第78話 染色
「通路への入り口をフレイムカーテンで塞ぎなさい」
奥の暗がりからアイラさんの声がこだましてくる。私の隣りにいた魔導士が一歩前へ出て呪文の詠唱を始めた。
「入り口を塞いでしまったらもしものとき、アイラさんが引き返せないのでは?」
「大丈夫ですよ。アイラ様はいつも敵の気配を敏感に察知して行動に移しています。前にいるまものの数はそう多くないのだと思います」
「それに、数が多くたってあのアイラ様が負けるなんて考えられませんから!」
王国軍の人たちに不安の色はまったく感じられない。彼らの「アイラ・エスウス」に対する信頼が窺えた。
一時おいて、奥の暗闇からまものの断末魔らしき声が響いてきた。言葉として理解できない単なる叫び声。それが幾重にも重なって聞こえてくる。視認こそできないが、この先でなにが起こっているかは容易に想像できた。思わず表情を歪めてしまう。
もう一時すると、今度はアイラさんの声が聞こえてきた。どうやら戦いを終えたらしい。魔導士のつくった炎の壁はすでに鎮火していた。ほんの短い時間のできごとだった。王国軍の人が言った通り、奥にいたまものの数はそう多くなかったのだろう。
灯りを掲げ、王国の若い剣士が奥へと向かっていく。私と残った魔導士の2人もそれに続いていった。奥に進むにつれ生臭い臭いが襲ってきた。これがなにに由来するか、簡単に想像できてしまうため吐き気をもよおしてしまう。
私は目に涙を浮かべながら、なるべく余計なことを考えないようにして剣士の背中を追っていった。
「――スガワラさん、私が渡した荷物に替えの服が入っています。ここで着替えますので少しだけ待ってください」
アイラさんの姿を視界に入れたとき、私は絶句するしかなかった。彼女は全身におびただしい量の返り血――、まもの特有の黒い液体を浴びていた。まるで墨汁入りのバケツを頭からかぶったかのようだ。
さらに、床に転がるまものの死体と血だまり、ペンキをぶちまけたような黒い飛沫は壁面から天井にまで至る所を染め上げている。
まものの死体があるのは予想していた。ゆえに私はなるべく床を見ないようにするつもりでいた。しかし、足元の血だまりは明らかにまものが1匹2匹ではなかったことを物語っており、それゆえに私は視線を下へと向けてしまったのだ。
一体、今の短時間でどれだけのまものを斬り殺したのか……。
それに、これだけの数を斬ったにもかかわらず彼女は呼吸のひとつも乱していない。
「黒」で染まった光景に私が呆然としていると、アイラさんはひったくるように着替えの服を持っていった。
そして――、近くに私がいるのもお構いなしにその場で元々着ていた服を脱ぎ始めた。
恐怖と困惑の感情は遅れてきた羞恥心で押し流されていく。慌てて彼女に背を向けると、同じように今来た通路側を向く男性の背中が目に入った。
「目を逸らすのはけっこうですが、警戒は怠らないでください。これはスガワラさんにではなく、王国軍のあなたたちに言っています。戦場で些細な恥じらいなど気にしていられませんから」
視界の隅に彼女の放った真っ黒に染まった服が目に入った。どうやら着替えを終えてくれたようだ。視界を前に戻すと、アイラさんは新しい服の袖で顔や髪の汚れを拭っている。せっかく着替えたというのに新しい服は早くも黒く染まり出していた。
「さて、この先はいくつか道が分かれているようです。後ろへ伝令を入れてください。応援が来たらまた進みますよ」
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