第22話 戦利品
今日はいよいよ未来の取材をする日だ。付近で駐車場を探す手間も含め、午後二時の待ち合わせに間に合うよう早めに車を出した。
コインパーキングに駐車して駅に向かって歩くこと五分。未来と待ち合わせたのは都道である中野通から路地裏に入ったところにある古い感じの喫茶店だった。
外観は二階建てのフレンチスタイルだが、白い外壁はくすみ、昔は可愛らしく赤かったであろう屋根は赤みがかった褐色に変わっている。
中に入ると店内は薄暗く、クラッシック音楽がかかっているが音質はあまりよくなくプツプツとノイズがかかるのは有線ではなくレコードをかけているのだろう。
未来はわざわざ二階の窓際の席を指定してきた。
階段を一段上がる度に軋むのは年代を感じさせた。
二階には私の他には誰もいない。一階にも客は一人しかいなかった。
この時間帯が空いているからかはわからないが、ここなら人目を気にせずに落ち着いて話せる。未来がこの店を指定した理由はそこなんじゃないかと思った。
オーダーを取りに来たウエイトレスにアイスコーヒーを注文する。
テーブルの上にあるルーレット式のおみくじ機がなんともいえず懐かしい。
レトロな雰囲気に浸ってカーテンがかかった窓から夏の日差しと一緒に入ってくる蝉の声を聞きながらのどを潤した。
待合せの時間を少し過ぎた頃に弓月未来らしき人物が現れた。
二階に客は私しかいない。私と未来は目が合うと自然と会釈した。
それにしても弓月未来の美しさはなんだろう?未来が二階に現れてから目が合い会釈するまで私は彼女に見惚れていた。
整いすぎてるとも思える顔立ち。透明感のある白い肌に艶やかな黒髪。息を呑む美しさとはこのことだと思った。
上下ストライプ柄の涼しげなオールインワンにヒールの高いサンダルを合わせた未来がコツコツと音を立てて私の前に来た。
「ひかるさんですね」
「はい」
「はじめまして。弓月未来です。動画を拝見しています。ですから雰囲気ですぐにわかりました」
「はじめまして。ひかるです。動画をご覧いただいてありがとうございます」
未来は大きめのバッグを隣の椅子に置いて座った。
「暑かったでしょう?さあ、好きなものを頼んで」
そう言いながらメニューを渡す。
未来はアイスティーを注文した。
「ごめんなさい。時間に遅れてしまって」
未来が頭を下げると肩にかけていた艶やかな黒髪がはらりと落ちた。
「ううん。気にしないで。こっちが呼びだしたんだから」
「いいえ。実は私……今日家を出る直前まで迷ってたんです。ここに来るかどうか」
未来の顔に影が差す。
「メールでもお伝えしたとおり、あのときの記憶が自分でも驚くくらいはっきりしていないんです」
病院にも行ったのだが余程のショックを受けたのだろうと医者に言われて、可愛そうだが記憶を戻せる術はないと告げられたそうだ。
さらに時折、悪夢にもうなされるようで、これも事件の後遺症ではないかと言われた。
「いいのよ。来てくれただけでもうれしいんだから」
私は笑顔を作って言うとテーブルに運ばれてきたアイスティーを飲むように未来へ促した。
「保奈美さんもあなたと同じように記憶が欠けてると言ってたわ……保奈美さんというのはあなたと一緒に職員室にいた当時三年生だった子。覚えてる?」
「はい」
保奈美の死は伏せておいた。あえて今言う必要がないと思ったからだ。
知らなかったら伝えたことで未来は動揺するだろうし。
「それが急に思い出したと言って取材を受けたいと連絡くれたの。だからあなたも何かの拍子に思い出すかも」
「そうだといいな」
未来は笑ったが、どこか諦観しているような感じを受けた。
「一ついいですか?」
「なに?」
「私の話すことを、今日も含めて思い出したこと、ちゃんと動画で配信したり記事にしてくれますか?」
「もちろん。あなたさえ良かったら動画にも出てほしいくらい」
「いいですよ。出ても」
「えっ。いいの?」
「はい」
意外だった。私は謝意を述べながらテーブルにボイスレコーダーとコンパクトデジタルカメラをセットするとカメラに向かって今日の日付と時間を告げてから未来に促がした。
「それからもう一つ。メールでも言ったように私の記憶が戻ったらその都度取材してください」
「いいわよ。約束する」
返事を聞いた未来はニッコリとした。
「じゃあはじめるわね。覚えてる範囲で話してくれればいいわ。もし思い出しても話したくないことがあれば話さなくていい」
「なにから話せばいいですか……?」
「事件当日の覚えてるところから話してくれれば」
ほんとうはすぐに地下のことを聞きたかった。
しかしここは堪えて、あえて未来に記憶を辿り辿り話させることで欠落していた記憶が戻るかもしれないと期待する。
未来が語る事件の記憶は、これまで私が聞いてきた内容と同じだった。
「最初の方はけっこう覚えてるんですよね……」
「職員室にどうして逃げようとしたの?」
「武藤先生がその方が良いって……あのときはスマホが全部圏外で、職員室なら固定式電話もあるしパソコンやテレビもある。外がどういう状況なのかも知ることが出来るって言って。武藤先生というのは私たちの担任です」
未来たちは暴徒化した生徒が教室の前から移動するのを待ってから廊下に出た。
しかし全員が教室から出る途中で数人の生徒が狂暴化してパニックになる。
他の階に行っていた生徒たちも悲鳴や怒号を聞いて大挙して戻ってきた。
「仲の良かった友達ともはなればなれになって、職員室まで逃げてこれたのは私と修哉、武藤先生に三人のクラスメートだけでした。そうしたら第二校舎から逃げてきた三年生の先輩たちが先に来てて」
「保奈美さんたちがそこにいたのね?」
「はい」
うなずいてから未来は眉を寄せて黙った。
形のいい唇に白く細い指をあてて考え込む。
私は黙って未来がなにか話すのを待った。
「私はすぐにでも離れ離れになった真理と恭平を探しに行きたかった……真理と恭平は私と修哉の親友です。でも状況が状況だけに探しに行くことは叶わなくて……」
未来は苦悶に満ちた表情を見せると私に詫びた。
「ごめんなさい。やっぱりこの後のことは思い出せない」
「いいの。無理しないで」
「あなたが職員室にいたときのことは、一緒にいた三年生の保奈美さんから聞いてるの」
私は保奈美から聞いた内容を未来に言い聞かせるように話した。
「そこは覚えていないんです……私が武藤先生にそんなことを言ったなんて……気がついたら私は地下にいて側に恭平がいて……」
「離れ離れになったという友達よね」
「はい。恭平は私たちとはなれたときに教室にあった掃除用具を入れてるロッカーの中に隠れたんです。そして暴徒がいなくなったのを見計らって職員室に行って、私が地下へ行ったと聞き追いかけてきたと言いました。恭平が地下に来るときには暴徒はみんな倒れて動かなくなっていたって」
未来は恭平から地下室への入り口で修哉と武藤先生が暴徒と同じようになって倒れていたことを聞かされる。
「暴動が終わったと聞いて地下から戻るときに変わり果てた修哉と先生を見ました。二人とも死んでた……」
未来の話だと修哉という男子は交際相手だった。
「辛かったでしょう」
私は目の前の美少女に同情した。
未来が地下から雑木林に逃げなかったのは、気を失っていたからだとわかった。
そして恭平というクラスメートから暴動が終わったことを聞き学校に戻る。
たしかに話の筋は通っている。
しかしなにがあって気を失ったのか?そのことを未来は覚えていない。
そしてこうして話している間も思い出すような気配はなかった。
「あなたが気がついたときに見たものはなに?どんな部屋だったの?」
「暗くて全部を見たわけじゃないけど……機械や実験に使うような器具がたくさんありました」
「機械?どんなもの?」
「さあ……見たこともないようなもので……それから部屋全体はとても広かったと思います。懐中電灯で照らしても奥まではっきり見えないくらい。埃臭くてひんやりして、随分長い間使われてない部屋だと感じました」
「他にはなにか気になったことはある?」
「地下の通路や階段には明かりが点いていました。そんなに明るくないけど歩くには困らない程度の」
どうして長年放置されていたような場所に電気が通っているのだろう?いつでも誰かが使えるようにしていたのだろうか?
武藤教諭が測定していたと聞いたが、そのためだけに通電させていたのだろうか?
「ねえ。部屋に電気のスイッチはなかったの?それから地下へ行く扉の鍵は?」
「照明……そこは特に気に留めませんでした。早く地上に戻りたかったから。鍵の方もそのままだったと思います」
未来は申し訳なさそうにうつむいた。
残念なことに未来が覚えている事件当日の記憶はここまでだった。
そこで保奈美の話にも出てきた田島勝江とのことを聞こうと思った。
「田島さんのことは覚えてる?」
「はい」
「田島さんとあなたはどういう関係なの?話を聞く限りだと、とてもあなたたち学校の生徒と仲良くなりそうなイメージじゃないんだけど」
「犬に襲われて怪我をしたときに手当をしてもらいました」
「犬ですって?どっかの飼い犬?」
「どこの犬かは知らないけど、黒い犬。友達と学校から帰るときに私の後ろにいたのをたまたま家の前に出ていた田島さんが教えてくれて、噛まれそうになったのを間一髪避けれたんです。そのとき転んで怪我をしたのを田島さんが手当てしてくれました」
「犬はどうしたの?」
「田島さんの杖を友達が振り回すと逃げて行きました」
「怖いわね……」
「あの頃はそういった事件が多くて……近所の人が飼っていた犬が人を襲ったって聞きました。普段はとてもおとなしくて良い子なのに、その話を聞いて驚いたんです。しかも暴れた後に死んじゃうんです。通り魔事件も多発しました。突然人に襲い掛かるような事件が多くなって、お母さんに登下校注意するように言われたのを覚えてます。そして田島さんも犬に襲われて亡くなってしまって」
大人しかった犬が狂暴になり人を襲い、突然死のように死んでしまう。
暴徒に似ていると思った。
通り魔の方はどうだったのだろう?やはり暴徒と同じような状態だったのだろうか?
「暴徒みたいですよね」
まるで心を見透かしたように未来が言ったので私は驚いた。
「そ、そうね」
「田島さんは言ってました。勤めていた病院で暴動事件と同じようなことがあったことを」
「それ、霧島病院でしょう?誰が経営してたとかそういう話は聞かなかった?」
「さあ……そこまでは」
「その病院ではなにを実験していたの?」
「それもはっきりとしたことは……ただ、時々病院外の人が来て患者さんに絵を描かせたりしていたって、その様子を撮影したりしてたって」
なんだろうそれは?いったい何の実験なんだろう?いや、そもそも実験とも思えない。
「他にはなにか言ってなかった?なんでもいいの」
未来は少し思案してから口を開いた。
「誰かに見られている……誰か家にいるような気がするって言ってました。一人暮らしなのに」
「それって監視されてるってこと?例えば病院を経営していた連中とか」
「いいえ。田島さんは病院のこと特に口止めされていないって言ってました。こんなこと誰かに話しても絶対に信じてもらえないと相手も思っているからだろうって」
たしかに表では食中毒でかたが付いている問題だ。そんな現実離れした話を聞いても誰も耳を貸さないだろう。
だが今は違う。鹿島町で暴動事件が起きたのだから、今なら過去の話しも一笑にふされるなんてないのではないだろうか。
「今日はどうしてもお役に立ちたくて持ってきたものがあるんです」
未来は横に置いていたバッグから一冊のファイルを取り出すとテーブルに置く。
「このファイルはなに……?」
目の前にあるファイルを見ながら恐る恐る私が尋ねる。
「私が地下に逃げたときに持ってきたんです」
「地下から!」
思わず椅子から腰が浮いた。
「友達に関わる事があるから」
「あなたの友達に?」
言っている意味がよくわからなかった。
話を聞いていると学校の地下施設というのはかなり昔に作られたもののはず。
それも数十年前に。
さっきの未来の話によると長い間人が使ったような形跡は無かった。
にもかかわらず、ここ十数年前に生まれたであろう未来の友達になにがどうかかわるというのだろう?
私はファイルを見てみようと思ったが躊躇った。
なにかよくない気がする。
理屈ではなくこのファイルがとてつもなく嫌な気がするのだ。
ファイルを見たい気はある。
しかし心の奥底でブレーキがかかっている。
「わからないなあ……だってあなたが産まれるよりも前に閉じられた施設に、どうしてあなたの友達にかかわることが書かれているの?」
私はファイルを見るのを止めて未来に尋ねた。
「恭平の大叔父のことが書かれているのです……正確に言うと……その大叔父さんがやっていた研究のことが」
未来は逡巡するように言葉を選んで答えた。
「研究?もしかしてウイルス?」
「いいえ」
未来は首を振った。
「もしウイルスなら私も彼も生きてないと思う」
彼というのは自分が気を失っている間に助けに来てくれた小織恭平というクラスメートのことだと未来は説明した。
未来は暴動事件の後に小織恭平とかなり親密に付き合っていたらしい。
しかし、恭平は三カ月前に自殺してしまったそうだ。
「どうして自殺なんて?」
未来は答えずに俯いてただ首を振るだけだった。
私は敢えて恭平という男子の自殺した動機を聞き出すのは止めた。
それは未来の表情がとても悲しげで、胸中察するに足りたからだ。
大切な相手を失った未来に対する同情の念が生まれたときに、ふいに未来が顔を上げた。
「見ないんですか?ファイル」
未来が美しい顔をまっすぐ向けて聞いてくる。
その顔には今まであった儚げさが感じられない。
整いすぎた造形の中に底知れない冷たさすら感じる。
さっきまでとは別人のような雰囲気に私は呑まれた。
その雰囲気から私はファイルを見ることを逡巡している自分に「見ろ」と命令されているように聞こえた。
「じゃあ見るわね……」
いつの間にか喉がからからに乾いていて声がしゃがれた。
私は咳払いをすると前に置かれていたアイスコーヒーに口をつけてからファイルを見た。
動悸が早くなり胸が押されるような圧を感じる。
背筋に冷たい汗が流れた。
「なにこれは?なぜ私はこのファイルを見ることにこれほどの反応をするの?」
心中で自分に問いかけた。
ファイルと未来を交互に見る。
冷房が効いているのに腕に汗が浮き出てきた。
私は本能的にこのファイルを見ることを恐がっている。
動悸が早くなり息苦しい。
まるで耳の奥で鼓動が鳴り響いているようだ。
しかし私の思いとは逆に手がすっと前に伸びた。
自分の意志とは無関係に手が伸びる。まるで自分の体ではないような錯覚にとらわれた。
自分の意志とは関係なく動く手を見ているとまるでテレビを見ているような感覚になってくる。
しかし、これは紛うことなき自分の手だ。
出がけに手入れしたネイル。
手の甲にある見覚えがある黒子。
全て自分の手だ。
それがまるで自分の意志が及ばない遠くで動いているような。
今までに経験したことのない奇妙な感覚。
「あっ……」
私の手はファイルを引き寄せると表紙を開いていた。
そこには「精神感応波による遠隔操縦」という文字が並んでいる。
「精神感応波?遠隔操縦?」
始めて聞く言葉だった。
なにを意味しているのかもさっぱり分からない。
「こ、これはどういう意味?」
「詳しいことは私にも……ただ、恭平の大叔父さんは人間の脳波を研究していました。脳波によって義手や義足を思ったように動かせる研究」
「えっ……これって何十年も前のものよね?」
そんな昔に今でも聞きなれないような先進的な研究をしていたのだろうか?と、私は訝しんだ。
「彼……恭平が言うには人の脳から出る精神感応波……それを増幅して受信機、つまり義手や義足に送れば生身の四肢と変わらない動きが出来るはずだって。成功すれば寝たきりの人も起きて活動できるようになる。そういう研究だと言ってました。大叔父さんの日記に書いてあったそうです」
そんなことが実現可能なのだろうか?今の技術でも聞いたことがない。
「その大叔父さんという人は?今はどちらに?」
「自殺しました。もうずっと前に」
また自殺。
「そう……どうして?」
「それはわかりません。恭平も理由は知りませんでした」
「そう……」
私はファイルに視線を落した。
人知れずに数十年も地下に眠っていたファイル。
研究者が自殺。
私の中に今まで恐怖に気圧されていた好奇心が頭を上げた。
これが果たして自分が追っている暴動事件となにかかかわりがあるのか?
好奇心は胸の中でどんどん大きくなってくる。
そしてあっという間にさっきまで感じていた恐怖をはるか彼方へ押しやってしまった。
ページをめくると、そこには精密に描かれた脳の図や細かい数字が書かれている。
はっきり言ってなにが書かれているのか、私には見当もつかない。
見当もつかないが、未来が口にした脳波を増幅させて四肢を動かすという文言はあった。
それによると、このファイルで言われている「精神感応波」というものには一定の基準となる数値があり、それを大幅に超えることで本来は自分の体でない物を動かせるようなことが記してあった。
さらにページをめくっていくと「遠隔操縦」という言葉が飛び込んできた。
これはなんだろう?義手や義足を動かすことを操縦と言えばそうなるのだろうが「遠隔」とはなんだろう?
精神感応波による第三者への影響と書かれたページで指が止まった。
そこには健常者に対する影響の数値、精神疾患者に対する影響の数値が書かれていた。
精神疾患者に対する数値のほうが健常者に対するものよりはるかに大きくなっている。
「ねえ?これってどういうことかわかる?」
私はページに視線を落としながら未来に聞く。
「精神感応波が人に与える影響について書いてあります」
なぜ自分の体を動かすための研究から他者への影響になっているのだろう?
強い数値を出す精神感応波とやらは周囲にも影響を及ぼすのだろうか?
携帯電話の電波が精密機器に影響を及ぼすと言われているように?
「私そろそろ行かないと」
未来が立ち上がる。
「これからカウンセリング予約してるんです」
「ごめんなさい時間とらせちゃって」
私は読んでいたファイルを閉じて未来に差し出す。
「あげます。私が持っていても意味がないし」
「でも……」
「あなたが取材してることの役にたつかも」
「ありがとう」
時計を見るともう夕方近くになるころだった。
私は未来と一緒に喫茶店を出ると、外は焼けつくような暑さだった。
「もう夕方近いのに暑いですね」
未来が空を眩しそうに見上げながら言う。
「ほんと。毎年暑くなってくるね」
私が目を細めて言うと未来も微笑んでうなずいた。
「またなにかあったら連絡していいかな?」
「ええ。私からもまた連絡していいですか?」
「もちろん。そういえばあなた、カウンセリングってどこで受けるの?」
「哲学堂公園ってわかります?中野区と新宿区の境近くにある。その近くです」
「ああ!知ってる!」
ここからだと車で十分はかからないだろう。家に戻るには少し回り道になるが大したロスにはならない。
「良かったら車で送っていくわ。どう?」
「いいんですか?じゃあ甘えちゃおうかな」
未来が愛らしい笑顔を見せる。
道路は夕方の渋滞にはまだ間があったが、それなりに混んでいた。
他愛もない話を未来としていた私は、この間鹿島町に行ったことを話す。
「この前ね、鹿島町に行ったの。けっこう空き家や空き地があって静かだった」
「大勢亡くなりましたからね」
「差し支えなければ教えてほしいんだけど、あなたが引っ越したのは通学のため?」
「それもありますけど、両親が死んだのが一番の理由です」
「ご両親が……それは暴動で?」
「いいえ。去年亡くなりました。二人とも脳溢血で。朝起きたら二人とも冷たくなってました」
私は言葉に詰まった。
二人が同時に脳溢血でなくなるなんて偶然があるのだろうか?
かといって意図的にやる方法なんて見当もつかない。
「そ、それは大変だったでしょう」
なんとか平静を装って言葉をかけた。
「はい。でも恭平が励ましてくれて。それに父も母も私にお金を残してくれたので今は一人暮らしでもお金に苦労はしていません。親には感謝しかないです」
その恭平も自殺してしまった。
私は背筋に冷たいものを感じた。
未来の周りであまりに人が死にすぎる。それも短期間に。
暴動後にあの職員室で一緒にいた三年生五人のうち四人は自殺、一人は突然死。
いや、三年生は事件後に関係があったわけではないのだから省くとしても、両親が揃って突然死で恋人は自殺。
そんなことってあるのだろうか。
カウンセリングを受けるクリニックの前で未来を降ろした。
「ありがとうございました」
「いいえ」
「不思議。ひかるさんとは初対面とは思えないくらいに話せました。前にどこかで会った気がする」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
あたりまえだが未来とは今日初めて会う。
会った気がするというのはきっと私の動画を見たからなのだろう。
こういうときは動画配信していて良かったと思える。
未来は改めて礼を言うと背を向けて歩きだす。長い黒髪が風に吹かれてふわりとした。
クリニックに入るのを見届けてから車を発進させながら未来のことを考える。
あの心を奪うような美しさ。そして会話の合間に見せた背筋が凍るような冷たい美貌。
周囲の死と未来は関係がないのだろうか?自殺、病死、誰かが意図して行うには無理がある。そんなこと不可能だろう。でも死人が多すぎる。
暴動事件とは別に弓月未来という女性に強い興味を抱いた。
あの戦慄するような美しさの裏になにかあるのだろうか?
私の心は未来に強く惹かれていた。
その日、慶一は帰宅が深夜になると連絡があり、美琴を寝かしつけた私は自室でファイルを開いた。
不思議なことに最初に感じた恐怖はもうない。
なぜ自分はあんなに怖がったのだろう?
私は机の上にファイルを開くと最初に読んだところから改めて目をとおしていった。
やはり専門的なことはわからない。
そして喫茶店で中断したところにさしかかった。
ふと部屋の電気がいつもより暗いことに気がつく。
蛍光灯の灯りが落ちてきているわけではなさそうだ。
いつものように白く部屋を照らしている。
でもなぜか暗い。
とくに部屋の隅にできた影が異様に暗く見える。
「こんなに暗かったっけ……?」
胸の奥がざわついた。
以前にもこんな感じを抱いたことを思い出した。
「気のせい気のせい」
嫌な雰囲気を振り払うように頭を振るとファイルに視線を戻す。
相変わらず私にはわからない専門的な言葉に数字がびっしりと書き込まれているページが続いた。
それらをわからないまでも食い入るように見てしまう。
まるで吸い寄せられるように目が離せない。
窓を閉めているにもかかわらず視界の端でカーテンが揺れるのを気にも留めずにページをめくる。
おや?ページが抜けている。ページ番号を確認したが間違いない。十数ページ飛んで次のページになっている。
誰かが抜き取ったのだろうか?もしかして未来がとも思ったが、彼女がわざわざ古いファイルの特定のページを抜き取る理由はなんだろう?
このことについては改めて彼女に聞いてみよう。わざわざ会うこともないしメールで済む話だ。
さらに読み進めていくと指が止まった。
「なにこれは……?」
レベル1 精神感応波による対象への思考、深層心理への影響。
レベル2 レベル1に加え、対象への視覚、聴覚、嗅覚、触覚などへの影響。
レベル3 精神感応波による対象への能動的な影響。思考、身体機能の支配と操縦。
レベル4 精神感応波による広範囲への影響、脳の神経組織への干渉と破壊。
これがファイルに書かれていた研究の段階を示すものなのだろうか?
この文言だけでは具体的なことはわからない。
ただ最後の文言が気になった。
脳の神経組織への干渉と破壊とはなんだ?
残念ながらファイルはそこで終わっていた。
冷房を効かせてあるにも関わらず、いつのまにか腕にはうっすらと汗がにじんでいる。
「えっ!」
ふいに視線を感じて顔を上げた。
部屋には私の他に誰もいない。
静まり返った部屋。
窓の外から赤ん坊の泣き声と犬が吠えている声が聞こえてくるだけだ。
しばらくじっと部屋をながめていたが「ふう」と息を吐いた。
気のせいかと思ったときに頬を撫でるように空気が動いた。
「ひゃあ!」
思わず声を上げて椅子から腰を上げる。
「なに?」
顔を引きつらせながら部屋を見回すも変化はない。
しばらく固まったように動かずにいた。
「たしかになにか動いた……視線も感じた……誰かがいる!」
だが私の目に映るのはいつもと変わらぬ部屋の風景だ。
言い様のないぞわぞわしたものが足下から這い上がってくるような感覚にとらわれた。
そして息苦しいほど部屋の空気が重い。
これはなんなんだろう?
私の頬を汗が伝ったとき、ふいに重苦しく感じていた空気が軽くなったような気がした。
部屋もさっきまで感じた暗さがない。
「気のせいってこと……」
脱力したように椅子に座る。
「どうしちゃったんだろう?私」
ため息をつきながら黒いパソコンの画面に映る自分の顔を見た。
未来が話していた田島の亡くなる前日の言葉を思い出す。
「誰かに見られているような気がする」
「誰かが家にいる様な気がする」
私は背中にうすら寒いものを感じた。
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