第二章

第一節

第13話 母

 その日の朝も、わたしはいつものように、けたたましく鳴り響くスマホのアラームで起こされた。

 わたしの名前? わたしは御清水亜紀ですよ。

 ……何でこんな自己紹介してるんだろう。

 とにかく、わたしは両目が開いてるのか、閉じてるのかわからないような状態のまま、何とかスマホまでたどり着いてアラームを止めた。

 そうして訪れた静寂に身を任せるようにして、わたしは二度寝の旅に出る——


「って、今日月曜日っ——!」


 再び意識を失う直前、わたしの理性は最後の力を振り絞って、わたしを叩き起こしてくれた。

 わたしはベッドから飛び上がるようにして体を起こし、部屋のカーテンを開けてから、壁にかけてあるカレンダーを確認した。


「……ああ、そっか。ゴールデンウィーク」


 カレンダーの日付が、みんな赤く塗られているのを目にして、わたしはほっと息を漏らした。

 焦る必要なんてまるでなかったじゃないか。

 正直、もう一度ベッドに潜って惰眠を貪ろうかとも思ったが、せっかくの休日を無為に過ごすのも忍びない。それに、もう目が覚めてしまった。

 今更寝る気にもなれなかったわたしは、適当に顔を洗って歯を磨き、朝食の準備を始めた。

 もう、しばらく事務所に顔を出してないな、なんてことをふと思った。

 あの一件以来、わたしは事務所に行っていなかった。だからもう五日ほど行ってないことになるはずだ。

 不知火に迷惑をかけていなければいいが。

 

 ところでこの五日間、わたしが何をしていたのかと言えば、実のところは結構いつも通りに過ごしていたのだ。

 とは言え、事件が起きてすぐの頃は正直かなり参っていた。病んでたというやつなのだろう。

 しばらくの間は何も食べられなかったし、うまく物を考えられない、考えたくない時間が続いた。

 だが、そこは人間よくできているもので、精神的に参っていても、当たり前かもしれないが、お腹は減るし眠くもなる。

 そうしてご飯を食べてよく寝ていれば、不思議といつも通りになっていった。

 事件はもう起こってしまったことで、良くも悪くも過去のことだ。いつまでも囚われていても仕方がない、と次第に思うようになっていった。

 そんなわたしのことを、不知火は気遣ってくれたのか、あるいは全く気に留めていなかったのかはわからないが、彼はほとんどわたしに連絡をよこさなかった。

 かわりに、『ゴールデンウィークは休みにする』という淡白なメッセージだけを送ってきた。

 この休暇で、適当に遊んで元気になれ、という意味なのだろうか。わかんないけど。

 まあ、ここ一か月のどさくさで、ゴールデンウィークの予定を立てる暇なんてなかったわけだけど。

 というわけで、今のところわたしは、この時期珍しい超がつくほどの暇人だった。

 

「後で買い物にでも行こうかな」


 その後は適当に本でも買って、それでこのゴールデンウィークを攻略しよう。

 なんて即席の予定を組みながら朝食を食べていると、わきに置いてあったスマホが音と共に震え出した。

 電話だ。

 ところで、わたしの友達の中には、いきなり通話をかけて来る人なんてまずいない。そういう人と、わたしは大抵の場合馬が合わない。

 不知火がどうかは知らないが、少なくとも今のタイミングで彼から電話をかけてくることはないだろう。

 ということで、この電話が誰からのものなのか、わたしには何となく想像がついていた。

 なので、わたしはほとんどスマホの画面を確認せずに電話に出た。


「もしもし、お母さん?」


 そう。こういう電話は、だいたい母からのものだった。

 

『あっ、亜紀〜。元気にしてる?』

「うん。まあまあ。お母さんは……元気そうだね。お父さんは元気?」

『亜紀、まずは私の心配しなさいよ。私もお父さんも元気よ。それより、お父さん亜紀のこと心配してたわよ? 新しい仕事はどうなのかって』


 嘘だ。こういう時、母はよく父を引き合いに出す。が、大抵の場合、心配してたり、過剰に気にしてたりするのは母の方なのだ。

 今日も話が長くなりそうだ。


『亜紀、聞いてるの? 仕事のこと、あんまり話してくれないけど、危ないこととかしてないわよね? 変な仕事してるようなら、お父さんに言ってこっちに連れ帰ってきてもらいますからね』


 そんなことで父の仕事を増やさないであげてほしい。せめて自分で来て。


「大丈夫だよ。危ないことなんか……そんなにしてないし? 仕事の上司も……良い人? なのかな。わかんないけど」

『え? どういうこと? 変なことしてるんじゃないでしょうね?』


 まずい。このままだと、母の中でわたしの仕事のイメージが急降下しかねない。せめて不知火が、胸を張って良い人といえるような人物ならよかったのに。

 

「うん、大丈夫だよ。全然。それよりそっちはどうなの? わたし、お母さんの話が聞きたいかな」


 なるべく話題を仕事のことから遠ざけよう。


『私のことなんかどうでもいいのよ。あっ、それよりあんた、ゴールデンウィーク中はこっち帰ってきなさいよ。時間あるんでしょ?』

「うっ、うーん、それはどうかな〜。ちょっと難しいかな」

『何よ、帰ってこれないの? 何ならお父さんを迎えにいかせましょうか?』


 だから、父を巻き込まないであげて。


「それでも、ちょっと無理かな」

『何、本当に帰ってこないつもり? お父さーん。亜紀が、もう二度と実家には帰らないってー!』

「言ってないから!」

『じゃあ何で帰れないのよ。暇でしょ? どうせ』


 なぜそれを知っている、母よ。

 でも、どうしよう。何となく面倒くさいから帰りたくないなんて言えないしな。

 それに仕事の話題もなるべく出したくないし。


「えっ、えぇっと。帰れない理由は……」


 この後の発言を、わたしは心の底から後悔することになる。

 本当、こんなこと言わなきゃよかったのに。


「あっ、そうだ。かっ、彼氏! こっちに彼氏できたから帰れないの」

 

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