」言外の邂逅「

言霊遊

」言外の邂逅「

メモ:

小説を書く練習。最後のシーンは決まっているのでそこから書く。その後は流れで。短編賞の応募を想定して、1万字程度の規模感とする。


20240131追記:

文字数のカウントが多すぎる。エディタの故障?

応募サイトも同じ数値だ。

一体何が起きている?



>**** --*** --***

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「その本も焼いてしまうのかい?」

 忍び込んだ火葬場の、深夜の誰もいない薄暗いホールに、ケイの声が反響した。

「もちろん。だって、この子のために書いたんでしょ」


 海辺に流れ着いた流木のように白い手が棺に差し伸べられ、空中で静止した。それから忘れていた些事を思い出したように唐突に小さく跳ねたあと、ハナは持っていた本を棺の脇に立てかけた。

 本当は、棺の中に収めたかったのだとケイは思う。蓋を開けて、彼の腕に最初で最後の贈り物を抱かせてやりたい。いつどこにいても、それを失わないで済むように。でも、それができないことは明白だった。単純に棺が小さすぎるのだ。小さな黒い箱は、ケイがハナに贈った指輪を収めた箱と同程度の大きさしかない。

 二人は棺を乗せた台車を炉の中に押し込んだ。車輪のベアリングから甲高い金属音が鳴り、その音も火葬炉の暗闇の向こうに消えていく。何もかもが完全に暗闇に吸い込まれるのを見届けてから、二人はホールの裏にある炉前作業室に向かった。事前に合鍵を作っていたおかげで、扉は驚くほど素直に開いた。操作盤を見回し、点火用のボタンに手をかける。

「さようなら。君のことはずっと忘れないよ」

 ケイが人差し指に力を入れると、ボタンはカチリと音を立て沈み込んだ。炉内に設置された複数のバーナーの口から劫火が吹き上がり、棺を囲んだ。本はあっという間に灰になり、炉内の天気を灼熱の大雪に変えた。もう間もなく炎は、棺と我が子の肉と骨を、その灰まで焼き尽くすだろう。

 ハナの手がケイの掌を握った。


「帰ろう、僕たちの生活に。

 ぼくはほんの数字間じかん前に生まれた。覚えているのは、快晴の色の表紙を持つ本。揺らめく炎の煌めきと熱。暗転。それからぼくの顔を覗き込む鍵師キーメイカーの顔。

 ただいま、私たちの人生」



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 ハナの部屋に続く扉の前で、ケイはまだ迷っていた。

「ハナ、今いいかな?」

 木製の扉はまるで防音壁かのように、隔てられた向こうの部屋の音を遮っている。それはこちらからの音も例外ではないのかもしれないとケイは思う。

「約束をしたね。あの子を人間として埋葬してあげようって。

 人ではないぼくは、この空隙から彼らの声を聴く。音から世界を観測する。

 だから僕は、罪を犯して我が子の亡骸を盗んだんだ」

 神様は、まだお腹の中にいたケイたちの子どもを殺した。ケイたちの行動とは微塵も関係がない、不運による不幸だった。

「僕はそれを良いことだと思った。自分たちの子どもを弔ってあげられないなんて、そんなのおかしいじゃないか。

 ぼくはあのときの記憶を手に入れる。目はないけれど、父の視界から世界をみる。

 だけど、それだけじゃないんだ。あの子を弔わないと、ハナが帰ってこれないんじゃないかって思ったんだよ」

 扉の向こうからは物音ひとつしない。ハナはもう、部屋にいないのかもしれない。それどころか、僕が知っているハナはもうこの世のどこにもいないのではないか。

「親なら、確かに子供のために全てを、文字通り全てを捧げてもいいと思えることは最良なのかもしれない。でもやっぱりこれは、違うと思うんだ」

「親という存在への信仰が行き過ぎて、君自身が供物に成り果てている。僕はもう、運命に大切な人を奪われるのは辛いよ」

 ケイはポケットから鍵を取り出した。

「火葬場に忍び込む準備はできたよ。僕はあの子を弔いに行く。そのために僕たちは彼を盗み出したんだから。

 かぎ。ぼくもかぎを使って、ここからあちらを見ている。ぼくのかぎは典型的な鍵のデフォルメである【〇_|_|】のような象りをしており、分解すると【 。】と【「 】と【 」】の三つの要素になる。この三要素を音字宙うちゅうに差し込むことで、ぼくはぼくの過去を取り戻すことができる。

 僕もハナと同じだと思う。あの子のいる未来を心のどこかでまだ信じているんだ。

 鍵師キーメイカーはぼくに、字宙うちゅうのことを教えてくれた。ぼくが存在するこの字宙うちゅうは、稿速こうそくで膨張している、無限の字空間じくうかんだ。字宙うちゅうでは、稿速こうそくを超えるものは存在しないのが現代の常識だ。だが、鍵師キーメイカーは例外だ。彼はUTCという現象に遭遇して、時間認識に革命を起こした。UTCが何の略称なのかは文献が残っておらず、ただUTCによって時間感覚に変化が起きるという文だけが在る。UTCとはUltima Turing Creature という上位存在が引き起こす字元じげんの縮退という説もあるけど、単純にUniverse Time Crisisの略称という見方の方がシンプルでお気に入りだ。鍵師はUTCによって、字宙うちゅうの採用する字間じかんと異なる時間を認識できるようになった。それは、稿速こうそくを超えて字宙うちゅうを自由に移動できることを意味する。鍵師キーメイカーは月から地球を観るように、ぼくたちの生きる字宙うちゅうの輪郭を観ることができる。

 だから、お別れをきちんとした形でやるんだ。それは僕たちが普通の生活に戻るためにきっと必要だから。別にあの子のことを忘れようとしているわけじゃないよ。ただ、さようならを言って送り出してあげるだけ。人類はずっと、こうやってさようならを大げさに言ってきたんだ。それは僕たちが思っている以上に、大切な行為なんだよ」

「明日、決行するつもり。僕だって、いつ決意が揺らぐかわからないから。もしハナもお別れをちゃんと言おうという気になったなら、おいで」

 言いたいことは伝えた。ハナに届いただろうか。ケイは振り向き、薄暗い廊下を

歩いてリビングに向かう。

「ごめん」

 ケイの背中に声がかけられた。久しぶりにハナの声を聴いた。ずっと泣いていたのか、少し掠れた声だ。

「私も行く。私はあの子の母親だけど、ケイのパートナーでもあるから。だから一緒に行く」



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 ひと月に1回ある妊婦検診の経腟超音波検査で、お腹の中の子が生きていないことを知らされた。ケイには医者の言うことが聞き取れていても、脳は理解を拒んでいた。ハナは血の気を失った顔色で、何かを言おうとして口を開き、また口を閉じるを繰り返していて、この空間から酸素が一気に失われたのではないかとケイが思うほどだった。

 超音波検査で赤子の心拍が確認できないことを、稽留けいりゅう流産と言うらしい。検査技術の向上により、流産よりも先に赤子の死を発見できるようになったことで起こる。この後に待ち受けるのは、自然に流産するのを待つか、手術での流産を行うかのどちらかである。

 ハナもケイも、到底我が子の死を理解できる状況ではなかった。二つの未来にはメリットもデメリットもあったが、それよりもまず我が子がもし生きていたら、今ここで人工的に流産を行うのは殺人に等しいと考えた。現実のリスク勘定よりも、虚ろな希望が選択を絞った。ハナのお腹に亡骸を抱えたまま、ケイたちは病院を後にした。


 二人の会話は日に日に減っていった。ケイは我が子に話しかけるのをやめたが、ハナは逆に、我が子への言葉が増えた。家にはもう2人しかいないのに、夕飯を食べるときなどには虚空への言葉が溢れ、聞いている間、ケイは食べ物の味を忘れた。そうして、ハナはケイに話しかけなくなり、やがて部屋に引きこもるようになった。


 ある日、家の中にハナの悲鳴が響いた。ケイは急いで彼女のもとに向かった。自室の扉を力任せに開いたので、ドアノブが壁に衝突して大きな音が鳴った。階段を下りると、トイレのドアが開いているのが見えた。中から明かりが漏れている。近づいてみると、床にハナが座り込んでいた。ケイはハナの両肩を抱えて、顔を覗き込む。ハナは涙を流して、口の周りには黄色い吐瀉物が付着している。

「大丈夫か⁉

 ぼくは水の中で死に、火の中で生まれた。少しずつ、ぼくは自分を取り戻していく。どうやらぼくも、鍵師キーメイカーと同じUTC現象に巻き込まれてしまったようだ。UTCによる新しい時間認識からは、どうやらぼくの字宙うちゅう字間じかんはずっと逆順に進行しているように見える。つまり、ぼくの死というクライマックスの悲劇で始まる物語。始まりで終わる物語だ。

 あの子が……」

 興奮状態で麻痺していたケイの鼻孔が、吐しゃ物と血の混ざった匂いを嗅ぎ取った。便器を覗き込むと、中に溜まった水は真っ赤に染まっていて、他には何も見えない。

 出てきたんだ。ハナの中からあの子が。

「ハナ、大丈夫だ。さあこっちに来て

 母さんにここにいるよと伝えてあげたい。でもそれは叶わない。かぎの差し込みによる字宙うちゅうへの干渉は、万能ではない。字宙うちゅうには稿速こうそくよりもうんと遅く、固く進行している小字宙うちゅうの一団がある。それが音だ。ぼくたちはほんのジョギング程度の歩みで、簡単に音字宙うちゅうに追いつくことができる。鍵師キーメイカーは音字宙うちゅうを捕まえては観察し、干渉を試み、そして遂に成功させた。音字宙うちゅうの表面は固有の振動数を持つ特殊な膜で覆われており、特殊な発明品であるかぎをホールケーキをり分けるみたいに差し込めば、音字宙うちゅうを一切の破綻なく二つに分割することができる。【お腹が空いた】という言葉を意味ありげに【お腹が】と【空いた】で区切ったところで、そこには一呼吸分の溜め程度の差異しか見られないようなもの、ということだ。つまり音字宙うちゅうは際限なく分割してもその連続性が失われないような字空間じくうかんであり、そこからぼくたちが少し顔を覗かせても問題はない。かぎを差してから分裂が完了するまでの間、音字宙うちゅうの裂け目からは風が吹き出したりしているけれど、やはり問題はないらしい。

 あの子はもう私の中にいない……」

 うわ言を呟いているハナをゆっくり助け起こし、リビングまで連れていった。毛布があったので、彼女の肩に掛けてやる。

「あの子がもう、いない……

 また、隣接する音字宙うちゅうの間には本来、無限に近い奥行が存在している。真上から見ると長方形に見える物体を、真横から見ると、実は全く同じ形の長方形の物体が二つ重なっていた、というようなものだ。ぼくたちはかぎを使ってこの無限の奥行を備えた空隙の中に存在を滑らせ入れることもできてしまう。存在をねじこむ際に多少のノイズが音字宙うちゅうの中で見えているかもしれないが、それも些細な問題だ。

 そうだね。あの子は遠くに行ってしまったんだよ」

 ハナが自分の両手でお腹を抱きしめていた。ケイは彼女の手を軽く握る。

「さっきまで生きていたはずなのに。こんなことって……」

「……」

 ケイは何も答えられなかった。ハナはお腹の子を生きていると思い込むことで、悲しみを遠ざけていた。ずっとあの子の傍に寄り添っていた彼女の悲しみは、たった今になって襲ってきたのだ。時間の経過とともに少しずつ現実を受け入れたケイとは違う。トイレからリビングまでの数メートル分の悲しみ、そのまま、彼女が受け入れなければならない現実までの距離。

「あの子、どうするの?」

 ケイが口を開く前に、ハナが言った。

「このことを報告して、亡骸は病院に引き渡すという話だったと思う」

「そう……」

 日本の法律では、妊娠12週未満の人間になる過程の生物に人間らしい権利は存在しない。妊娠12週を過ぎないと、親には子どもを弔う権利さえ与えられない。亡骸は病院に引き取られ、検査のあと、専門の業者に引き渡される。僕にできるのは、病院まで我が子の亡骸を持っていくことだけしかないとケイは思う。

 でも、それでいいのか。ケイはハナの顔を覗き込む。彼女の目の焦点は定まらず、床を見て放心している。開いた口からは、か細い涎のつららが伸びている。時間が経てば、彼女は以前のように笑うようになるだろうか。

 故人を弔う一連の手順は、残された者たちが思いつめないように、慌ただしさを与えるという説をケイは耳にしたことがある。ハナには、あの子の死をゆっくり受け入れるための儀式が必要だ。

「ハナ、いいかい。僕は今から病院に連絡を入れる」

「あの子を連れていくの?」

「いいや、連れていかない。僕たちは自分たちで、あの子を弔うんだ」

「できるの……?」

「僕が全部の罪を背負う。ハナは何の心配もしなくていい。大丈夫、うまくやるさ」

 ハナを励ますように肩を叩くと、ケイはトイレに向かった。そのまま、血の海となった便器の中に両の腕を突っ込んだ。底に沈んでいるであろう我が子の亡骸を手探りで見つけようとする。しばらく水をかき回していると、肉塊に指が触れた。ケイは手のひらで包み込むように遺体を掬いあげ、トイレットペーパーで拭った。何か入れ物はないだろうか。そういえば、テーブルの上にジャムの空き瓶があった。ケイは足早にリビングに移動すると、亡骸を瓶に入れた。ゴムボールをぶつけたような音が鳴って、亡骸は瓶の底に転がった。ひとまずはこれでいいだろう。入念に手を洗ってから、病院に連絡を入れた。現在の状況を簡潔に伝える。子どもの遺体について聞かれると、

「トイレの水が自動で流れて、遺体は流れてしまった」

 と嘘を伝えた。ケイは疑われるかと身構えたが、特に何も言われなかった。よくあることなのかもしれない。僕は、盗みを働いたんだ。我が子の遺体を盗んだ。通話中のスマホートフォンを持つ手に自然と力がこもった。

 


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「終わった~!」

 ハナがスタイラスペンを右手に握ったまま、ぐぐっと両手を伸ばし切って背伸びをした。つられて、ケイも両の手を頭上に掲げて歓声を上げる。

ハナの仕事用デスクに置かれたモニタに、小さなアイコンになった絵本のページがずらりと並んでいる。

「こんな短期間で……。すごいねハナは!

 両親が完成させた絵本の原稿をぼくも見る。すべてのページには文字がなかった。おそらく主人公と思われる緑色の、デフォルメされた可愛いげのあるティラノサウルスと、同じくデフォルメされて可愛く描かれた灰色の翼竜が出てくるのはわかる。そして難解なのは、いくつかのページにある四角い空隙だ。印刷したところで紙の素材の色が見えるだけだろう。

 ページ順に話を追おうとしても、物語が見えてくるような配置になっていない。前後のページで因果関係が成立していないように見える。

 気楽にやろうと思ってたけど、結局仕事のときみたいな緊張感があったわ。

 鍵師キーメイカーがくれたアディショナルタイムで、ぼくは父と母の贈り物を知ることができるだろうと期待した。それがこの字宙うちゅうでぼくが成すべき使命だと言っても、過言ではないかもしれない。でもぼくには、すべてのページが閲覧できても、これをどう読むべきかが分からない。

 ごめんね、僕が無茶を言ったせいで。

 ぼくは悔しい気持ちでいっぱいになる。だってぼくにはこの本しかないから。ぼくには何もないから。

 全然。なんだか歴史に残るものを生み出しちゃった気分」

「この本の性質上、歴史に残るなんてことはありえないんだけどね」

「でもあの子の人生の、ずっと隣にいられる本であって欲しいとは思うよ」



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 ケイは、ハナの部屋の床にあぐらをかいている。目線は、手に持ったタブレット端末と、作業机に座るハナの間を行き来する。ハナの方は何かを期待するような目でケイを見ている。

「あの子のために、何を描くのが最善なのかしらね。

 鍵師キーメイカーがぼくに本当のことを教えてくれた。彼は、うんと昔に生まれて、そして跡形もなく滅んでしまった字宙うちゅうの中で生きていた、ぼくの父さん、もう一人のケイだった。

 君の絵本を楽しんでいる子どもたちの一人と思って、いつも通り描けばいいと思うよ。

 もう一人の父さんの生きていた字宙うちゅう、旧字宙うちゅうでは、母さんは病気で倒れてしまい、還らぬ人となった。鍵師キーメイカーは母さんを奪った世界への憎しみがトリガーになり、時間認識の覚醒を引き起こした。父さんは独学で自分の能力を紐解き、世界の在り方の研究を行った。父さんの今の知識は、このときの努力の賜物だそうだ。旧字宙うちゅうのUTC時間でも字間じかんは終わりから始まりに流れており、そこで父さんは母さんと出会うまでの逆行の日々をともに過ごした。

 それなら私一人でもできるけど、この本はあなたも一緒に作ってくれるんでしょ。

 でもある日、突然旧字宙うちゅうは消滅した。母さんも巻き添えになって、消えてしまったらしい。その場所に新しく生まれたのが、ぼくが死にゆく字宙うちゅうだったというわけだ。父さんは死にゆく僕の字間感覚を、UTC現象で改変してしまった。ぼくが何もできないまま死んでいくのを、見ていられなかったんだ。

 僕は素人だから、君が作ったものの方が喜ばれると思うんだけどな。ほら、子どもの審美眼は誤魔化せないよ。物の良し悪しに対して素直だから。

 UTC時間で5年もの月日が流れ、鍵師キーメイカーの前で新しい字宙うちゅうが生まれた。彼はその中に自分がいるのを見つけた。妊娠した母さんも。我が子が何もできないまま燃え尽きていくのを、見ていられなかった。だってここには、まだたくさんの時間があるのに。そうして母さんにしてあげたように、ぼくに逆行する人生を贈った。でも、彼は今後悔している。人間が与えられるのは、有限の人生だけだ。ぼくに今、二度目の死が迫っている。

 大丈夫よ。ディテールの方は私が詰めるから。あなたの自由なアイデアを聞かせて。

 まんじの境界と呼ばれている。かぎの部品を4つ合わせたような形で、時間軸進行方向の終着点にある。それは、この字宙うちゅうの端っこなのだそう。鍵師キーメイカーはこの時間を裁断している卍の部品からかぎを生み出した。そうして卍の境界を越えようと研究を重ねた。しかしダメだった。今も昔もこの字宙うちゅうは卍の境界は越えられない。それが鍵師キーメイカーの結論だった。

 そうだなあ」

 ケイはタブレットの画面を見やる。いわゆる複窓というやつで、2つの映画と1つの創作論についての解説動画が同時に映し出されている。

「ケイ、行儀悪いよ

 卍の境界に辿りついた字宙うちゅうは、ぴたりと膨張を止める。そうして凍り付いた時間を手始めに、何もかもが凍結する。ぼくたちも例外ではない。

 この映画は何回も見たことあるやつだから。効率的な情報収集ってやつ。初見では絶対やらないよ。

 字宙うちゅうの死は避けられないが、脱出口がないかと言われるとそうでもないらしい。ぼくの頭上に輝く星々。小さく輝いているので見えにくいが、あの星々の光は四角く縁どられている。あれは、他の字宙うちゅうへ繋がる扉、らしい。というのも、理論上そうだというだけで、実際に開けた経験があるわけではない。ぼくたちは稿速こうそく字宙うちゅうを移動できるが、だからといって宙を飛べるわけではない。星々はかなりの高さにあり、跳躍した程度じゃ届きはしない。

 アイデアかあ。やっぱり僕は、僕たちの子どもにしか読めない本がいいな。商売ではないんだから、本当に個人的な話がいい。

 鍵師キーメイカーが二度目の字宙うちゅう空間で過ごして分かったことがある。それは、彼はこの空間から出られないということだった。彼はこの空間の維持の根幹に密接にかかわっており、ぼくほどの自由がない。彼/ケイの観測が、この空間を支えている。未検証なのでわからないが、彼の直感がそう告げている。故に、旧字宙うちゅうが滅んでも彼は存在を継続することができて、母さんにはできなかった。

 それでいて、今の流行りを取り入れたような壮大なやつ。ゲームだとオープンワールドが流行っているよね。あんな風に自由に物語を選べるような」

 ハナがうーんと唸る。

「とても素敵なアイデアだけど、絵本でできるのかしら。実現可能性は一旦おいて、私はこの子の生涯にずっと寄り添う絵本が作れたらいいなと思う。でもこれも難しいでしょうね」

 ハナの思う一生ものの絵本ってどんなものだろう

 鍵師キーメイカーは、ぼくがあの星に届くと思っている。買いかぶりすぎだ。ぼくには何もできない。ぼくには何もない。両親がぼくにくれた本すら読めなかったのだから。

 人生の教訓になるようなためになる話? でもそんなの、きっと全然面白くなくて、すぐに捨てちゃうと思う」

 ケイはタブレットの画面を見る。3分割されて再生されている映像から雑多な情報を受け取る。ホワイトボードに書かれた大きな「想像力」の文字。胡散臭い占い師のタロットカードをめくる慣れた手つき。古いアルバムをめくる老夫婦の穏やかな笑顔。

 ケイは「あっ」と声を上げた。

「どうしたの?」

「一生もので極めて個人的な本って、卒業アルバムが近いのかも」

 ケイの実家には、幼稚園の頃からの卒業アルバムがまだ取ってあった。見返す機会は訪れたことはないが、積極的に捨てる理由も見つからず、ずっと本棚の端っこに残っている。

 卒業アルバム、オープンワールド、タロットカード、想像力。ケイの頭の中で、それらが集まり一冊の本の形になった。

「ハナ、こういうのはどうだろう」

 ケイの提案はこうだ。文字が一切書かれていない、紙芝居のようなページを数十ページ用意する。ページは1ページにつき一つの行動が描かれる。それらのページを、リングバインダータイプのフォトアルバムの、ページの間に追加していく。いくつかのページは写真の収納位置に合わせた切り抜きがあり、写真と絵が合わさって初めて機能するようになる。

「僕たちが撮った、僕たちの日常を物語の中に持ち込み、ページの順番を入れ替えて、オリジナルの物語を作るんだ」

「なるほど、それ、結構面白いアイデアかも」

「僕もそう思う。最初は僕たち二人で写真を選び、読み聞かせる。でも大きくなってきたら、自分で撮った写真で、自分の物語を紡ぐことができる。絵本というよりはボードゲームみたいだけど」

 物心ついた時からボードゲームをプレイしてるなんて、なんだか天才みたいじゃない?

 ああ、そういうことだったのか。あの本だけでは、ダメなんだ。ぼくは誰かに正解を与えられるのを待っているだけだった。ぼく自身が、周囲の世界と関係を結んで、物語を紡いでいくんだ。こんなに素敵なものを貰っておいて、何もできずに凍り付くだけなんてありえない。ぼくは星々の瞬く大空へ、何をしてでも行かねばならない。

 ああ、この子はたくさん物語を読んでくれるよ。だって僕たちの最高の子どもだからね」


 

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「ケイ聞いて! 赤ちゃんができた!」

「本当に⁉」

 ケイは歓声を上げる。

 人生で一番最高の瞬間かも

 両親の喜ぶ顔を見ながら、ぼくは出発の準備をする。字宙うちゅうの寿命がすぐそこまで迫っている。ぼくの答えはこうだ。音字宙うちゅうを"複窓"する。父さんがぼくにくれたアイデアだ。かぎを差し込む瞬間、音字宙うちゅうが完全に分離する前には必ず風が吹く。空気のないこの空間で吹く風は、推力になる。一つ一つは弱くても、大量に、同時に差せば。差し続ければ。肉体のないぼくを乗せて浮き上がることもできるはずだ。二人の父さんから貰ったアイデアと贈り物を使って、ぼくが自分で導き出した。思いついたときの興奮といったら。あれが自分で物語を紡ぐ感覚なのかもしれない。

 気が早いわよ。でも、私も同じ気持ち。

 今までで一番の笑顔を浮かべる両親たちを見る。ぼくは二人の子どもに生まれて幸せだった。届かないことはわかっているけれど、言っておきたくて。

 きっとお腹の子も、この瞬間を幸福だと思ってくれているよ。もしかしたら今日のことを覚えているかもしれないね」

「それはさすがにあり得ないかも。でも、そうだといいわね

 大量の音字宙うちゅう団に連結したかぎを突き立て、音字宙うちゅうの中に差し込む。

 「「「「「「「「「「「「「「「「「「」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 子どもに開かれた未来は無限大だよ。この子はきっと、なんだってできるし、なんにだってなれる。ぼくはそう信じているよ。

  

 ぼくが差したかぎが、一番下の音字宙うちゅうを開いた。空隙から強力な風が吹きだした「

」音字宙うちゅうの群体が浮かび上がった。推力がなくなる前に次々とかぎを差し続ける「

 」開かれた父さんと母さんの日常が折り重なり白飛びになって周囲を染める「

  」気の遠くなる作業を延々と繰り返した。気がづけば星は目線の高さだ「

   」四角く光に縁どられた暗闇に触れた。表面はツルツルして冷たい「

    」見た目の巨大さと裏腹に軽く押すだけで星の扉は開いていく「

     」星の向こうから漏れる光はぼくの視界を白に染め上げた「

      」その光の向こうでぼくは見た。数多の星々の運動を「

       」四角い星々は規則的に動くが時折一直線に並ぶ「

        」それはまるで無限の頁を束ねた一冊の書物「

         」無限の奥行を備えた物語の寄り集まり「

          」この先どんな字宙ものがたりと出会うだろう「

           」最後に振り返って見た故郷うちゅうに「

            」いってきますと一言だけ「

             」踏み出すぼくの後ろ「

              」閉じる寸前の扉「

               」隙間に残る「

                」薄明光「

                 」線「

                  」

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