったのは店に来た木下という男のことで、スポンサーの専務だという。あまり聞きたくない話だったが、言いたいことをすべて言わせたほうがすっきりするだろう、と思って聞いていた。最低の奴だ、と思いながらもコメントしなかった。別れ際、お願いがあるのだけど、と言い出す。
「約束したでしょう、今度、撮影してほしいの」
約束? まったく覚えがなかった。
「新潟の浜辺で撮るの。母の故郷でね、海がきれいなの。あたしは子供のころから好きな場所でいつかモデルさんみたいに撮影してもらうのが夢だったの」
わかりました、と答えながらも、妙な成り行きだな、と思った。
二週間ほどして連休に新潟に出かけ、浜辺でロケをした。普段は機械や工場の写真ばかりで人物の撮影は慣れていなかったが、専門学校で習ったことを思い出しながらこなした。風の強い日で難儀したが、思いもよらぬ効果が出た。
巻き上げられる髪。
帽子や裾を抑える手。
遠くを走る雲。
画面に動きが出て生き生きとした表情に写った。誰もいない海岸はあたかも貸し切りスタジオのようで、三台のカメラを駆使しながら撮影していると一流カメラマンになったかのように気分が高揚したのも確かだった。
美津子。
身体はしなやかで、それ以上に翳された顔面に浮かぶ表情が何とも言えず動物的でいくらシャッターを切っても尽くせぬ不可思議の泉に思えた。
「どう、いい写真撮れた? 」
「ああ、最高だ」
「どんなふうに最高なの? 」
「今日の風と同じでね、ものすごい勢いで走っている。捕まえたと思ったらもういない。謎なのだ。君は謎」
謎。
美津子もはしゃいでいたと思う。近くの温泉旅館を彼女は予約していた。母方の遠縁なのだという。料理も温泉も覚えていない。ただ夜半まで絡みついていた彼女の肌の熱さだけが遠い記憶として蘇ることがある。
美津子の父親は赤羽の総合病院に入院していた。
脳梗塞で倒れたため、半身が自由にならない状況でリハビリを続けていたが、当面、自宅に戻るのは難しいと聞いていた。一度、一緒に来てくれないか、と頼まれて困惑した。
迷惑なのはわかっている、
と彼女は言う。父が安心してくれるかもしれないと思って、と勝手な言い分を展開している。いつまでも独身の娘を病を得た父親が心配するのは当然だ。だとすれば余計に無責任なことはできない。美津子と所帯を持つことはまったく想像していなかった。相手も望んでいないだろうし自分はただの居候にすぎない。そう思いながらも同意したのはどこか後ろめたさがあったからだろう。
虫の集く夜だった。
面会時間は食後の夜七時から九時の間で、一階の受付で面会票を受け取り、四階の病室に上がった。四人部屋で、父親は窓側のベッドにいた。二つは空いていて、脇の一つはカーテンが閉じていてテレビの音声が響いていた。
こんばんわ、
と務めて明るい態度で挨拶した。美津子がどんな説明をしていたのかわからないが、舅に挨拶するときはこんなものなのか、などと想像し緊張したのは事実だ。父親は、あっ、どうも、と実に軽く受けた。
「この前、話したでしょう。記者の篠田くん。ほら、玄関の四畳半を仕事場で使ってもらっている」
「ああ、そう」
相手も緊張していたかもしれない。頬がこけて無精ひげが伸びていたが顔色は悪くなかった。眼光ははっきりしていたし鼻筋が伸びやかで品のいい容姿だ、と感じる。見舞いの花と果物を脇の台に置いた。
「できればスコッチが良かったな」
「あら、父さん、またそんなこと言って」
「禁酒だと聞きました」
「ちょっとくらいならいいのさ。どうせ先は長くない。楽しくやらにゃあ」
ダメ、と娘が父の手を取る。ありえないよ、と。
「前はねえ、看護師さんの目を盗んで勝手に抜け出して近所のお寿司屋さんに行っていたの。そんなことするから再発しちゃったんだよ」
アハハ、と父親は力なく笑った。
あのときほんの一瞬、時間が停止した。今が今のまま、永遠となる。そんなことがごく稀にある。父親と自分が一体となり、美津子も加わって静止する。一期一会。みなが幸せなのだ。それまでもずっとそうあり、これからもそのまま変わらない、変わる必要もないしありのまま変わらなくていい、そんな確信が瞬間的に全員の上を過ぎるのだ。
もちろんすぐに幻想だとわかる。
「わがままな奴ですけどよろしくお願いします」
と父親は唐突に頭を下げる。
「恥ずかしい話ですがわたしの甲斐性がないあまり母親は出て行ってしまってね、大した事はしてやれなかった。この子は文句も言わずに家のことをこなしてね、その分、甘やかしてしまった部分もある。だから身勝手と感じられるかもしれません。説明が下手なだけで、いろいろ考えた末にやっていることです。だから腹の立つことがあっても堪忍してやってください」
「ちょっと父さん、変なこと勝手に言わないでよ」
「いいや、はっきり言い残しておかないとだめだ。ねえ、篠田さん、あなたはいい人だ。こんなところまで見舞いに来てくれて。わたしにはわかります。感謝しています。娘をよろしくお願いします」
美津子はなにか言おうとしたが、口を開くよりも早くツッ、と涙が頬を伝った。顔を伏せて窓に向き合う。漆黒の闇に虫の声だけが響いている。暗転した夜の彼方をなにとも呼べない何かが通り過ぎていく。
すべてを見ている。すべてが見られている。
だけど手を出すことはできない。どうしようもなく過ぎ行くだけだ。みんな知っている。知られている。どこかで見たことのある光景ではないのか。ホームドラマの愁嘆場のようでもあるし、舞台の上で方途を失った役者が立ち止まる間のようでもある。
わかりました、
と僕は答えた。それ以外に言葉がない。いささか乱暴だがたとえ虚偽だとしても返答しなければならない。そして目を逸らせてはいけない。相手に嘘だとわかったとしてもいいのだ。余計な言い訳はいらない。
父親の口元でこわばりがほどけるようにして笑みがこぼれた。ゆっくりと頷く。美津子はその手を握りしめた。
「うちにあるムー関係の資料、あれをぜひ篠田さんに差し上げて」
「ムー? 」
「雑誌のことよ。父さんのコレクション。UFOとか恐竜とかテーマ別に整理してあるの。面白いよ」
そう、と頷いた。ありがとうございます、と。
去り際、父親は「さようなら」と手を上げた。
その言葉が別れを示しているということを改めて感じさせる響きがあった。さようなら、つまりそのようであり仕方がないならお別れである、ということだ。二度と会うことがないとわかった者同士が最後に交わす挨拶なのだ。
さようなら、
そう返すと何度も頷いていた。部屋を出る間際にふり返るとまだ手を振っている。もういいのに、と思うのだがやめない。
さようなら、ともう一度、繰り返した。
その晩、夜中に目が覚めて便所に行こうとすると廊下に青白い光が漏れているのが見えた。冷蔵庫が開いているのかもしれない、と台所をのぞくと開いたドアに手をかけて半裸の美津子がかがんでいた。ぼうっ、としたまま庫内を見つめている。能面のような面持ちで表情もなく動かない。
どれくらいそうしていたろうか。
見てはけないものを見た気がして声をかけそこなったまま後ずさりした。あれは幻だった、そう思おうとした。しかし忘れようとするほどに異様な光景があからさまに浮かび上がってくる。肩の上で乱れた黒髪と虚ろな視線、薄い生地に包まれ発光しているかのように青く見えた身体、そして凍りついた顔。
あれは魂の抜け殻だ。
寝床に戻って考えた。事態は思ったよりも深刻なのかもしれない。
人はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
天井板に浮きだした染みが意味ありげに見える。どこまでたどっても果てがない。大事なものは隠されている。隠されているという信号を発しつつ表される。本体は見えなくてもそこにいるのだ。
美津子の魂が彷徨っているのもそうした場所だ。
ほどなく美津子の父親は身罷った。葬儀も行われず火葬場に直送された。立ち会ったのは以前、勤務していた会社の同僚と親戚が数人で母親は来なかった。現金書留で香典だけが送られてきた。
火葬場に行ったのは子供のころ以来だった。自分の両親はまだ健在だったし、父親が事業に失敗して破産して以来、ほぼすべての親戚づきあいは途絶えていたため葬儀に呼ばれたこともなかった。
広大な施設で、黒衣の人々が細長い通路を往来している。番号で呼び出されて部屋に入ると僧侶が待っており、わずかばかりのお別れの儀式が執り行われる。父親の様子は病室で会ったときとあまり変わらない。穏やかではあるがそれはすでに人ではなく物体なのだ。周囲に飾られた花が余計にそのことを際立たせる。美津子は感情を乱すこともなくじっと見つめていた。読経が終わり一人ずつ焼香する。かつての同僚と親戚らしいが見も知らぬ人ばかりだ。会話もない。やがて台車がスライドすると背後の鉄扉が開いて棺桶ごと飲み込んでしまう。すべてが機械じかけで工場のようにスムースに処理されていく。
ロビーに戻り小一時間、新聞を読んで待っていると再び番号で呼び出され、今度は一同で遺骨を収拾する。骨壺に収まると美津子がそれを肩にかけ、遺影を持たされた。そして表に用意されていたタクシーに乗り込むと背後で会葬者たちが一礼する。儀式はそれで終了した。帰宅して居間のサイドボードににわか作りの祭壇を設け遺骨と位牌を並べる。
「おまかせプランにしたら葬儀社の人がぜんぶやってくれたのだけど、節約しちゃった」
と美津子は言う。
「葬式は簡単にしてくれって言っていたから」
「お墓は? 」
「福山にあるの。だけど父はろくにお参りもしていなかったし、あたしも子供の頃から行っていない。どうしようかと思って。今さら行ってもお寺からいろいろ言われそうだから」
口をへの字結んでいる。
「母はもちろん、あたしも入るつもりはない。父だけ入れてもどうかなって」
「だけどここに置いておくわけにもいかないでしょう」
「どっかいいところないかしら。散骨とかでもいいしさ、見つけといて」
無責任にそんなことを言ってその晩は仲間が紹介してくれたアルバイトで医学系の学会の司会に出かけてしまった。
僕は一人、遺骨と向き合いながら夜を過ごした。
美津子は夜中に戻ってきた。酔っているらしく足取りは乱れドタバタと大きな音を立てていたがそれもやがて静まった。
四畳半の隅でせんべい布団に横たわっていると鈴虫の鳴くか細い声だけがずっと響いていた。
宗派にはこだわらない、というのでいくつかの納骨堂を候補にして資料など取り寄せたが遺骨の行き先は決まらない。それなのに、おばちゃんの店で飲んでいると急に、
お墓参りに行く!
と言い出した。いいからついてきて、と。残暑が厳しく昼間の熱気が冷めずに蒸していた。だいぶ酔っていたはずだが歩き出すと思ったより早い。新宿方面へしばらくオフィス街が続くが、御苑の入口を過ぎたあたりから色を濃くした宵闇にネオンや提灯が輝き始める。よく見れば穴倉から出てきた獣のようにのっそのっそと酔客たちが行きかっている。幅一軒ほどの狭い筋に焼き鳥、ホルモン、ラーメンなどの食べ物屋が並び、交差する路地には紫やピンクの電飾がほのめいていた。
立ち止まってカメラを構えているとジャイアンツのキャップを被り、びっこを引きながら両目をぎらぎらさせた男がやってきた。身の危険を感じて左によける。その身体からはすえた匂いがしていた。男は短くなった両切りの煙草を唇につけたり離したりしながら、ちくしょう、と低く唸る。係わり合いになったら厄介そうだが、幸いそのまま行ってしまった。ほっとすると、男の出てきた路地に「ぬけられます」との文言が掲げられているのに気がついた。
「居酒屋ぴーちゃん」「クレシェンド」「ひろみ」
など看板がずらりと並び、突き当りは闇に沈んでいる。あらかた飲み屋なのだろうが、こうして名前だけ並べてみると文学的だ。立て続けにシャッターを切る。他に
「雀荘ストライク」「タイ式マッサージチャンマイ」
などもあったが、
「つり堀」
という表示には驚いた。こんなところで釣り? と首を傾げる。それともなにかの隠喩なのか。これこそ迷宮だ。
どこに行くの? と尋ねると、冥界の入口よ、と答える。肩を並べて「ひょうたん小路」というのに入る。人通りは減ってさらに暗い。足を速めてついていく。
美津子は古びた自動販売機の前に立ち止まった。
商品を照らす電灯がちらついている。外装にも錆が回って塗装の大部分は剥げていた。残った部分はかさぶたのようにまくれ上がっている。ゴミ袋が置かれている柱の前は「リカー木村」という酒屋で隣は会計事務所のようだが、夜になって閉店したのか、つぶれてしまったのかも定かではない。向かい側はとんかつ屋でこちらも営業している気配はない。
「お供えを買うの」
「オソナエ? 」
ちょうど表通りを大型車が通過して、建物の向こうで白い光がフラッシュのように瞬いた。いつもここでジュースを買うらしい。あんたも買って、と言われてお茶のペットボトルを買う。
その先は倉庫や小さな工場、住宅が混在している一帯で、あそこよ、と示された目的地は寺だった。門構えは立派で由緒ある古刹らしいが経済原理に侵食されたのかマンションのわきにへばりついた細長い敷地を残すのみだった。境内に入り両側をコンクリートで固められた狭い通路を抜けると、本堂が聳え、裏手が墓地だった。外国製の赤いオープンカーが住居らしき建物の前に止められていたが人の気配はない。ブロック塀で囲まれた台形の土地に不ぞろいな卒塔婆が並んでいる。藪蚊がいるようなので、なるべく早く立ち去りたいと思った。見上げればマンションがすぐ目の前に迫り無数の窓が昆虫の巣のように並んでいる。
美津子は中央部の比較的大きな墓石の前にしゃがみこんだ。表面は経年による劣化でざらついており崩した字体で書かれた文言は判然としない。
これはね、
と遠くを見るように眼を細める。
「東京大空襲で亡くなった人たちの慰霊碑。熱くて水を求めていたのかもしれない、って思うから飲料を供えているの」
「ご先祖さまなの? 」
「違うよ。お父さんたちは親戚のいる山梨に疎開していた。ただお彼岸だから。みんなそうしている」
確かに清涼飲料水のチェリオやタフマンという強壮剤が場違いな感じで供えられていた。定期的にお参りして飲み物を手向けるのだという。父親の墓参りの代替だろうか。遺骨を自宅に放置したまま、無縁仏を供養する。なんだかちぐはぐだと思ったが黙っていた。お彼岸だから、との答えにもなんだかゾクッ、とする。つまりはあの世との扉が開く時期ということだ。ここにも誰かがいるのだろうか。肩のストラップを重く感じた。つまりは撮れ、ということか。おもむろにカメラを構えると、
フラッシュを焚いたらだめ、爆弾みたいでしょう、
と忠告を受ける。そんなものかと構え直す。三脚がないので暗がりでの撮影は難しいが腰を落として墓石にレンズを向ける。
あのとき、ファインダー越しになにが見えていたのか。
表通りは水銀灯の白い光にアスファルトがぎらぎらと照らし出されていた。空車のタクシーがスピードを上げて通り過ぎ、ホステスらしき女たちの一団が嬌声を上げている。あの晩見た路地の入り口には「ぬけられます」と書いてあった。確かにふらりとどこかにぬけてしまったような気がした。つまり出たことになるのか。それとも入ったのか。
進んだのか、戻ったのか。
往ったのか、還ったのか。
のぞき込めば腑抜けた自分の顔が映っているだけだ。記憶の回廊をたどりながらいつしか迷ってしまったようだ。
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