日没

夜依伯英

日没

 外も暗く成ったので自室を消灯して其の後、窮屈な窓枠から身を乗り出して煙草を咥え、空を仰いでいた。吐き出した煙はふわりと上って消えた。彼は孤独だろう乎。空を舞う鳥は何を思っているの乎。私は筆舌に尽くし難い動揺を隠せずいる。一昔前には、汲めども尽きぬ知恵の泉と云う形容に相応しい学識の深い人々が在った。其の時分には、流血で磨かれた鋼鉄の意志を持つ勇猛果敢なる兵士たちが在った。彼等には義務と責任を果たす誇りが有った。嗚呼、尊厳よ。汝は煙草の煙と同じく儚くも消えてゆくと云うの乎。之は白痴の懐古主義に非ず。大戦末期には、戦死こそ名誉で在った。其のような風潮への没落には下劣さを感じずにはいられない。或方が御隠れになり俄に絶賛感服の素振りを見せる連中を見ると、吐き気を催す。厚顔無恥の不徳、嫌悪すべき邪悪で在る。之は今日にも暗い残穢を残しているようだ。窓額縁に置いた端末には有害極まる社会が映っている。著名人が亡くなると豪い騒ぎだ。今まで僅かにも言及してこなかった連中ですら、恭しく彼が偉大さを語り始めて哀悼の意とやらを示す。彼も之も、目を閉ざして仕舞えば楽に成るのだろう。之が懐古主義で在るもの乎。未来に輝かしい若人等が避妊具コンドームより薄い建前の旗の下で突撃させられ犬死にした事は、国益に供するところだった乎。任務の遂行者たる塹壕貴族の皆様には、其の死の無意味性とは別に清い誉が有るべきだろうが、人的資源の徒な消耗は、敗戦以外の道を照らす事のない穢れた光で在る。何が玉砕乎。単に敵に撃滅され人命を無為に失ったのみで在る。

 労働者に於いては如何だろう。只管に働き、之こそ無上真実道と言わんばかりの勤労精神は興味深いが、其処に高貴さは見られない。又、古今我が国に生産性の概念が在ったとは寡聞にして聞かぬ。歴史の流れに対して盲いた者は、余りにも多数の者で在る。街道の風景に溶け込む事を高尚也と錯覚する輩より、己の無力と困難を直視して暗い光に成った者の方がずっと気高く没落するだろう。彼等、余りに多数の者等は富裕な生活すら望んでいない。Xと云う間抜けで不便な名称の social medium に日々の不満を書き込んでいても、其れは周囲と同様で在る事を周知する為で在る。


 現代に蔓延る者、己が周囲と何も違わぬ事を誇る者は、満足した豚で在る。集団に充満した卑しく穢らわしい臭気は、社会と云う建物全体を腐らせ倒壊させる。危機感を煽る輩すら頓珍漢で暴力的な言葉の浪費を働いており、今や語る事は最も下衆で猥雑な行為と看做されている。彼の煽動者は最早、大衆向けの玩具で在る。はて、民主主義、民主主義とは何だろう。高貴さも品位も知性も持ち合わせない群衆が、其の時々の感情に任せて怠惰に斧を振るう事が、民主主義乎。SNSでは「才能の民主化」等と馬鹿げた言説が流布されている。又、絵柄は個人に属する物、私有財産で在ると云った妄言が英雄的言論の如く拡散される。

 扨、科学者が専門主義の尖兵と化すのは不可避の事態で在った。寧ろ、彼等は斯く在らねばならない。大量で尊大なる人類の叡智を個人の狭い頭蓋の中に体系的に格納し、而して統合された全知が遍満自在に其の領域を拡張する事は不可能で在る。そうでなくとも、極めて非効率な試みで在る事は間違いない。然し、彼等の幾らかは、分別や品位を身に付ける為に知るべき様々を著しく軽視している。其の連中は世界の片隅、而も極小の一領域についてよく知っている事、其れ等を開拓している事を理由に、傲岸不遜にも統治者然とした態度で歩く。一方で良識の有る科学者は、専門外について素人で在る事を重々承知していて、己が従事者で在る事を自覚している。

 対岸、分別有る者に成る為に必要な事を学ばずに地位を得た者は、如何様に振る舞う乎。彼等は関数や古典の使い道も其れ等が若人に向かって開く道も想像が付かぬ故、普通教育から其れ等を排除しようと云う破廉恥な主張を臆面もなく言ってのける。其れこそ、無分別を晒している事を彼等は理解しない。同様な者の中、地位を得られなかった者はSNSで喚き散らし、母や妻としての苦労や父や夫としての骨折りを共有して同じ種類の集団の星と成ろうと試みる。批判を得ると無条件に重大視されるべきだと云う尊厳を持ち出して、餌を取り上げられた猿のように激しく抗議する。


 私の最も嫌いな種類の人間の中の一種は、当事者で在るとか当事者の家族で在るとかの理由のみに立脚し、発達障害について根拠の無い俗説を流布する連中で在る。煙草を一本吸い終えるまでの短時間に、幾つかのアカウントをブロックする羽目に成る。私の bio には Autism の文字が在る。精神科の医師からも自閉症スペクトラム障害と其の他幾つかの診断が下っているが、然し私は自閉症に造形が深いと自認しない。私は学者でも臨床家でもないのだから、当然で在る。最近のXでは「合理的配慮」の話題が流行っているようだ。話者の殆どは次の三つの何れかで在る。一、非合理的な特権を求める不遜な者。二、合理的とは何かを知らず障害者の為に少しでも苦労する事を嫌う差別主義者。三、前の二種の言説に対して冷笑し自らが社会に対して何ら責任を持たないと云う風に振る舞う愚か者。もう放っておいてほしい。責任も義務も認識せず、権利が当然に其処に在る物だと思うのは浅ましい楽観主義だ。斯くの如き大衆が世を席巻するのならば、私等の事は放っておいてくれ。人々は最早歴史の中に生きていないの乎。確かにそうかも知れない。


 「最も長い記憶を持つ」存在よ。嗚呼、稲妻の如く大地へと放たれてはくれないか。未だ雨は降らぬ。霹靂と成らねばならない。故に、私は放っておかれる事を望みながら、社会へと没落してゆくのだ。

 日は既に沈んだ。然し、最も暗い時間にすら未だ届かぬ。何本目かの煙草に手を付ける。体温が下がったの乎。少し寒く成ってきた。一方、私の心の奥には燃え盛る魂を見つけた。高貴なる雷鳴と成って大地を穿つ美への憧憬だ。

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日没 夜依伯英 @Albion_U_N_Owen

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