第42話 芽生える恋心

『わたしのピアノを聴いてくれませんか』



 ピアノルームに向かっている間、俺と渚の間に沈黙が降りていた。

「和葉くんは後悔してますか?」

 沈黙を破ったのは渚の主語がない質問だった。

「えっと……なにに??」

「ずっと、大切にしていた初恋が終わってしまったことです」

 思わず息を飲んだ。

 なぜ、今この質問をしたのか。

 とりあえず、気持ちを整理しながら言葉を紡ぐ。

「後悔は……してない。ただ、心に穴が空いてしまったような感覚なんだ」

「なるほど……。気持ちは痛いほど分かります」

 渚は何かを思い出しているのかほんの少し空を眺める。

「わたしも会いたかった人が突然消えてしまったとき同じ気持ちでした」

「……そっか、会えたらいいな」

「ふふっ……そうですね」




「お待たせしました。ここです」

 ピアノ教室とばかり思っていたので一軒家のような場所を想像していたのだが……。

 外観は豪邸と言っても差し支えないほど立派だった。

 渚がインターホンを鳴らすと、四十代くらいの女性が顔を出した。

「いらっしゃい!渚ちゃん!大きくなったわねぇ」

「お久しぶりです、先生。急に無理なお願いをしてすいません」

「良いのよ。渚ちゃんのピアノが聴けるって思うと楽しみでしょうがなかったわ」

 久しく会っていなかったのだろう。

 先生と呼ばれた女性は再会を懐かしんでいた。

 そして、渚の背後にいた俺に目をやり――

「あら、あなたは?」

 驚いたような表情で俺を見ていた。

「初めまして。南雲和葉と言います」

「そう……あら、あなた――いえ、なんでもないわ。中へどうぞ」

 ほんの一瞬俺を心配するような素振りを見せたが何も言わず招き入れる。

 なんだったんだ?

 ピアノルームに案内された俺は不覚にも息を飲んでしまった。

 ピアノの質、機材に防音性能、取り扱う楽譜の難易度。

 どれも一級品で不思議と心が高鳴る。

「今充分ピアニストですね。和葉くん」

「……――え?」

「それじゃあ、私はこれで失礼するわね。リビングにお茶用意してあるから、終わったら休んでいきなさい」

 先生と呼ばれた女性は、そう言い残しピアノルームを後にする。

 ほんの少しの静寂の後――

「さて……和葉くんに聴いて欲しい曲は二つです。感想は気にしなくても大丈夫です」

 椅子に座り鍵盤に指を置く。

「ただ、選曲の意味を感じて下さい」

 後ろの窓から差し込む西日が渚とピアノを照らし、渚だけのステージが完成する。

 渚は目を閉じ軽く深呼吸をしてゆっくりと弾き始める。


 ――ショパン『別れの曲』

 優しいタッチから始まり中盤激しさを増し始める。

 音色を聞いたとき心が激しく揺れる。

 そして、中盤に差し掛かったとき思わず涙が零れそうになった。

 くそ……意味を感じろって言ってたからこの選曲はわざとなんだろ。

 恋をした瞬間と叶わず散った瞬間が同時にやってくる。

 それを下唇を噛んで堪える。

 この曲のテーマは――……失恋と未来への希望だ。

 ――失恋の痛みを乗り越えて、一日でも早く立ち直って。

 そんな言葉が聞こえた。

 長く感じるはずの曲はあっという間に……静かに終わりを迎えた。

 この時点で俺は渚を見れず、椅子に座り俯いていた。

「今の曲は和葉くんのために弾いた曲です」

「…………っ、そっか」

 無理やり言葉を吐き出す。

「……次、弾かせてもらいますね」


 ――ドビュッシー『月の光』

 序盤は美しさと静寂を感じさせ、中盤から雰囲気が変わり優雅さを演出していく。

 ――っ!?

 俺はガバっと勢いよく渚を見る。

 そこには、全身で心でピアノを奏でている渚がいた。

 音色一つ一つに全力で向き合う渚が……。

 俺はその姿を美しく情熱的に感じていた。

 これも……偶然なのか?

 この曲は――俺が先生のために弾いた曲だ。

 初めて誰かのために本気で引いた曲。

 なんで……。

 俺が混乱している間に終盤へ。

 最後はさらにテンポが上がりこの曲の情熱的な顔を見せ、力強く終わらせる。

 静かに立ち上がり、俺に向かってお辞儀をする。

 夕陽に照らされた渚の儚げな笑顔は、この世の何よりも美しかった。

 技術力も芸術力もすばらしいものだった。

「偶然……か?」

 けど、最初に口から出た言葉はこれだ。

「これはわたしとピアノを再び繋いでくれた思い出の曲です」

「どういうこと?」

 渚はゆっくり俺の横に腰を下ろす。

「わたし中学生になってからピアノが楽しくなかったんです。上手く弾けないし、コンクールも入賞出来ないしって」

「だから、辞めてしまおうかと思った時、とあるコンクールでこの曲に出会いました」

 この曲の難易度はそれほど高くない。

 初心者にはもってこいだし、一時期コンクールでは聴かない日なんて無い曲だった。

「難易度も初心者向けの曲なのに、他の出場者の誰よりも美しさと切なさを感じました」

「あの場にいない誰かのために、ありったけの気持ちを込めて演奏する姿にわたしは感銘を受けたんです」

「そのおかげで今のわたしがあります」

 ここまで言われたら嫌でも気づいてしまう。

 その演奏者は俺だ。

「そう……だったんだな」

「昨日の和葉くんを見て確信しました。あの方が去ってしまったからピアノを辞めてしまったんだなって」

「そうだよ……。先生が喜んでくれるから……凄いねって褒めてくれるから弾いたんだ」

「とても、苦しかったですよね。会えないのに諦めきれないって。けど、再会が叶っても和葉くんの心はちっとも晴れてない」

「だから――」

「……っえ?」

 視界は真っ暗。

 そして、女の子特有の甘い匂いと柔らかな感触。

 渚の胸に顔を埋める形で抱きしめられていた。

「むぐっ……渚っ!?」

 引き剥がそうと抵抗を試みるが離してくれない。

 逆に深く沈められる。

「言ったじゃないですか。辛い時は頼ってって」

「…………っ!?」

「和葉くん、今凄く辛そうな顔してるんですよ」

「だって、ダサいだろ。……失恋したからって男が女の子に慰めてもらうの」

 限界を迎えそうな俺は言葉で抵抗を試みる。

「男女関係なく辛い時は慰めてもらうのが普通だと思いますっ!」

「そんな……普通があるのか……?」

「和葉くんが知らないだけであるんです!失恋なんて特にそうだと思います。一人だともっと辛くなりますよ」

「だ、大丈夫っ……だっ……おれは――」

 言葉にならない。

 振りほどきたいのに抵抗できない。

「和葉くんがいつからあの方が好きで、その恋心の大きさがどれ位か想像ができません。でも、一人で平気だと言えるほど生易しいものじゃ無かったことは分かります」

「でもっ……」

 口の中が血の味するくらい噛んでも溢れて止まらない。

「うぐっ……、うぅ……」

「そうそう。全部吐き出してスッキリしましょう」

 優しく頭を撫でられ更に促される。

「君はフラれて傷ついて落ち込んでしまうくらい普通の男の子ですよ」

「なんでも出来るからって特別なんかじゃない。無理に自分を特別な人間だなんて思わなくて良いんです」

「けど……もし、無理ならわたしたちだけの特別でいて下さい。背伸びした君もありのままの君もしっかり見ていますから」

「うぅ……うぁぁぁぁぁっ!!」

 今まで辛いことも耐えてきたが、今回は耐えられなかった。

 俺は初めて声を上げて泣くことが出来た。




「本当に……ごめん」

 辺りは既に暗くなっていた。

 先生は送ってくれると言ってくれたが、渚が断ってくれた。

 防音とはいえ『完全』では無い。

 だから、情けない泣き声が聞こえてしまっているわけだ。

 正直、気まずすぎて死んでしまう。

「気にしないで下さい。少し楽になりましたか?」

「少しどころじゃない。かなり楽になった」

「それなら、良かったっ!身体張ったかいがありました」

 まだ、完全に切り替えれた訳じゃない。

 それでも、心が軽くなっているのは事実だ。

 そして、一つの下世話な疑問が浮かぶ。

「渚はさ……その……他の男子にも今日みたいな事やったことあるの?すごい自然に行動してたし……」

「ありませんよ?それに、和葉くん意外にはやりたくないです」

 あまりのズバリとした言い方に嬉しいような……申し訳ないような……。

「和葉くんは私にとって『特別』なんです。そんな人が辛そうにしてたらこれくらいやります」

「そっか……。ありがとうな」

「はい!どういたしまして」

 優しく微笑む渚を見て激しく心臓が高鳴る。



 少しずつ自覚し始めていた。

 俺の心に芽生えていた恋心。

 だけど、それは少し――普通ではなかった。

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