第2話 見失われた座標
次に現われた晩、美津子は男連れだった。店の扉を開けるとカウンターに並んで座っている。ディレクターだという。黒いシャツに色つきレンズの眼鏡、頭には季節に合わない毛糸の帽子。業界人の気取りかと思っていると、癌の治療で頭髪が抜けてしまったためだという。にこりともせずにそんなことをぼそぼそしゃべる。色白で鼻筋の細い神経質そうな輩だった。
前回、機を逸したので写真、撮っていいですか、とあらかじめ尋ねるといいよ、と美津子は答える。男も構わないと言う。ムタグチです、と名乗った。みんなにはグッチャン、と呼ばれています、と。
フラッシュを焚かずにスローシャッターを切る。
カウンターの二人がファインダーの中でブレていく。会話もなく白けた雰囲気だった。おばちゃんから善福寺の自宅の近所で蛍を見た話を聞いていると、俺たちも見たいです、と口を挟んでくる。
「まだいると思うよ。雑木林が残っているところがあってね、そこで光っていた」
「あたし、ずっと見てない。蛍、見たいなあ。小さいころから光るものが好きだったの。流れ星とかイルミネーションとか」
「あとUFOだな」
「そうそう! 見たことはないけど人魂とか」
「変な奴だよな。普通の女なら光るのはダイヤか金のネックレス、ってとこだけど。まあいいや、今から行ってみようか」
二人はそう言ってこちらを見る。
「ご一緒にいかがですか。グッチャンの車があるから」
「デートの邪魔をするほどヤボじゃないですよ」
「あたしたち四時過ぎから来てもうずいぶん飲んでしまったの。あなたはまだそんなでもないでしょう。撮影もしようよ。ロケってことで。蛍は写るのかな? ステキじゃない。ついでに運転もしてもらえないかって」
反射的に手元のジョッキを見る。確かにまだ二口くらいしか飲んでいない。
「向こうに着いたらごちそうしますから」
「いえ、結構です」
「そこをなんとか。俺、自宅が吉祥寺で。善福寺まで行ったらそこからは自分で帰りますよ。駅まで送りますから」
「電車かタクシーで行かれたらいいじゃないですか」
断わろうとしていると、行ってあげたらいいじゃない、ビールはまたあとで注いであげるから、とおばちゃんが言い出してメモ用紙に道順まで書き始めたので驚いた。恐らく二人をさっさと厄介払いしたいのだろう、と理解した。
半ば強制的に手書きの地図を渡され、連れ立って駐車場に向った。ラジオ局が契約している場所だとかで十分以上歩かされた。ビルの地下にあるパーキングに止められていたのは赤いシトロエンだった。右ハンドルではあるが外国車は慣れない。こんな車、運転できるかな、と不安になる。大丈夫ですよ、と牟田口は笑っている。ハイドロじゃないです、普通の車です、と。ドアを開けるとプラスチックの匂いがした。四角張ったデザインで、こっちが指示器、ワイパーは右側で、とレバーを動かしながら説明する。国産車と反対についているのだ。後は同じです、そう聞いてエンジンをかける。思ったよりも小さな音でパネルにはオレンジ色の数字が出る。
後部座席に美津子が、助手席には牟田口が乗った。
夕方の甲州街道は交通量が多く緊張する。ラジオから歌謡曲が流れていたが牟田口はボリュームを下げて話しかけてきた。あの店にはよく行くのか、とか何の仕事をしているのか、とか質問を寄越し、曖昧に答えていると今度は自分のことをしゃべる。ミュージシャンを目指していたけど芽が出なくてアルバイトでDJをしているうちにラジオ局の人と知り合って、ライブハウスの企画マネージャーや番組のディレクターをフリーでこなしている、と。病気がわかったのは年末ですぐに手術したので命に別状はないが転移を怖れ念のため抗癌剤を打ち続けているとのこと。毛が抜けるだけでなくて倦怠感が強くなにもやる気がしないとか。
初対面にしてはずいぶん立ち入った話だった。
美津子は不機嫌そうに黙ったままである。二人の間で何かがあったのだろう。牟田口は美津子を追ってきた。だが彼女は拒絶している。体よく緩衝材に利用されているわけだ。勘弁して欲しいぜ、まったく。おばちゃんの頼みでなかったら絶対に引き受けない。
カーナビゲーションはついてなくて、メモ用紙を見ながら運転したがさして迷うこともなく指定された雑木林に着いた。駐車場などあろうはずもないから路上駐車する。
「着きましたよ。では僕はこれで」
「撮影するのでしょう。せめて蛍を見てから帰りましょう」
美津子はそんなことを言いだして突然、腕を取るではないか。牟田口もそうそう、それがいいなどと言いながら暗がりをすかして蛍がいないか探している。住宅街の一角に残された雑木林で脇を用水路が流れている。あまりきれいな水とは思えなかったがもし蛍がいるとしたら水路沿いなのだろう。等間隔に黄ばんだ蛍光灯がおぼめいている暗い道を三人はゆっくりと進んだ。おばちゃんが書きなぐった地図では細部が不明で雑木林のどのあたりに蛍がいるのかわからない。なんとも面倒かつ気まずい状況で一刻も早く立ち去りたかった。
「いないですねえ」
「場所は合っているの? 」
「この林のどこかであるのは間違いない」
「もういいや、あたし、帰ろうかな」
話は簡単だ。
美津子がパーソナリティを務めている番組が打ち切りになるという。スポンサーが降りたのが原因で後の番組はまだ決まっていない、というようなことを説明される。
「君のせいではないさ。あんなオヤジのこと忘れろ」
「いいのよ、慰めなくても。終わるものは終わる。誰のせいかなんてどうでもいいの」
「次の番組もすぐに決まるさ。マネージャーの樋口さんもそう言っていたよ」
「適当なこと言わないで」
外国語使いの若い出演者たちが軽快なテンポで繰り広げる新しいスタイルがトレンドになって、どうやら美津子には厳しい状況らしい。
用水路がカーブして道路と分かれ林の中へ向かう分岐点で女は突然立ち止る。
チューして、
と唇をすぼめて差し出した。蛸みたいに突き出している。美しいとはいえないにしても可愛いではないか。暗がりでもそれと分かる大輪の花である。ずきん、と下半身に来るものがある。ところが牟田口は無視した。横顔にはただの無関心とは異なるある種の侮蔑だろうか、冷徹に女を見下しているこわばりがあるのを僕は見逃さない。
「蛍を見つけてからにしよう」
男は女の肩を抱いたものの苛ついているそぶりを見せて遠ざけた。そして多分、この先だろう、と水路沿いに踏み固められた細い通路に入り込みずんずん進んでいる。街灯はなく真っ暗だ。牟田口の細い背中が闇に踊り、やがて飲み込まれてしまうと美津子はため息をついた。
あたし、帰るね、
と呟いて僕を見る。白目が妙に際立っていた。でも、と止めたがさっさと踵を返してしまった。どうしたものか、と考えあぐねんでいると目が慣れたのか前方の闇にうっすらと緑色の光が明滅しているように思えた。引き込まれるようにして歩いて行くと用水路の脇に牟田口がしゃがんでいた。
「美津子さんは帰りました」
「そうですか」
驚くでもなくじっと蛍を凝視している。淡い光が線を引きながら夜の縁を彩る。ほんの数匹だがかえって闇の深さを際立たせている。
「いつも間が悪い、とかこの前も言っていました。もう少し辛抱していたら見られたのに」
「あの女に惚れましたか? 」
「いいえ」
「なら良かった。でも向こうはあなたが気になっていると思いますよ。いつもあんな調子です。自分勝手というか、気まぐれでね。判断の回路がどっかショートしている。そしてやり場のない怒りに捕らわれている。冷静でいられない。結果として周りを不幸にしてしまう」
「難しそうですね。でも牟田口さんが冷静ならいいのではないですか」
責めるような口調になってしまったかもしれない。蛍が牟田口のすぐ近くに飛来する。影絵となった横顔を見て思い出した。この男は死の淵を彷徨っているのだ。迂闊な発言は慎まねば、と。
約束通り駅まで送ってもらった。用心のためか速度を落としており、交差点のたびに赤信号で止められる。
牟田口はムフフ、と変な笑い方をした。
「迷っているのかもしれません」
そんなことを言い出す。
「方向はわかっているのに通い慣れた道順が急にわからなくなる。そんなことありませんか」
「なんの話ですか? 」
「さっきあなたはメモを見ただけで蛍の居場所にまっすぐにたどり着いた。たいしたものです。美津子はからきしだめです。線をたどればいいだけなのに取り違える。座標を固定しないからです。紙をぐるぐる回しているうちに方向が分からなくなる。自分を中心にしかものを見られないのに自分の居場所すらわかっていない」
目の前には赤いテールランプが列をなしている。赤は停止、青は発進、これは決まり事だ。街道にずらりと並ぶ車はそれに従って動いている。これも「座標」だろうか。確かにどんな夜の片隅にも地図は張り巡らされている。
「世の中、迷路だと思いませんか。ミノタウロスの宮殿みたいに怪物が潜んでいます。退治しなければいけないけど、一度入ると出てこられない。アリアドネの糸がないとね。俺もずっと迷い続けている。アリアドネはとうにいなくなってしまったし、それよりもミノタウロスがいない。倒すべき相手が。空っぽの迷宮はかえって怖いですよ。どこかにいる、って気配があるだけで。人は誰しも胸の奥に化け物を飼っている。自分でも気がついていないのです。俺は絶対にそんなことはしない、それだけは嫌だ、そんなふうに感じるものが真実の自分だったりする」
「座標とは常識のことですか」
「座標にもいろいろあります。例えば学校で習うニュートン物理学です。均質な三次元の宇宙空間はアインシュタインによって否定されました。そうですよね? だけど今もみんなが常識と感じている。所詮、人は仮定の下でしか生きられない。そういう意味では美津子も真面目過ぎるのです。本気で真実に迫ろうとするから無理が出る。アインシュタインが証明したように時空は重力で歪んでいるのか確かめたい、と考える。ブラックホールを覗いてみたいと。そんなことできっこない。だからミノタウロスに追われているように感じて焦るのです。いもしない怪物にね」
急ブレーキが踏まれて身体が強くシートベルトに圧しつけられた。目の前を白髪の男がおぼつかない足取りで横切っている。横断歩道もない道の真ん中を平然と歩き、もう少しでひき殺されるところだったのに車を見ようともしない。対抗車線でもやってきたバンが急停車してクラクションを鳴らした。それでも老人は足を速めるでもなくゆっくりとしか進まない。
牟田口こそ座標を見失っているのではないか?
現世との関与が希薄化し方途を失ったのだ。生きながらにして死んでしまったような存在かもしれない。きっとミノタウロスさえいない空洞を迷い続けるとはそんなことではないのか。思わず運転席の牟田口を見やると薄笑いを浮かべていた。なんとも不気味だ。
アリアドネはどこに行ったのですか?
と問いかけてみたかった。きっとさんざん探したのだろう。でも見つからなかった。いや、もしかすると彼自身が息の根を止めてしまったのかもしれない。だとしたら彼こそはミノタウロスではないのか。そう考えれば話の辻褄が合うような気もする。獲物を求めて虚しく迷路を疾走する。そういうことか?
ここで降ります、
と叫ぶと後方を確認して手早くドアを開いた。牟田口は一瞬、驚いたように口を開いたがなにも言わなかった。背後も振り返らずに歩道にかけ上がり、駅の方へ向かう。小雨がぱらつき始めていた。目の前で「ナショナル電工」という看板がひらめいた。救急車のサイレンとクラクションが鳴り響き、若い女性が髪を濡らさないように鞄を掲げヒールをかつかつ言わせながら走って行く。
夜は底の方でつながっている、と思った。あの夜も、この夜も、どの夜も。暗渠を通じて無数の記憶が流されていく。目印をつけておくこともできずそれらは互いに区別がつかない。似ているのだ。似ているということにほっとさせられることもあるが、恐ろしいと思うこともある。
あの男、誰なのだろう。
何者なのだろう?
夜は答えない。きっと彼のことなど忘れてしまうだろう、そう考えたかった。だが宵闇の奥からは怪物が追ってくる。
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