第10話 事件
「亜紀ちゃん!」
僕がそこで見た光景は、いやいやほんと、目を覆いたくなるものだったよ。
おや、『僕』だなんて一人称は、もしかすると少し聞きなれないものだったかな。
でも、僕は亜紀ちゃんじゃないんだから、彼女みたいに『わたし』なんて、ひらがな表記のあざとい一人称を使うのは憚られるからね。
もうお察しのことと思うが、そう、僕は不知火響さ。これ以上の自己紹介は、しなくても十分だろう。
今からほんの少しばかり、語り部の役割を、亜紀ちゃんと交代させてもらおうと思ってね。
何故かってのは、わざわざ説明しなくてもわかってもらえると思うけど、まあ、今の亜紀ちゃんに、落ち着いて目の前の出来事を説明してもらうってのは、少しばかり酷だろうからね。
どうせ、ちょっと視点が変わっただけさ。
特に身構えることなく聞いてくれれば、もとい、読んでくれれば幸いだ。
さて、勢いよく亜紀ちゃんのところに駆けつけた僕が、この後取った行動は何だったか……そうそう、実に常識通りの行動だった。
つまり、僕はさっさと110番に電話をかけて、警察と救急車を呼んだのだ。
***
「いや〜、それにしても最近の警察ってのは仕事が早いね。正確に時間を測ってたわけじゃないけど、十分も経ってないんじゃないかい?」
「いえ、仕事ですから」
しばらく経って、現場に来た救急車はさっさと白崎茜を連れて行ってしまった。
後に彼女が病院で亡くなったことがわかるのだけれど、ここでは未来の話なので、これにはあまり首を突っ込まないでおこう。
それで僕の方はと言えば、初動捜査に来た警察官と世間話に花を咲かせていたというわけだ。
いや、正しくは世間話に花を咲かせていたのは僕だけで、向こうのほうはそんな僕を気味悪がっていたみたいだけど。
それでも今はくだらない世間話に興じる方がいい。その方が、亜紀ちゃんに余計な負荷を与えないで済む。
今に至るまで、亜紀ちゃんの様子がどうだったかといえば、これが糸がぷっつり切れてしまったみたいに反応がなくて、あとは顔面蒼白、完全に血の気が引いてたってやつだったね。
実際、亜紀ちゃんが第一発見者ということもあって、いくつか質問もされてたけれど、「あっ」とか「いえ」とかそんな言葉を紡ぐのが精一杯で、心ここに在らずといった感じだった。
まあ、それでも変に取り乱して発狂なんかされるよりかは幾分マシだった。むしろ大人しくしていられただけでも褒めてあげるべきだろう。
人が死ぬのを目撃するのなんか、彼女にとって初めての経験だったはずだ。
この口ぶりだと、まるで僕には人死を目にした経験があるみたいに聞こえるな。
まあ、その話は追い追い、亜紀ちゃんの口から語られるんじゃないかな?
さて、話を白崎の方に戻すが、彼女は腹部をざっくり切られていたらしい。
多分、今日の夕方のニュースでは、『ナイフのようなもの』とでも説明されるのだろう。
そのおかげで、なんてことは言っちゃいけないんだろうけど、ともかく刃物での犯行だったのは僕たちにとって幸運だった。
僕たちはこの時、凶器になり得るものを一つも持っていなかったから、真っ先に捜査の対象から外れることができた。
これに関しては、不幸中の幸いというやつで、これでもし僕らが犯人候補になったりしたら、その時こそ亜紀ちゃんは、イルカの鳴き声みたいな絶叫をあげただろう。
実際のところは、そんな未来は訪れず、僕は話し相手になってくれていた警察官に、答えられる限りのことを答えて、それから未だ反応の薄い亜紀ちゃんを、なんとか事務所まで連れて帰った。
なんだい? こんな時こそ探偵の出番じゃないのかって言いたいのかい?
いやいや、僕の出番なんか全然、これっぽっちもないよ。
だってここには密室もトリックもなかった。犯人はただ白崎を刺して、逃げた。それだけだ。
ここに事件はあるけれど、謎はない。
だから探偵もいらない。必要ない。
まあ、謎なんか解かなくても、事件は解決できるってことだ。そのために日本には警察がいるわけだからね。
だから、犯人もすぐ捕まるだろうさ。
いや、この場合は『犯人は』と言うべきかな。
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