第6話 人類史

 私は顔を真っ赤にしたまま走り続け、やっとの思いで軍と合流し、月が頭上に揚がってくるまでには箱舟までたどり着いた。まさかこんなところで日ごろの仕事の成果が活かされるとは。本当にどこで何が使えるかわからない世界である。



 「…お疲れ様です。ナミカさん。」



 聞きなじみのある幼い声が聞こえてきた。そこには微笑を浮かべたナコちゃんがいた。ほっとしたような、そんな表情だ。



 「そういえば、エレグラさんはどちらへ?」


 「あ、そういえばおいて来ちゃったっけ。さすがにそろそろ来るんじゃないかな。」



 私たちはエントランスでしばらくエレグラを待つことにした。近くのベンチに座りナコちゃんと談笑をしていると、思ったよりも早くエレグラがエレベーターから降りてきた。…エレグラの目元はかすかに赤みがかっていた。



 「エレグラ、ごめん、おいてって。でもあんなに笑わなくっ…て…エレグラ、目元…。」


 「何でもない。もう夜遅いからな。疲れがたまっているのだろう。」


 「…ナミカさん。何があったかはわかりませんけど、そっとしておきましょう。」


 「…うん。」



 エレグラはそのまま自分の部屋に行ってしまった。私たちも彼を気遣い、部屋へと戻った。


 翌日、私の部屋にエレグラが入ってきて突然、『隊長が呼んでいる。』と言った。隊長というのはボードにも名前があったコルフィンという人物であろう。私は何のことかわからなかったが、エレグラに聞いてもわからないと言う。困惑しつつも私たちはエレグラが彼自身に伝えに来た第五番隊員の一人から聞いたという部屋の戸を叩いた。



 「…入れ。」


 「失礼します。」



 私たちはとりあえず一礼をして部屋へと入った。そこには三十代後半程度と思われるがたいの良い男性が手を組んで椅子に座っていた。この人がコルフィン隊長であろう。



 「…今日、なぜ呼ばれたかわかるか。」



 隊長は私たちを睨んだ。



 「いえ、俺は今朝隊員の方から突然言われたので何も。」


 「わ、私も、エレグラから聞いたばかりなので、わかりません。」



 そういうと隊長は大きなため息を吐いた。



 「どうやら本当に自覚がないようだな。おい、エレグラ隊員。お前は今朝お前の元に来た者の名前を知っているのか。」


 「えっ、…そういえば、知りません。」


 「お前は…?このエレグラ以外に、一人でも顔と名前を知っている者はいるか。」



 今度は私の方を睨んできた。



 「…いえ、隊長さん以外は、誰も。」


 「なぜだ。」


 「…それは…ボードの名前もしっかりとは見れてませんでしたし、何より、面識がありませんので…ってあれ?…ねぇ、エレグラ。私たちって、同じ隊の人の名前はおろか顔すら見てないって、よく考えてみればおかしくない?」


 「…言われてみればそうかもしれない。」



 それを聞いていた隊長は再度大きなため息を吐いた。



 「それだよ。今回呼んだのは。…お前たち、出陣から撤退までの間、隊から離れてどこで何をしていた。」



 完全に忘れていた。私たちは第五番隊の隊員なのだ。途中足を止めてしまってからというもの、ずっと単独行動をとっていたのだ。



 「…このようなことをされては作戦に支障をきたすことになる。今回はお前らも初陣だっただろうから大目に見てやるが、次からはどうなっても知らないからな。」



 私たちはこの後隊長に謝り倒し、部屋を後にした。



 「やっ…やっちゃったね。えっと、これからどうする?特にやることもないし、部屋に戻って休んでてもいいんだけど。」


 「俺はまだ一つやることがある。俺たちが目指している、無謀な夢のことだ。一緒に来るか?」


 「…夢?それって、天虎の頭の首を取ること?」


 「それもあるが、それよりも、虎と狐の和解のことだ。俺はこれから、皇珠護天に直接そのことを伝えに行く。」


 「…わかった。んじゃ私も行く。私たちの目標だもの。」



 エレグラは何も言わず私に背を向け、背中で、『ついてこい』と語りかけてきた。彼の意思は私の思っている以上のものだった。彼の表情、声、姿の一つ一つにただならぬ覚悟を感じるのだ。私は思わず唾を飲んだ。そしてエレグラの背を追って、皇珠護天のいる部屋へと向かった。


 …部屋の前までついた。その部屋の扉は黄金に輝いており、他の扉とは比べ物にならないほど大きく重厚なものだった。エレグラが部屋の扉を叩こうとしたその時、いつからこの場にいたのかもわからないスーツ姿の老人が話しかけてきた。



 「皇珠様になにかご用ですかな。」


 「え…、あなたは?」


 「わたくし、皇珠様の執事をさせていただいております、佐々木想一郎と申します。」


 「でた、変わった名前。」


 「どちらかと言えばあなた方の方が変わっているのですがね…。」



 そう言って彼は律儀にも自分の名刺を差し出してきた。この老人は皇珠護天の執事をしているらしい。ヨウタさんといえ、たびたびこのような日本人特有の不思議な名前を見かけることがある。しかし、今回はこれまでとは決定的に違う点がある。



 「…あの、どうして漢字なのですか?」


 「わたくしの家は伝統を重んじるから、としか言えませんね。」


 「それと、名前長くないですか?」


 「佐々木は苗字ですよ。本来誰もが持ち合わせているものです。想一郎が名前になります。」



 そう、彼の名前には、漢字が使われており、苗字という特殊なものまでついているのだ。皇珠護天やその従者の公という人物にも漢字は使われていたが、皇珠護天のような特別な感じはせず、公さんについては中国人との混血だと聞いている。



 「あなた方は、どうして私のような日本人特有の名前が少ないのかご存じですか?そして苗字という概念が消え去った理由も。」 



 佐々木さんは表情を暗くして訪ねてきた。



 「確か、海外の人との混血化が進んだことが原因でしたっけ。でも、苗字って、いったい何なんです?」



 「…その昔、戦時中の日本では、多くの男性が戦場に駆り出されていました。その結果、日本人の男性はほとんどいなくなってしまい、残された女性は外国人の男性の家に籍を入れることが多くなっていったのです。そして苗字というのはいわば屋号です。その家、そしてその家の者を表すものとして、日本では名前の前に付けられていました。しかし長年の混沌からなのか考え方の移り変わりからなのか、人々は次第に苗字を重要視しないようになり、苗字を名乗らなくなってしまいました。こうして苗字という概念は消えていったというわけです。ところがわたくしの家の当時の当主は病弱で徴兵を免れ、そのおかげもあり元々伝統を重んじる名家であったわたくしの家系は、脈々と家をつないで行けたのです。」



 この世界はもうかつての世界とは似て異なるものとなってしまった。その代名詞が苗字の喪失なのだ。つまり、私にも本来苗字があるのだろう。とはいえ知るすべなどないわけだが。



 「…少し質問いいですか。」



 今まで黙り込んでいたエレグラが突然口を開いた。あまりにもしゃべらないものだから存在を忘れかけていたところだ。ちょうどよかった。



 「その、…戦時中、日本人の男性はほとんどが戦場に出ていたんですよね。どうして日本人だけなんですか。日本人の女性は異国の男性と結婚するようになったということは、他国の男性はある程度残っていたんですよね。それに、日本人特有の名前が少ないことも説明不足ですよ。別に外国風の名前を付けなくて、日本風の名前を付けたって良かったわけじゃないですか。」


 「…やはり気付かれましたか。」



 佐々木さんは気まずそうな表情を浮かべる。



 「これには当時の首相が関係しているのですよ。当時の首相は暴君と言われておりましたそうで、議会や国民の反対を押しのけてでも考えを貫くような方だったそうです。わたくしも詳しく知っているわけではないのですが、この首相が無理やり憲法を改正し、何の勝算があってか大量の男たちを徴兵し始めたのです。最初は健康な二十歳から四十歳までの男性だったのですが、次第にエスカレートしていき、学生や、老人までもが駆り出されることになってしまいました。あ、それと…外国風の名前ばかり付けられている理由でしたね。…すみません。これに関してはわたくしからは何とも言えないのです。ただ一つだけ、昔文献を読んで知ったことがあります。それは、何らかの影響で、我が国の社会的な信頼が失墜してしまったということです。これにも当時の首相が関係しているのでしょうか。もしかすると、これが外国風の名前が多いことに関係してくるのではないかと思っているのですが。」


 「そうですか。わかりました。ありがとうございます。」



 エレグラがぺこりとお辞儀をすると、突然重厚な扉が勢いよく開き、エレグラの頭に思いきりぶち当たった。中からは私服姿と思われる皇珠護天が出てきた。高そうな生地を使った白いワンピースを着ている。



 「あなたたち、こんなところで立ち話なんてしてどうしたの?…って、あなた大丈夫!?さっき鈍い音がしたとは思ったけど、もしかして頭打っちゃった!?」


 「皇珠護天?…ああ、大丈夫…です。…多分。」


 「いやいや、絶対大丈夫じゃないでしょう?この扉相当重いのよ?想一郎さん、部屋で手当てしてあげましょう。君もどうぞ。」



 そうして、私たちはようやく皇珠護天の部屋へと入ることができた。そしてのちに私たちは意外な事実を知ることとなる。



 「どうぞお入りください。…皇珠様、お願いします。」


 「了解。あ、二人とも、この扉閉めるけど、出るときは言ってね。」


 「えっ、あっ、はい。(…なんでわざわざ皇珠護天が閉めたんだろ。)」



 なぜだか佐々木さんは、わざわざ皇珠護天に扉を閉めるように頼んだ。違和感を感じつつも、私とエレグラは用意された椅子に腰かけた。



 「ありゃりゃ、こぶができちゃってる。でも君、あの扉をあの速さでぶつけられてこれだけだなんて、体強いんだね。鍛えてるのかな?」


 「いえ、そうでもないですよ。そういえば、なんだか皇珠…様?も、初めて見た時の印象とはずいぶんと違いますね。」


 「みんなにも言ってるんだけど、私のことは皇珠って呼んでもいいし、全然ため口でもいいよ?そこの君もね。てか、そんなに印象違うかな。確かに、大勢の前ではそれなりに敬語になっちゃうからなー。結局私もかしこまっちゃってるんだよね。」



 そう言って皇珠はにこにこと笑う。昨日のおしとやかな印象とは全く違う。



 「そうだ、皇珠、俺たち、頼みがあってきたんだ。」


 「え?どうしたの?」



 エレグラは私にも話したことをすべて皇珠に話した。皇珠は始めこそ驚きつつも、話が進むにつれ冷静にエレグラの話を聞いていた。



 「つまり、君は捕食者たちとは仲良くなれるかも、って思ってるわけだ。うん、その考え自体は素晴らしいし、賛同したいところもある。でもね、だめなんだよ。そんなこと。同胞の中には、当然身内を捕食者に食われたものだってたくさんいる。君はきっと、まだ何も失ってないから、そんなことが言えるんだろうね。」


 「でも、彼らは操られているだけなんだ。本当はいいやつらで、時間をかければきっと打ち解けられるはず。」


 「…君はさ?自分の身内を殺した人間と、一緒にいたいと思うの?それに、さっきから操られてるだとか、本当はいいやつらなんだとか言うけど、なんで君にそんなことが分かるの?もし本当に操られているのだとして、全員がそうなの?中には本当にカニバリズムを信仰している人もいるかもしれないよ?」


 「それは…」



 エレグラは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに皇珠の顔を見て、とうとうあの事を言ってしまった。寄りにもよって被食者の代表的な存在の前で、あの事を言ってしまった。



 「…確かに、全員が全員良いやつというわけではないかもしれない。でも少なくとも俺は、捕食者だって同じ人間で、本当はいいやつらばっかりなんだということを知っている。それに、被食者も悪いやつは一定数いるはずだろう?同じなんだよ。俺たちは。さっき、自分の身内を殺した人間と一緒にいたいと思うかと聞いたな。俺はいても構わない。俺は覚悟を決めているんだ。…裏切る覚悟を決めている奴は、たとえ身内を殺されても、そいつと一緒にいたいと思うんだ。俺の妹は、母さんは、昨日お前に殺された。…ああそうさ。俺はお前たちの敵である捕食者だ。だが今の俺はナミカがいてくれる限り多くの人が認めてくれなくとも被食者でもある。捕食者であるという事実は消えない。だから俺は完全なコギツネにはなれない。つまり、今の俺は、…『虎狐』…だ。」


 「……フフッ…ハハハハハハハ!」



 皇珠は突然大笑いし始めた。



 「君は捕食者で、被食者でもある。つまりトラとコギツネをかけて虎狐って…ハハハハッ…おもしろすぎるよ。……ふう。落ち着いた。やめてくれ、ダジャレには弱いんだ。この間私がうっかりカッターを壊してしまってね。それを見ていた想一郎さんが、買ったばかりなんだからやめてくださいよ。なんていうからさ。ハハハッ思い出したらまた笑えてくるよ。…それはそうと、君は捕食者の裏切り者ってことでいいのかな。まぁ、これに関しては私も認めざるを得ないんだよね。昨日の戦いで、大勢の捕食者の首を掻っ切ってたのは見てたからさ。仮にスパイなら、あそこまで惨いことはできないはずだもの。あれが絵踏みってことでいいよ。」


 (…この女、笑いのツボが浅すぎる。)


 「じゃあ、俺のことは認めてくれるのか。」


 「うん。一応ね。でも、捕食者を味方につけることに関しては、まだ待ってほしい。裏切り者の君は、身内の仇であるにも関わらない私と一緒にいてもいいかもだけど、純粋なコギツネちゃんたちは、受け入れられないだろうからさ。」



 皇珠は手のひらを返したように急に肯定的になった。その笑顔が逆に不気味に見え、妙な違和感を覚える。



 「あ、エレグラ君だったよね。名前くらい覚えてるんだよ?…君、何人食べたの?」


 「…少なくとも自分から食べたことはない。だが、年に一度の儀式では、絶対に食べなければならなかったから、その時だけは食べていた。」



 その瞬間、突然皇珠の目から光が消えた。



 「…そう…食べたんだ。おいしかった?」


 「…いや…そんなに。」


 「…ま、いっか。もし一度でも自分から食べてたんなら、もう仲良くはできなかったな。」


 「…そうか。ありがとう。もう用はない。今日は帰るよ。行くぞナミカ。」


 「あ、うん。」



 私たちは突然嫌な寒気に襲われ、逃げるように部屋から出て行こうとした。しかし扉の取っ手を引いた時、…おかしい、扉が開かないのだ。鍵がかかっているなど、そういう問題ではない。固く固定されているような不思議な感じだ。しかし先ほど皇珠は軽々と開け閉めしていたではないか。私たちがあたふたしていると、後ろから背筋がぞくっとするような気配を感じた。



 「だからさ、……」


 「…!!(ころさっ…)」


 「……外に出るときは言ってねって言ったじゃん。」



 そういうと皇珠はすました顔で軽々と扉を開けて見せた。



 「どっどうなってるの、これ?」


 「この扉は常人じゃ到底開けることができないくらい重たいんだよ。これくらいしなきゃセキュリティーが心配だって想一郎さんが。だからちょっぴり力持ちな私が扉を開け閉めしてあげてるの。エレグラ君がこの程度のけがで収まったのって、捕食者だからだったんだね。ナミカちゃんだったら頭蓋骨粉砕してたよ。」



 これはとんでもない人に出会ってしまったと私たちは思った。エレグラの表情を見れば私と同じことを考えていることが容易に想像できた。私たちは若干引きつった表情で皇珠の部屋を後にした。それにしても皇珠のあのたまに見せるどこか恐怖を覚えるような気配はやめてもらいたい。本当に心臓に悪い。

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