あまり見ない取り合わせの一つ

たけちー

Win-Winでありたい。

 煙草の匂いだけは、本当に駄目だ。

 三浦みうら かなえはうずくまりながら、ゆっくりと深呼吸した。目を閉じれば、シャンデリアでギラギラとした店内電飾の光も、多少はましになる。

 酒は問題ない。酒席では蟒蛇うわばみとかザルとかワクとか、学生時代から「飲んでもつぶれないやつ」の名を欲しいままにしてきた。どうしても煙草だけ苦手なまま、二十八年間生きてきた。吸えないし、同席者が吸っているのも苦手だ。副流煙が駄目というよりも、本当に香りが受けつけない。

 結果としてどうなるか? 取引先の女性社長と接待で行ったホストクラブで、トイレに立つふりをして、店内通路の大きい観葉植物の裏にゆっくりと屈みこんで、吐き気を散らす羽目に陥っている。

 大きく息を吸って、吐き出す。自分の呼吸に集中していれば、喉の奥にせりあがってくるような胃液の感触は少し遠くなった。ただ依然として、店内に満ちる煙草の煙はうっすらとわかる。大丈夫だろうか、問題ないだろうか、無事接待は終えられるだろうか。ぐるぐると空転する思考のまま、何度目かの息を吸った時だった。

「大丈夫ですか?」

 割合切迫した雰囲気の、固い男性の声が降ってきた。鼎はゆるゆると顔を上げて、視線を声のするほうに向けた。

 店内通路の観葉植物の裏にいるとはいえ、ライトは強い。男性は鼎から見てほぼ逆光になっていた。しかし、彼が茶髪であること、真摯に鼎の様子を心配していることは察せられた。

「あ~、えーと……」

「春海です。倉智くらち 春海はるみ。お客様のテーブルにつかせていただいてました。お戻りにならないので、同じテーブルのお客様が心配されまして」

 鼎は気持ち悪さの緩和に全力を注いでいたので、時間経過にまで気を遣う余裕がなかった。腕時計を見ると、十分程度はここでうずくまっていたようだった。

「気分悪そうですね?」

 春海は鼎と同じ目線まで屈みこむと、目を見ながら問うてきた。鼎はゆっくりと息を吐きつつ、気の抜けた笑顔で返した。

「少し、平気にはなりました」

 しかし返す声には、あまり元気がない。

「顔色、よくないですね。よかったら店の仮眠用ベッド貸しますよ。もしくは、タクシー呼びますか?」

「……それは、できないかな」

 接待終わってないですし、この時間は社長に作ってもらった時間でもありますし。淡々と返す鼎に、春海はじっと聞き入っている。

「煙草の煙がものすごく駄目というだけで、別に病というわけでもないですから。いま春海さんとお話させてもらって、結構気持ち悪さがマシになってきたので、もう戻れそうではあります」

「お客様は、貴方の弱点をわかっていて、煙を顔に吹きかけていましたね」

 善悪の正否を尋ねるようなものではなく、あくまで確認のような雰囲気で、春海は質問した。

「ええ、その通りです。僕、おおよそいつも機嫌がいいので、煙草入れると本性見られるって、妙に評判なんですよ。嫌になっちゃいますよね、まったく」

 たはは、とあっけらかんと笑って見せる鼎に、春海は少し考える風に、手を顎にあててうつむいた。

「では、俺が煙草の煙の盾になるので、今後うちの店に来るとき、俺に指名くださいよ。協力します」

 端的すぎる提案に、かえって鼎のほうが面食らった。

「え……、それは、僕に有利過ぎない……? 見返り、君にある?」

「見返りは、まあ、なんでもいいのでボトル入れてくだされば。あとは接待にお越しいただいた方から搾ります。そういう店ですので」

 鼎の顔に血色が戻ったのを見計らったのか、春海は立ち上がった。意外と骨ばった右手を、すっと鼎のほうへ差し出す。

 鼎は力強く、その手を握り返した。言葉による確約はないが、交渉は成立した。



 こうして鼎は、物理的な盾を手に入れた。春海側からすれば自分は剣になるのだろうかと、益体もないことを考える。それくらい、夜の接待の一部で、煙草の煙にさらされない場所を作ることができたのは、僥倖だった。


「――う……」

 瞼がまぶしさを感じて、鼎は目を覚ました。朝の太陽の光が、東面のベランダの窓から突き刺さるように顔に届く。あまりの光の強さに顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こす。

 続いて鼻をくすぐったのは、排気ガスの混じった外気と、コーヒーの香りだった。窓が開け放たれており、部屋の主である春海は、ベランダにある椅子に腰かけて、ぼんやりとコーヒーをすすっていた。

 昨日酒でつぶれた鼎を、彼が保護してくれたのだと、鼎は理解した。……悲しいことに記憶がない。そこまで飲んだつもりはないのだが。

「あ、起きたんですね。おはようございます」

 ベランダから、鼎が起きたのに気付いたのか、春海が声をかけてきた。

「……おはよう。面目ない、迷惑かけて。ごめんなさい」

「謝らなくてもいいですよ。明らかに尋常じゃない量、飲んでましたからね。つぶれてくれて、かえって三浦さんのこと、人間だと思えてよかったです」

「それは、どうも……?」

 褒めではないよなと、釈然としないながらも、鼎は言葉を返した。

「……もしよかったらコーヒー、僕も貰っていい?」

「いいですよ。結構淹れたので、好みの量どうぞ。コップ適当に使ってくださいね」

「ごちそうさま~、ありがとう~」

 起き上がって首をこきこき鳴らしながら、キッチンにあるコーヒーマシンに向かう。使えそうなマグカップを拝借して、薫り高いコーヒーを適量注ぐ。

「ブラックでいいですか? 砂糖も牛乳もありますけど」

「大丈夫。無糖大好き」

 鼎はそのままキッチンで、コーヒーを飲む。春海もベランダから戻ってきて、キッチン近くでコーヒーをあおる。

 無言でも、別に居心地悪くはない。

「……うま」

 無意識にこぼれた感想を、春海は笑って拾った。

「お客様から頂いた豆なんですけど、美味しくて自分用に買ってます」

「あとで袋見せて。僕も買う」

「いいですよ」

 友達でも、同僚でもない。信頼はないけど、妙な信用だけはある。

 今更連絡先聞いたら、ほかの指名客に怒られるだろうかと考えながら、鼎はスマートフォンを取り出した。

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あまり見ない取り合わせの一つ たけちー @takechiH

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