第五話 夢

 最寄駅から自宅までは自転車で7分ほどであるが、全力で漕げば4分半だ、以前に測ったことがある。

けれど、4分半で来れたとしても、駅のホームでぶっ倒れてしまったので、普通に漕いだ方が圧倒的に速い。


 異臭と猫の鳴き声、なんだったんだろうか。ーー駅を過ぎた後、異臭はすぐに止み、猫の鳴き声も全く聞こえなかった。

 昨日と全く変わらない電車、ホーム、風景。外見は全く同じなのに、中身はまるで違うように感じる。私が学校に行っている間に、あらゆる物体の皮だけが剥がされ、この世のものではないナニかがその皮を被り、扮しているように思えるのは、今日の奇妙な出来事のせいであるらしい。




「ひぃ、疲れたぁぁ、」


 肺の中の空気を出し切るような長いため息と共に、自宅のソファーに埋もれた。

あぁ動きたくない、汗が染み込んだ服でそのまま寝るのも嫌だったし髪もベタついていた。髭も剃りたい。億劫になりながらも重たい体を起こし、シャワーを浴びた。

 

 リビングに戻り、テレビをつけると見覚えのある駅が写っていた。


  --駅のホーム下、高齢男性の遺体発見ーー

「今日午後11時半ごろ、--駅ホーム下の避難場所にて男性の遺体が発見されました。身元は免許証などから△県〇町に住む70歳男性、蛇沢豊さんと判明しました。遺体の損傷は酷く、警察は他殺も視野に入れ捜査を進めるとのことです。」


 右下にはその男性、蛇沢豊さんの証明写真が写っており、私はとっさに画面から目をそらした。

 朝に見た「あだばだ」と書かれた新聞を持った老人だった。


 私は再び吐き気を覚え、急いでトイレに駆け込んだ。シャワーで綺麗に洗い流されたはずの異臭がまだ体内に残っている気がして、私は指を喉の奥に突っ込み、舌の根元を人差し指で強く押すのをくり返した。胃液が逆流し、喉に焼けるような痛みが走った。その行為を20分ほど繰り返し、胃の中が空っぽになったようだ。私の栄養となるはずだったものたちは便器の中で様々な形を成しており、その中には黒い葉っぱのようなものが浮かんでいた。


「あぁ、海苔か、、、ふは、、、」


空虚な笑い声がトイレの中で響いた。


「今日はもう寝よう」


 もう一度歯磨きをし、白湯をコップ一杯飲んだ。胃の中がじんわりとほどけていくのを感じながらベッドに入った。

 いつもより深く毛布を被った。



 私は夢を見た。



 猫が私の後ろを歩いている。私はその猫を見ることが出来ない。素早く振り返っても、そこには何もなく、アスファルトに映る自分の影だけ。足音、物音もせず、けれど直感で猫だと分かるのはなぜだろう。

 全く知らない住宅街を歩いている私。その後ろを全く同じ速度でついてくる猫。


「おい、人間、お前は喋れるのか?」

後ろから声がした。

「えぇ、まぁ、喋れます」

妙なことを聞いてくる猫だ。

「そうか、お前もか。」


「たいていの人間が喋れると思いますけど」


「ふん、人間はおろかじゃな、言葉をくれてやったのは我々だというのに。その恩も忘れ、のうのうと生きておる。」


「へぇ、、」

何を言ってるんだこの猫は。


「言葉はもともと我々のもだったのだ、ある時、まぁわしのご先祖様が人間にある言葉を教えたのだ。人間の赤ん坊に。

 いいか、人間は本来淘汰され、絶滅する種だったのだ。か弱く、足も遅い、力もなければ、空も飛べない、そのような生き物がなぜ今こうして繁栄できているかわかるか?」


「、、、」

私は黙ってその答えが言われるのを待った。


「言葉だ、言葉のおかげでお前たち人間はここまで繁栄できたのだ。ご先祖様の慈悲が無ければ、お前は今ここに居らんぞ。」

 

 以前なら信じられない話だったが、奇妙な出来事を体験した私は猫の話を少しばかり信じることにした。


「ご先祖様はな、人間に‘‘原形言葉‘‘の一つを教えた。今お前たちが使っている言葉はあくまでも‘‘原形言葉‘‘の派生に過ぎん。偽物と言ってもいいかもしれん。お前たちが使っている言葉は‘‘原形言葉‘‘を模して作られたのだからな。

 それだけ言葉としての格が違う。‘‘原形言葉‘‘の前ではあらゆる言葉が偽物であり、言葉としての立場がなくなる。それだけ強力な言葉じゃ。」


 私はあの老人の新聞に書かれていた言葉を思い出そうとした。しかし、頭の中に靄がかかったようにその特定の言葉だけが思い出せなかった。


「ある者にその言葉が奪われたのじゃ。わしはその言葉を取り返すためなら何でもする。」

 声の音が少し下がり、私の背中に冷気が伝い、鳥肌が立った。それは電車の中の空気に似ていた。

 この猫があの老人を殺したのか。


 危険だ、逃げなければ、殺される。


 私はなりふり構わず駆け出した。全速力で。足の回転の速さに地面がついてこれないのではないかと思うほど、夢中に走った。しかし、背中にはまだ冷気が伝っている。こんなに全力で走っているのに。


 死にたくない、死にたくない。私はさらに足の回転を速くし、まるで水の中で手を漕ぐように必死に空気を掴みながら走った。

 けれど、追いかけてくるそいつはもっと早かった。私を覆いかぶさるように暗闇が背後から纏わりついた。


「もうだめだ、」


諦めかけたその時、遠くに朱い何かを見た。鮮やかに目立つ朱色。


それは大苗神社の鳥居だった。



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