第33話 8月に思う事

 8月は少々特別な月と思う方もおられると思います。私もそうです。

 夏休みやお盆というところが大きいと思いますが、私は高校野球の他、テレビ番組や新聞等で戦争や事故の特集が組まれるところに特別感があります。映画も多いですよね。『この世界の片隅に』『火垂るの墓』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』『風立ちぬ』等々……


 8月6日 広島に原子爆弾投下 

 8月9日 長崎に原子爆弾投下

 8月12日 日航ジャンボ墜落

 8月15日 終戦の日

 9月1日 関東大震災(8月では無いですが……)


 身近な戦死者がいます。私の祖父は南洋の島で戦病死しました。

 https://kakuyomu.jp/works/16818093082941819809

 戦死じゃないですよ。日本軍は兵站へいたんの問題(前線の食料・物資等が不足すること)があり、空腹と病気で死んでいくのです。テクニカルな問題はもちろんありました。戦局判断、軍指導部の作戦能力、工業生産力の差、原材料調達、暗号の解読能力、兵士の命の軽視…… でも戦わずして現地で死んでいくなんて、あんまりですよね。


 家内の祖父も戦時中に船とともに太平洋に沈みました。戦時中はかなりの数の民間の船が犠牲になったそうです。どちらの祖母も若くして未亡人となって子供を育てざるを得ませんでした。


 毎年「戦争反対」が叫ばれますが、どうすれば開戦を防止できるのでしょうか?

太平洋戦争を反省としての私の意見としては、マスコミを中心として想定敵国に対する好戦的な風潮を作らないことが大切かなと思います。1890年~1930年は軍部も国民も対外国強硬路線が急激に増大してしまいました。太平洋戦争(41年~)の10年前にはもう世論が後戻りできない(戦争反対とは言いにくい)状況になっていたようです。※詳細は下の方をお読みください。


 たった100年前の出来事です。マスコミ、国民がよほど注意しないと、またどんな落とし穴にはまるか分かりません。ウクライナ、中東紛争、他人事では無いです。

 ①太平洋戦争がなぜ起きたのか、その原因を広く伝え話し合う。

 ②現在の日本を取り巻く状況と危機対応を深く、真剣に考え続ける。

この二つを行わず単純に「戦争反対」では手遅れになるかもしれません。特に成人男性は良く考える必要があります。


 台湾有事があったらどうしますか? ミサイルが国内に落とされたらどうしますか? 非常に難しいですよね。マスコミからはそういう深い話が少なすぎると思います。祖父母と同じ様に今の若い人達が戦争の犠牲になるのはもう御免です。



---- 興味がある方は詳細下記をお読みください ----


 日本は日清戦争(1894-)、日露戦争(1904-)、第一次世界大戦(1914-)に勝利し、軍部の力が強くなります。同時に国民にも外交的に強硬的な声が増えたようです。これはマスコミの影響が大きいと考えます。

 1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が提案した人種差別撤廃の提案が却下されると、日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まりました。さらに対米強硬派の政治団体が多数生まれることとなり太平洋戦争の遠因となりました。


 1929年から32年頃にかけて世界恐慌が起きると欧米のブロック経済(貿易を拒絶する経済政策)によって、日本は大きな貿易相手を失ってしまいます。この状況を打破するため、日本は、次第に武力による領地拡大を狙う軍国主義を採るようになりました。

 そして1931年、陸軍が中国大陸・満州の資源を獲得する目的で満州事変を引き起こします。太平洋戦争の10年前です。

 1932年10月リットン調査団は日本の満州の権益を認めつつも、満洲国の建国は否認しています。同年12月には、132社の新聞社が連名で満洲国を承認すべきという「共同宣言」を発表しています。翌1933年2月の国際連盟総会で、賛成42:反対1(日本)で満洲国が否認決議を受けると、直ちに日本は国際連盟を脱退しますが、なんと、これに多くの国民が同意、歓迎してしまいます。

 しかし実際に1935年3月に国際連盟を脱退するにあたり、ワシントン・ロンドン両軍縮条約が1936年末で期限満了となることもあり、「日本は今後どうなるのか」という危機意識が一時期持たれたのですが、1935年になる頃には、『危機』を論じる記事は減り、好戦状態で1941年の対米開戦に突き進んだようです。

 日中戦争は1937年盧溝橋事件をきっかけに起こります。中国軍はアメリカ・イギリス・ソ連から軍需物資や人員援助を受け、ゲリラ戦法などの戦術を用い日本軍に苦戦を強います。

 太平洋戦争開戦時の1941年は、日中戦争が泥沼化している状態でした。そのため日本は南進し、中国国民党の物資の補給路を断ちたいという思惑がありました。

 太平洋戦争が起こった原因の一つに、日本が東南アジアの石油や天然資源を欲した事が挙げられます。当時日独伊三国同盟を結び、主に石油を目的にインドネシアやインドシナ半島を占領して資源を確保しようとしたのです。手始めに仏領インドシナを占領します。これにアメリカ・イギリス・オランダが猛反発し、日本にABCD包囲網と呼ばれる石油を輸出しない経済制裁を行いました。日本は石油を輸入できず死活問題となります。当時の内閣は米大統領と昭和天皇の会談設定に失敗し、更に米国から”ハル・ノート”と呼ばれる、最後通牒を11月26日に突きつけられます。内容は東南アジアと中国からの兵の撤退と日独伊三国同盟の破棄であり到底受け入れられる内容ではありませんでした。そして12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まったのです。


 ――最後に、戦中早めに降伏するチャンスが無かったか? ですが、


 1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけませんでした。日本もイタリアと同様に早期に和平(降伏)に舵を切れば、もしかしたら戦争は早くに終わっていたかもしれません。イタリアと日本の政府の差は何だったのでしょうか? 

 また民間でも、日本で当時、降伏(和平)を声高に主張しようものなら特高警察でしたっけ? すぐに連行されるでしょう。民主的な言論を封じる最悪のシステムですね。今の警察は大丈夫でしょうか?

 1945年2月のヤルタ会談、4月12日のルーズベルト大統領死去を経て5月7日にドイツが無条件降伏します。すぐに米国は日本に対しても無条件降伏を求めましたが、日本政府は徹底抗戦を表明します。敗戦が確定的な段階になっているにも関わらずです。

 一億総玉砕とか、捕虜にならず自決しろとか、特攻隊とか、誰が無責任に主張したのでしょうか? 敵ではなく味方を平気で死に追いやるって、気が狂っていますよね。今でもそう言う思想に陥る人が確実にいます。気を付けないと。


 ポツダム宣言は45年7月26日に日本への降伏の最終宣言として出されます。日本政府は原爆を2発落とされるまでこの宣言を受諾しませんでした。アメリカは織り込み済みです。原爆を実戦で試す最後のチャンスでした。米国も日本政府もひど過ぎます。



 (追記)近未来、想像してください。ほぼ+100年で書いてみました。


 2026年、相手国(仮想敵国など)に対する強硬意見が国内で増える。

 2029年、相手国による経済制裁、または地域紛争が起き、日本が貿易で大きな打撃を受ける。日本は軍備を増強し、先制攻撃の準備を本格化する。

 2031年、偶発的な接触事件、またはミサイル誤爆事故が起きる。日本は防衛行為として相手国のミサイル基地を攻撃する。

 2032年、相手国が日本に無差別攻撃を開始する。(ミサイル、ドローン、空爆)


(2024.8.14)


(追加)一つ短編を書きました。戦死した祖父の話です。

https://kakuyomu.jp/works/16818093082941819809

文中のリンクと同じものです。

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