犬の世話係の野望

第9話 偽善的なロボット

 かすかな衣擦れの音が聞こえる。

 僕は左視覚野を起動して、室内を見渡した。


 僕はアンドロイド用のメンテナンス兼充電用ポットで横になって、他称『睡眠』を取っていた。

 アンドロイドにとっての睡眠は、人工神経と循環液のメンテナンス時間を意味する。一日十六時間が事務用アンドロイドの平均精神活動時間で、それ以上稼動すると人間のように処理能力が落ちてくるのだ。

 これは、人工筋肉と人工神経の老廃物を排泄する循環液の混濁によるためで、技術的な問題だ。


 今は火星時間で朝の五時。どっしりとした織りのカーテンから、かすかに朝日が差し込んでいる。


 ナギリアは部屋の中央にある女王のごとき巨大な天蓋付きベッドで、ぐっすりと――――していない。

 僕はガバリと起き上がり部屋をスキャンした。十時方向に生体反応あり。


 まだ立ち上がりきっていない視覚野に喝を入れて、ピントを絞る。

 ナギリアがクローゼットの前で着替えていた。


「おはよう、ゾラック」


 僕に気付いたナギリアはあくびをしながら手を振った。

 もう一度時間を確認する。朝の五時だ。バグかと思い、世界標準時刻サイトにまでアクセスしてしまう。

 まだ五時? やっぱり五時だ。火星標準時間午前五時。

 僕のお嬢様は朝の五時などに絶対に起きない。これは世界の摂理だ。


「ナギリア。時間を間違えていませんか? 今は朝の五時です」


「知ってる」


「正直に時差ボケだって認めたほうがいいですよ。ジンジャーミルクティーを飲むといいはずです」


 彼女は眉を上げると、着替えの続きに取りかかった。

 ナイティがわりのロングキャミソールをガバリと脱いで投げ捨てる。


 僕は思わず視覚情報を切った。

 思春期の男のようにジロジロと見つめる訳にはいかない。たとえ、僕がお嬢様に思春期の男と見なされていなくても。同時に微かな苛立ちも感じるのが不思議なところだ。


 おっと、これ以上自己憐憫に浸るのはよくない。


 僕は何気ない口調を設定し、口を開いた。


「こんな朝早くからどうしたのですか?」


「仕事よ」


 こんな朝早くから? 片目を開放すると不格好な服が目に飛び込んだ。何だあれは?

 僕の視覚機能が正しく機能しているのであれば、あれはジャージだ。アイザー家の連中が最も嫌悪している類いの布。

 アイザー家の人間は、ジム以外でスポーツウェアを着るのを蛇蝎の如く嫌っている。


「トレーニングですか?」


「仕事よ」ナギリアはもう一度繰り返すと、晴れやかな顔で微笑んだ。



****



「こっちよ! ループス!」


 ナギリアが大声を上げながら駆け、後ろを巨大な灰色の塊が猛追している。

 巨大な狼。正しくはアラスカン・マラミュート。 

 巨大な体躯、鋭い眼光、ゴワゴワと野性的な灰色の毛。どう見ても、犬というよりは狼だ。


 そう、ナギリアはループスと呼ばれたあの狼――他称『犬』――のペットシッターを徹底的にやる気らしい。

 意外な事に、ループスは早朝にもかかわらず、犬笛を鳴らしたらどこからともなく現れた。

 妙にごきげんなナギリアは、それからたっぷりと棒を投げ合うという原始的行為にいそしんでいる。


 僕はハラハラと見守るのをやめて、なにか視覚情報的に落ち着ける物を探した。自分の主人が獣にかじられそうになっているのを眺めるより、心理野に負荷がかからない景色があるはずだ。


 ザイラス邸の正面は広大な庭園になっており、ここだけは薔薇が植えられていない。

 少々雑草が伸び放題な気がするが完璧な摂政時代スタイルの庭園が続いている。

 所々にフォリーが立ち並び、遠くに見える火星の大山脈とのコントラストには、なかなかの趣を感じる。


 地面に住むのもいい案かもしれない。


 遠くにそびえる大オリンポス山を眺めながらぼんやりと思考をめぐらす。

 空気は文句なしにすがすがしかった。緑化計画で使用したナノサイズの藻のせいで空は少しだけ緑かかっているが、雲もなく突き抜けるような青空と称して問題ないだろう。

 たった三百年でテラフォーミングした割には、中々快適だ。人間の成し遂げたモノの中ではここは上出来の部類にはいるだろう。


 まさか、火星にくる事になるとは思わなかった。

 そもそも、アイザー家に馴染みのある地球連合の経済圏の中心から外れているし、火星系はどちらかというと学者たちが潜む象牙の塔だ。

 ナギリアには居心地がいいはずかも。


 広い庭をからりとした風が吹きぬける。


 正直に白状すると、犬と駆け回る彼女を見ているのは、和む。

 ここ三ヶ月で見せた事のない晴れ晴れとした顔をしている。

 非常に和む。


 丘の上を走り回ったせいか、髪はちょっとだけ乱れ頬は紅潮している。つい数日前まで、宇宙船の中でため息をつきまくりながら、チェスの悪手をついていた女の子とは大違いだ。


 僕はホッとしている自分にぞっとした。

 彼女が実家で完璧なお嬢様をしているときよりも、馬鹿げたジャージとTシャツで、狼のような犬と転げまわっているのを眺めるほうが安心するだなんて。


 そう。僕は偽善者だ。


 僕の自意識ではない、プログラムされた意識を認識するのはこんなときだ。

 心の奥底では、彼女に晴々とした笑みを浮かべていてほしいと思うのに、絶対に家元に戻り家族と暮らして欲しいという本能的な何かが激しく対立している。


 そう。僕は偽善者だ。

 訂正、偽善的なロボットだ。いや、正しいロボットだ。

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