夜明けの空に、灰になるほど愛を唄う

@5316

第1話


 毎晩同じ夢を見ている。

 憧れだった初恋の先輩と、自分の部屋でデートする夢。

 先輩は微笑を浮かべながら、スカートの裾を正してベッドに腰掛ける。

 彼女はとても綺麗だ。

 俺を見つめる両目はルビーのようにごろりと丸く輝き、言葉を紡ぐ唇はぷっくりと血色良く膨れている。漆を塗りこんだような長い黒髪と、そこに隠れる小さな耳たぶには、主張しすぎない銀色のピアスが輝いている。精巧に編まれた絹のように真っ白な素肌には汗がしたたり、もともと美しい彼女をより扇情的に見せていた。


「ねえ、島崎くん。人の体っておいしいのかな」


 彼女がそんな質問をしてきたのは、クーラーが故障した日のことだ。

 そろそろ秋が近づいているころだったが、まだ残暑が猛威を振るっていて、窓から吹く風は生ぬるく、扇風機とうちわが生命線だった。

 だから最初は、石花先輩もこの熱さにやられてしまったのだと思って、俺は真剣に取り合わなかった。

「女のふとももとかはうまいかもしれないですね」

「鍛えられた男性のにの腕も悪くなさそうだよね。個人的には塩焼きかな」

「俺はタレ派です。ところで、どうしてそんな話を?」

「今度の記事の制作に使えるんじゃないかと思って」

「なるほど」

 俺と石花先輩は、オカルト研究会の部員だった。

 オカ研は主に周辺地域の都市伝説を調べて記事を作り、校内新聞に載せてもらうことで部費をもらっている。

 オカルトに関心のない生徒に興味を抱かせるのは大変だが、それ以上にやりがいがある。好きなことを、お金をもらいながら合法的に布教できるのは気持ちがいい。

 それに、オカルト界隈には常にフレッシュなネタがあって記事には困らない。

 今回は、都内で発生している『不審な大量出血死事件の頻発について』だ。

「憶測だけど、今回の事件の犯人は吸血鬼だと思う」

「ドラキュラですか」

「うん。昔から、吸血鬼は人間の突然変異種という説があるんだ。自覚のないまま普通の生活を過ごしている個体もいるらしい。だから、なにかの拍子に自分が吸血鬼であることを思い出した個体が、街中で吸血しょくじをしているんじゃないかって考察だよ」

「だからさっきの質問をしたんですね」

「そういうこと。実際、遺体によっては獣に食い荒らされたようにバラバラだったそうだ。吸血鬼だったら、血を吸う過程で人間の体を食べていてもおかしくない」

「物騒ですね。それで、いい文章は書けそうですか?」

「担当はきみでしょ。文化祭の前までに書き終えてね」

「そうでしたね。……ところで、先輩」

「うん?」

「そろそろいいですか」

 安いベッドは二人が座るだけでギシリと軋んだ。

 先輩の華奢な肩は強く掴めば崩れてしまいそうで、もどかくしく触れる。

 引き寄せようとして、先輩の顔が近くなることに耐えられず下を向いた。

「しかたないなあ」

 そんな俺に彼女は微笑んで、耳元で息を吹きかけるようにささやいた。

「目。つむって」

 言われたとおりにする。

 衣擦れの音がやけに大きく聞こえて、それだけで興奮を掻き立てられた。

 そのままじらすような時間が続いて目を開けようと思ったとき、柔らかい何かが俺の唇を覆いつくす。


 そこで、決まって目が覚める。


 朝を告げるアラームを恨めしく叩き、大きくため息をついた。

 まあ、いいか。

 今日の俺にはこれがある。マッチングアプリのトーク画面を開いて、約束の時間をチェックする。

 大学の講義が終わったら、マッチングした女性と初デートをする予定だ。

 

 2

 

 目の前に座っている女性は、アイスコーヒーを紙ストローで吸い上げながら気まずそうに目線を下ろしている。

 待ち合わせ場所に指定したのは、駅の近くにあるレトロ様式のカフェだ。俺は窓側に座って注文したカフェオレをちびちびと飲みながら、秋晴れの空を眺めていた。やがてからんと鈴の音が鳴って、目の前には、刺繍の入った白いニットのワンピースを着た女性が座った。

「こんにちわ」

 赤茶色の髪は首の付け根あたりで丸まっていて、ナチュラルメイクをほどこした小顔は無難にかわいく、服装の清楚感と相まってとても俺好みな女性だった。

 けれど、俺はその顔にどこか既視感を覚えた。

「もしかして、吉山?」

「え? ……まさか。し、島崎?」

 その女性は高校の同級生だった。

 アプリのプロフィールは俺の知る彼女とはまったくの別物で、画面越しでは気づかなかったけれど、改めて見返してみたらそれは、オカ研で三年間をともにした彼女で間違いなかった。

 そして、今。

 考えていることは向こうも同じなのだろう。言葉には形容しがたい重たい空気が、俺たちのあいだには漂っていた。

「……いやあ。まさかこんなところで再会するなんてな」

 俺がたまらず言葉をひねり出すと、彼女は苦笑いでうなずいた。

「だねえ。島崎は最近どうなの?」

「ぼちぼち大学生活楽しんでるよ」

「いいなあ。私なんて週一休みで、ほとんどお仕事」

「そういや、美容師になったんだっけ」

「あれ。なんで知ってるの」

「いやいや、自分でプロフに書いてただろ」

「あっ、そうだっけ。てことは……それ以外のことも見られてるのか。うわーっ、はずいなあ」

 俺もまったく同じ気持ちだった。

 昨今のマッチングアプリのプロフ欄はけっこう細分化されていて、対面する前までに相手のことを知る分にはとても有益だが、こういう交通事故みたいなことがあるとそれはもう死ぬほど恥ずかしい。

 特に、アプリを始めたキッカケとかだ。

 「元カレと別れて傷心モード……ねえ」

 「やめて。ころすよ」

 「そんな涙目で言われても怖くねえな」

 「きみの方こそどうなのよっ。彼女いないからアプリ使ってるくせに」

 「いてぇとこ突くなよ……」

 「ていうか、部内の先輩と付き合ってなかったけ? ほら、あの美人の」

 「石花先輩な」

 「そう、その人とはどうなったの」

 「……あのなあ。別れたから、今ここにいるんだろ」

 「……ごめん。ちょっと意地悪なこと言った」

 「これでお互い様だな」

 また二人のあいだに沈黙が下りて、とりあえず飲み物に口をつける。

 誰かとのつながりを日常以外で求めるってことは、男女関係なくそれなりの理由があるということだ。

 だからこそ、出会う相手はよく吟味するし、こういう事故が起こらないように細心の注意を払う。プロフの彼女は高校のときの印象とは違って、穏やかで魅力的な女性だった。だから気づかずにいいねを押してしまったけれど……。

 今さらだが、向こうは気づかなかったのだろうか。

 俺は高校のころと大した容姿の変化はない。すこし髪が伸びたくらいのものだ。

 わずかに引っ掛かりをおぼえていると、今度は向こうの方から口を開いた。

 「それで?」

 「え?」

 「どこまで行ったのよ。先輩と」

 ああ、そういう質問か。

 「キスまで」

 「へぇー。やるじゃん」

 「俺は最後までいきたかったんだけどな」

 「ていうかそういうのって、キスまでいったらあとは成り行きじゃない?」

 「俺もそう思う」

 思わずふっと小さく笑う。

 昔だったらこんな会話、周りの目を気にしてできなかった。それでも堂々とこんな会話が今できるのは、お互いにそこそこ大人になったということだろう。

 向こうも同じことを思ったのか、頬杖をつきながら静かに笑っていた。

 「キスしたあとの記憶がないんだ」

 「はいはい、嘘おつ~」

 俺はそのとき口には出さずに茶化したが、本当のことだ。

 気づいたら朝で、先輩は部屋から跡形もなく消えていた。

 それから間もなく、先輩は学校から姿を消した。

 文化祭にも、卒業式にも顔を出さなかった。

 転校したことになっているけれど、俺は彼女の行方を知らない。

 「お前は? その辺どうなんだよ」

 だから自然なところで話題を変えた。

 吉山は、小ばかにするように笑った。

 「元カレとHしたかってこと?」

 「……そうだよ」

 「あはは。自分から聞いておいて照れるなよー……私はまだ処女」

 最後のほうはすこし早口で、小さめの声だった。彼女のかすかに赤らんだ頬に、不意に胸がどくんと音を立てる。

 「元カレ関連のはなしは全部ウソだよ。心に隙のある女のほうが近寄りやすいと思って書いただけ」

 「女こぇー……」

 「そういうもんだよ。きみも気をつけな」

 そう言って彼女は、得意そうな顔をしながらストローで俺を指さす。

 その後も冗談めいた会話を交わしていると、だんだん心がふわふわしてきた。

 気付けば時計の針は進んでいて、夕焼けの光が窓ガラスから入り込んでいた。

 悪くない一日だった。

 「なあ吉山」

 「うん?」

 お互いに分かっているはずだ。

 俺たちは今日、恋人を作るために家を出た。

 「お試しで、付き合ってみないか?」

 吉山は頬をかすかに染めながら、くすぐったそうに一瞬身をよじった。しかし、すぐに自嘲めいた笑みを浮かべて、視線を床に下ろす。

 「……答える前に、一つだけ聞いていいかな。

 やっぱりまだ、好きだよね。石花先輩のこと」

 「それは……」

 ない。

 とは、断言できなかった。

 「あー……やっぱ答えなくていいや」

 分かってるから、というように彼女は手を振った。

 こりゃあフラれるだろうな、と諦めた矢先に、彼女はこんなことを言った。

 「私がそれを塗り替えてあげるっていうのも、面白いかなー……なんてね」

 「……なんだそりゃ」

 「あーもう、だからあれだよ。オッケーってことだよ。その代わりにここの代金は島崎が持ってね。……あと、今夜は空いてる?」

 

 ※


『――本当に大丈夫ですか? 先輩』


 あれは確か、文化祭の準備をしていたときのことだ。

 段ボールをカッターで切っている途中、先輩が深く手を切ってしまったんだ。

 それで俺が保健室に連れて行って、先生がいなかったから、応急措置をした。

 なるべく痛まないように消毒液をかけ、優しく包帯を巻いてあげた。

 『うん、ありがとう。まだ痛むけど大丈夫だよ』

 『急にビックリしましたよ。先輩の悲鳴が聞こえたと思ったら、ぼたぼたって血が垂れてるから……』

 『もしかして、装飾にもかかっちゃったかしら』

 『絵具で塗りつぶしておきますよ。それに、どうせお化け屋敷だし大丈夫です』

 むしろ血のりを使わなくてコスパがいい――…とは、冗談にしても不謹慎だと思って言わなかったけれど。先輩も同じようなことを考えていたのか、『そうね』と短く笑った。

 一安心して、俺は先輩の治療に使った道具の片付けを始めた。

 『それにしても、左手だったのが不幸中の幸いね。もしも利き手だったら……』

 『たしかに不便ですよね』

 『きみと手をつなげなくて、困っちゃう』

 振り向くと、先輩は目線だけこちらに向けて不敵に微笑んでいた。

 『からかわないでください……』

 『あはは。ごめんね。島崎くんがかわいいから、つい』

 意識してむっ、とした顔をしてみたが、まるで効果がない。

 さっきまで決して小さくない怪我をしていた直後だとは思えないほどに、先輩は涼しい顔で、夕焼けが染みこんだ保健室のベッドに腰かけていた。

 ……このままでは先輩のペースの思うつぼだ。

 『先輩は、どうやって今回の事件と吸血鬼を結びつけたんですか?』

 『うん?』

 『吸血鬼は人間の突然変異種という説は、俺も知っていました。自覚のないまま普通の生活を過ごしている個体も確かにいるかもしれません。でも、今回の出血死事件と吸血鬼に、血が絡む以外の繋がりはないはずです。なのにどうして、先輩は犯人が吸血鬼だと?」

 『ああ、それはね』

 先輩は一呼吸おいてから、夢を語る子供のように無邪気な声を出した。

 『そのほうが、ロマンチックだからだよ』

 『ロマンチック?』

 『うん。被害者がカップルだった想定で話すけど……、愛する相手の生血を吸うのって、けっこうロマンチックじゃない?』

 『いや、ちょっとわからないです……』

 『じゃあ島崎くん。きみは究極の愛ってなんだと思う?』

 『急になんですか』

 『じゃあ、質問を変えるわね。友人と恋人の違いってなんだと思う?』

 『お互いがその人を恋愛対象として見てるかどうかです』

 『そうだね。じゃあ、お互いが好き同士なら幸せなのかな』

 『そうだと思いますけど』

 『私は違うと思うな』

 先輩は、傷ついた自分の手の平に視線を移した。

 真っ白な包帯に滲んだ、自分の血を眺めていた。


『愛する人と心や体を重ねるだけじゃ、私は満足なんかできない。生血すらも共有したい。永遠にその人の血肉になりたい。それが究極の愛だと、私は思ってる』


 先輩はときどきすごく難しいことを言う。表現方法が豊かというか、頭のネジがずれているというか。でも、先輩が伝えたいことはなんとなくわかった。

 ――吸血鬼かれら吸血しょくじこそ究極の愛。

 そう言いたかったのかもしれない。


 3


 「どうしたの? ぼーっとしちゃって」


 はっとすると、吉山が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 目の前のテーブルには、ハンバーグの切れ端が残っている。

 「……ああ、悪い」

 はぎれ悪く言葉を返してから、それを一口ほおばって白米をかきこむ。

 口の中に広がったうまみを咀嚼して、グラスに注がれた赤ワインを一気に飲み干して中和する。

 そうすると、多幸感といっしょに頭にぼんやりと重しが乗っかる感覚がする。

 吉山は不機嫌そうに眉を寄せ、皿にあったハンバーグを一切れかっさらった。

 「石花先輩のこと考えてたでしょ。彼女の家にまで来て、ほかの女のこと考えられるなんて。ずいぶん余裕なんですねえ」

 「ごめんごめん。なんの話だっけ」

 「だから、今日このまま泊まっていく? って話」

 それを聞いて、ぴたりと箸が止まる。

 あのデートの帰り、食事に誘われて。

 コンビニでてきとうな総菜とお酒を買って、お邪魔した吉山の家でまた他愛もない会話に花を咲かせていた。お互いに少し酔っぱらってきたころ、その提案が出た。

 もちろん、こちらとしては願ったりかなったりだが、理性と良心がそれを拒む。

 旧知の仲とはいえ、再会したばかりの友人と―……一応彼女だったか。

 どちらにしろ、簡単に流されてしまっては男としての格好がつかない。

 「お前がそうしてほしいって言うなら、俺は構わないけど」

 だから俺は、何様だよって感じではあるが冷静に返答した。

 「じゃあ決定で。とりあえず洗い物しちゃうから、くつろいで待ってて」

 彼女はごちそうさまでしたとその場を締めくくると、そそくさと食器を集めて、キッチンに運んでいく。

 ……予想していた反応と違う。

 「ん? どうしたの」

 「今のは、あんまり調子乗らないでよねって、俺にツッコむところじゃないのか」

 「文句なんてないよ。私から提案したんだし」

 そう言うと、彼女は平然とした顔で洗い物を始めた。

 鼻歌なんかを口ずさみながら、いつもとなんら変わらないようにリラックスした雰囲気で。

 「……吉山、お前さっ」

 俺はキッチンの水音に負けないよう、少しだけ声を張り上げた。

 「なぁに」

 「お前、本当に俺と付き合ってくれるのか」

 「なにを今さら」

 「今日久しぶりあったばっかりで、しかも俺は……。自分で言うのもなんだけど、元カノに未練たらたらで。そんなやつでも、お前はいいのかよ」

 「いいよ」

 返ってきたのは、そんなよどみのない一言だった。

 「高校のときから、ずっと気になってたんだよ。きみのこと」

 目線はこちらに向けず、手元はたんたんと洗い物を捌いている。

 「小さいときから、オカルト好きな女の子ってぜんぜんいなくてさ。

 小学校のときなんか、よく不気味がられてのけ者にされてた。

 中学のときもそんな感じで。せめて高校生活だけは華やかにしたかった。

 だからオカルト好きは隠して、高校デビューに徹しようと思ってた。

 でも、そんなとき島崎に出会った。図書館の隅のほうで、怪奇書とか世界の解明されていない謎、みたいな本を読み漁ってて。つい声をかけちゃった。そうしたら、流れるようにオカ研に誘われて……。

 周りの目なんか気にせず自分の好きなものを追求して、オタク語りをするきみが、とってもまぶしく見えた。

 ……でも、きみが石花先輩と付き合いはじめて。それからきみのことを好きだったんだってことに気づいて。……後悔した。こんな私だって、もし先に告白してたら、ワンチャンあったのかなって思って。……そう思ったらやるせなくて。みじめで。悲しくて。あんなに幸せだったのに、たった一つの片思いで台無しにしちゃった。いつからか、きみに抱いていた恋心よりも、そっちの後悔が大きくなってった」

 彼女の声は、だんだんと震えてきていた。

 それをごまかすように、水音と皿を磨く音がやけに大きくなる。

 「でも、ずっと後悔ばっかりしてられないから。アプリ使って、島崎なんかより、もっと性格も趣味も合う彼氏作って。……見返してやろうと、思ってたんだ。

 あはは。ほんと、バカだよね。

 誰をだよって話なんだけどさ。

 あー、なんだろ。シンプルにきみを奪った先輩を、なのかもしれないし。

 ちょっと美人なだけの先輩にコロッとほだされたきみにかもしれないし。

 私を苦しませ続ける、過去の私自身なのかもしれない。

 ……とにかく、見返したかった。くつがえしたかった」

 吉山からおえつのような声が聞こえるころには、俺はすでに腰を浮かせていた。

 「なのに……。そんな覚悟もしたはずなのに、アプリ内できみを見つけて。ああ、あの人とは別れたんだって思って。……すごくうれしくてっ……そんな自分がもう、いやで、きらいで……どうしようもなくて……もうきみには、ふりかえらないって、きめたはずなのに……」

 俺は彼女の背後にたって、強く抱きしめた。突風に飛ばされそうになる子犬を抱きかかえるように。彼女は驚いたのか、皿をいきおいよく床に落とした。真っ白な皿が割れて、フローリングの床には破片が散らばった。

 けれど、俺も吉山もそんなことは気にも留めない。

 「俺だって、気づいてたよ」

 高校のときと印象はまったく違うプロフだった。

 でも、それを見たときに脳裏をかすめたのは。

 あの放課後の、夕日に染まる教室で。誰にも共感されないような話をチャイムが鳴り終わるまで語り合っていた、あの日の吉山だった。

 「うそつきっ……きらい。きみなんて、だいっきらい……」

 「俺は好きだよ。いま、めちゃくちゃ好きになった」

 「ほんとはせんぱいのほうが、いい、くせにっ……」

 「そんなことない」

 いつの間にか長袖のシャツには、涙の染みができていた。その状態で、十分ほど時間が経ったころだろうか。吉山は勢いよく鼻をすすって、口を開いた。

 「……そろそろ離して」

 「暴れるなよ」

 「いいからっ」

 そっと腕を外すと、彼女はゆったりと俺に向き直った。

 その顔は真っ赤で、涙のあとが残っている。

 吉山はそっと俺の頬を、両手で包み込んだ。

 「ほんとに好きなら、証明して」

 「いいのか?」

 「私がしてって言ってるんだよ」

 「……わかった」


 俺は袖で彼女の頬をぬぐってから、あの日を思い出すようにそっと口づけをした。


 4


 直に女子の体に触れたとき、興奮よりも感動が勝ったことに驚いた。

 先輩の華奢な体系よりすこし肉付きがいい彼女の体は、触れると暖かく柔らかい肌が吸いつくように手になじんだ。

 携帯越しにしか拝むことができなかったフィクションを飛び越えて、そんな夢のような感触が手のひらいっぱいに広がっていることに感動していた。揉んだり、つまんでみたり、なぞるように舌を這わせたり様々な形でその体を愛撫した。そのたびに違った嬌声をもらす彼女の、その恍惚とした表情ににだんだんと興奮が募っていく。

 ゴムをつけた経験がないから心配だったけれど、そこまで手こずりはしなかった。体を動かすたびに体温が同化していくような感覚がたまらなく気持ちがいい。

 タイミングを合わせて一緒に果てて、見合わせた顔には汗が浮かんでいた。

 ふと、先輩の言葉が頭をよぎる。


『愛する人と心や体を重ねるだけじゃ、私は満足なんかできない。生血すらも共有したい。永遠にその人の血肉になりたい――』


 確かに一度果ててしまえば、あとには大したものは残らない。ただ二人が愛し合った痕跡が残るだけ。

 だから生血の熱までをも共有して、ただ愛する人と永遠に交わっていたかったんだ。

 今になって、先輩の正体がわかった気がする。

 もしかしたら彼女は、本人すらその正体に気づいていない、愛する人の生血を求めてさまよっている、噂の吸血鬼だったのかもしれない。

「ねえ」

「ん?」

「もう一回したい」

「俺も」

 だから常人の俺たちは、その代わりに何度も体を重ねる。

 決して交わることのできない血の熱を、誤魔化すために。


「――いたっ」


 足を重ねたときだった。彼女の足の子指に、俺の指の爪が当たってしまった。

 見れば、すこし血が滲んでいる。

 さっき皿を落としたときに切ったのだろう。

 「ごめん。大丈夫か」

 「うん、大丈夫……。ね、ねえ」

 「どうした」

 「その……。足の指、舐めてくれない?」

 「……お前、そういうフェチだったの?」

 「ばか。声に出して言うなっ」

 先輩のときと違って、俺がからかう側になったことが嬉しかった。

 恥ずかしがって真っ赤になった顔。上目遣い。汗ばんだ肌に荒い息。

 そのすべてが興奮を掻き立てる。

 俺は彼女の脚を持ち上げて、その指の先端を口にくわえて――


 ――バチン。


 と、そのとき、記憶の蓋が開くような音がした。


 ※


 「目。つむって」


 あのとき、どれほどじらされただろう。

 期待していた分その時間は長く感じた。

 やっと唇に感触を感じたとき、すぐにそれが先輩の唇でないことはわかった。

 目をあけて確認する。目前にあったのは、先輩の手のひらだった。

 「期待した?」

 「ええ。それはもう」

 「残念でした。もうちょっとお預け」

 まあ、そんなことなんじゃないかと思っていた。

 ため息をついて口元を舐めると、渋い味がした。

 「あれ?」

 「……ああ、ごめん。ちょっと付いちゃったね」

 よく見れば、先輩が俺に押し当てた手のひらは、先日俺が治療した箇所だった。

 なにかのはずみで傷口が開いてしまったのだろう、ぷくりと小さく血が浮かんでいる。

 「ほら、変ないたずらなんかするから罰が当たったんです」

 「そうかもねえ」

 けらけらと笑う先輩。

 俺はその血を拭こうとティッシュに手を伸ばし――とたん、手が硬直した。

 「島崎くん?」

 わけの分からない力が溢れてくる。体の奥底からふつふつと、怒りのように沸き起こる力だ。あと一ミリでも手を動かしたら、間違いなく何かを傷つけてしまう。

 これは、なんだ。

 衝動か?

 いや、欲望だ。

 煮え切らない怒りのように強い欲望だ。

 もっと、ああもっと。


 ――先輩の血が飲みたい。


 「……逃げてください」

 「え?」

 「はやくっ」

 先輩を遠ざけるように、反射的にその手を振り払っていた。

 直後、衝撃波が走った。

 先輩の首から脇腹にいたるまでの線を切り裂き、彼女の体から血が噴き出した。

 なんて綺麗な朱色なのだろう。

 気づけば飛び出していた。自分でも驚くほどの瞬発力で、飛ぶように先輩に肉薄する。先輩を押し倒し、悲鳴すら出すひまもなく虫の息をする彼女の、その体表にあふれ出す肉汁のような血を、感極まりながら舐めつくした。

 「……そう、なのね……きみがそうだったの……ね」

 先輩の声は、とぎれとぎれに聞こえてはいた。けれど、あんまり先輩の血がおいしくて。その声を半ば無視するように、俺は彼女の傷口に夢中になっていた。

 「いいよ……ぜんぶ、すい、つくして……。そうして、わたしは……えいえんに、きみの、なかで……」


 ――ああ。もっと。もっと。もっとっっ


 傷口に歯を突き立てた。先輩の体はビスケットのように簡単に貫通した。

 溢れ出るその生血の美味さに、意識はもう飛びそうだ。


「「ああ――……しあわせ……」」


 ※


 「島崎?」


 ぜんぶ思い出した。

 先輩は消えたんじゃない。

 俺が、この手で消したんだ。

 ――どくん、と体が強く脈打った。

 怒りのように強い欲望が頭を支配する。

 目の前には、血があった。ほんのすこし、雨粒のような血だ。

 それでも、みずみずしく熟れた女性の裸よりも魅力的な一滴。

 今すぐにでも吸い尽くしてしまいたい。

 でも――


 『どうしたの? 島崎くん』

 

 俺のなかの先輩が語りかける。


 『いいじゃない。欲望のままに彼女を殺せばいい。吉山さんも私と同じように、永遠にあなたの――吸血鬼の生血と記憶のなかに生き続けられるのよ』


 それじゃダメなんですよ、石花先輩。

 

 『どうして?』

 

 吉山にはまだ未来がある。

 夜が明けて、日が昇ったら、美容室で働いて。何人ものお客さんの笑顔を作って、感謝されて。どれだけ大変で、苦しくても、幸せの渦の中で生きていくんだ。

 俺たちみたいに、日の当たる世界じゃまともな生活を送れないようなやつになっちゃだめだ。自分の過去を忘却することでしか理性を保てない化け物の一部になんかなっちゃだめだ。

 

 『きみにとっての吉山さんへの愛は、吸血しょくじより大切なの?』


 ええ。


 『……まったくもう。数年待たされて、けっきょく私は振られちゃったのね』


 ごめんなさい先輩。

 それと――本当に。


 「ごめん。じゃあな、吉山」


 窓ガラスを割って、俺は外に飛び出した。

 夜空はすでに薄い群青色に変わっている。

 朝焼けの色だ。

 吸血鬼にとっての死を意味する、全身を灰にするほどにきれいな淡い太陽が、すぐそこまで昇っている。

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