第14話 誤算
ゴールデンウィーク真っ只中の月曜日。その日の昼前頃、不知火探偵事務所の玄関扉は、かつてないほどの轟音を立てながら、勢いよく開いた。
音の正体はわたしだ。
扉を開けて中に入り、それから膝に両手をつけて息を整える。
その動作だけで、ここに来るまでわたしがどれだけ急いでいたのか、大半の人は察することが出来るだろう。
ただ、相変わらず不知火は、その大半の人の中には含まれないようで、初めて会った時と同じような陽気な鼻歌を歌いながら、本棚の整理をしていた。
そしてわたしは自分の息を整えて、喋れるようになるまでの間、そのふざけた歌を聞かされる。
「連休〜♪ サンキュ〜♪ 超特急〜♪」
「っ! ……不知火さん!」
「おや、亜紀ちゃんかい。元気そうで何よりだ。あれ、でも今日は休みって伝えてなかったっけ?」
不知火はそこでようやくわたしの存在に気付いたようで、本棚とにらめっこするのをやめて振り返った。
この人、もしかすると、わたしがいない時はいつもこんな感じで歌ってるんだろうか。
いやいや、流石にないか。
「休みにしてくれてたのは、知ってたんですけど。でも……」
しまった。どうやって伝えるかまるで考えてなかった。こんな奇妙なお願い、そのまま伝えるわけにもいかないし。
「でも、何だい? もしかして、僕に会いたくなっちゃったとか?」
「それだけはないです」
「亜紀ちゃん、そんなにはっきり言われると、僕もすこしは傷つくんだぜ」
わたしは何か文句を言う代わりに、じっと冷たい目で不知火を見つめてやった。
「……悪かったよ。少し調子に乗りすぎたらしい。元気そうな亜紀ちゃんを見て、ちょっと嬉しくなっちゃったんじゃよ」
不知火は茶化すような口調でそう言って、再び本棚の方に向き直って、本をいじり始めた。
「それは、その……。お気遣いありがとうございます。あと、ご迷惑をお掛けしてしまって、すみませんでした」
「いいよ、別に。それに僕はなんにもしてないからね」
その後しばらく、室内に変な沈黙が流れた。
どうしよう。すごく気まずい。
そうだ、早くあの話をしてしまおう。今日のところは、そのために事務所に来たんだから。
「「それで」」
わたしと不知火の声が、室内で綺麗に重なって響いた。
セリフが被ってしまった。
「何だい?」
不知火が本棚の方を向いたまま、わたしに発言権を譲ってくれた。
わたしも小さく「じゃあ」と呟いてから、息を整えて話し始めた。
「その、実は今日は、折り入ってお願いがあってですね」
「ほう」
不知火は片手に本を掴んだまま、わたしの方に振り返った。
「わたしのっ……! 彼氏になって欲しいんですっ!」
「はい?」
不知火が手につかんでいた本が、ゆっくりと、床に滑り落ちて行った。
***
「あっ、そうだ。かっ、彼氏! こっちに彼氏できたから帰れないの」
言ってしまった。言わなくて良い嘘を、つかなくて良い嘘を、ついてしまった。
わたしがこの時、もう少し冷静でいられたら、こんな取り返しのつかない嘘ではなく、もっと体のいい言い訳を並べることができたはずだったのだ。
ちなみに、わたしに彼氏がいたことは、生まれてこのかた一度もない。
もとよりわたしは、何もしなくても男がやって来るほど、見てくれがいいわけでもなかったし、何よりわたし自身が恋人の必要性をまるで感じていなかった。
周りが色気づいていてしょうがない、高校時代でもそうだったのだ。
社会に出てからも、当然恋人などできるはずもなかった。
そしてそんなわたしを、母がひどく心配していたことは、わたし自身も痛いほど知っていた。
というか、耳にタコができるほど小言を言われたのだ。知っているどころではない。まざまざと突きつけられていたのだ。
だから、そんな母だからこそ、わたしに男ができたと言えば、このゴールデンウィーク中ぐらいは大人しくしてくれるだろうという、そういう算段だったのだ。
この時までは——。
『嘘、本当に? 亜紀、あなた彼氏ができたの? お父さん聞いてー!』
「ちょっと待って!」
『何よ。早くお父さんに報告して、『娘はやらん!』のくだりをやってもらいましょうよ』
「必要ないから、そのくだりは! てか、お父さんもそんなキャラじゃないでしょ」
『それもそうね。でも、私と亜紀でお願いしたらやってくれるんじゃない?』
「お願いしないよ、そんなこと。それに、お父さんにはまだ、内緒にしておきたいの」
まあ、内緒どころか最初からそんな彼氏は存在しないわけだけど。
『亜紀も隠し事なんてする年になったのね。わかった、私協力するわ』
何とか納得してくれたらしい。
『あっ! じゃあお父さんに内緒にする代わりに、私に紹介しなさいよ』
「えっ?」
『せっかくゴールデンウィークなんだから、今から私だけそっち行って紹介してもらおうかしら。そうね、それがいいわ!』
「えっ? お母さん、ちょっと待って!」
『じゃあ、私今から準備してそっち行くから切るわね。お父さーん、私ちょっと出かけて来るから。ひゃっほぅ!』
「嘘、切れちゃったんだけど」
部屋に再び静寂が帰ってきた、月曜日の朝の出来事だった。
***
「というわけです」
「『というわけです』と言われてもねえ」
不知火は、困ったようにため息をついた。
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