第28話 あるべき形

「――そっか。そういう事だったんだね」

 

 話を聞き終えたリッカは、激昂するでも、悲観するでもなく、ただただ穏やかに笑っていた。

 

 いっそ俺を恨んで、怒鳴り、殴りつけてくれるのであればどれだけ楽だったことか。

 

 罪悪感は重圧に変わり、俺に重く、重くのしかかってくる。

 あの頭痛の痛みが、ちっぽけに感じるほどに。

 

「今のボクを形作って、生み出してくれたのは長太郎くんだったんだ……なんだか嬉しいな」

 

「嬉……しい……?」


 リッカには俺を恨む理由がある。

 ……いや、恨むべきなのだ。それなのにどうして……どうしてそんなことが言える……?

 

「だってボクを『長太郎くんに恋する女の子』として生んでくれたってことは、ボクはこの世界で一番、長太郎くん好みの女の子ってことでしょ? ……その、胸の大きさは、絵とはちょっと違うけど」


 あれだけ残酷な説明をしたにも関わらず、頬を赤らめて笑いかけてくれるリッカに、俺は何も言葉を返すことができなかった。


「……でもそっか、こうやってボクが長太郎くんの事を大好きな気持ちも、作り物なのかな」


「……」

 

 俺はついにその言葉を否定することが、できなかった。

 

 だってそうだろう? 彼女の容姿を、性格を、そして、狭間長太郎を好きだと言う設定を考えたのは他ならぬ俺自身だ。

 

 リッカの言葉を否定するには、俺は身に覚えがありすぎた。

 

 俺には、リッカを肯定する資格はない。




「――――そんな事……そんなことありません……‼︎」



  

 そんな時だった。屋上の扉が勢いよく開かれたのは。

 全力で走ってきたのであろう、黒いセミロングを垂らした彼女は、肩で息をしていた。


「実咲ちゃん……」

 

「鈴木……」


「すみません、狭間くんからのメッセージ、気付くのが遅れてしまいました」


 昨夜の久城山からの帰り道。俺は鈴木に朝倉と導き出した真相を――そして、今日屋上でリッカと話すことになっている事をメッセージとして送っていた。

 きっと、目を覚ましてメッセージを見た鈴木はすぐに駆けつけてきてくれたのだろう。

 

「……メッセージは、全て読ませていただきました。リッカちゃんは狭間くんが書いたイラストだった――とか、体はムイカさんのものだった――とか。正直、訳がわかりませんし、今も混乱しています。でも、狭間くんの言葉だから、信じます。……そして、その上でリッカちゃんの友達として言わせていただきます!」


 鈴木は、俺の前に立つと、右手を思い切り振りかぶった。


 ぱしん、という音が屋上に響く。


「狭間くん! 思い上がるのもいい加減にしてください! 傲慢にも程があります!」


「鈴……木……?」


 鈴木に怒鳴られることも、頬を打たれることも、初めてのことだった。

 

「なんですか! リッカちゃんがまるで心を持たない作り物みたいな言い方をして! そんなの酷すぎです!」


「実咲ちゃん、長太郎くんを怒らないであげて、だってそれは本当のこと――」


「違います‼︎」

 

 鈴木は、強く断言した。

 

「リッカちゃんは作り物でも偽物でもありません‼︎」

 

「でも……でも……!」

 

 真相を知った時でさえ平静を保っていたリッカが、戸惑っていた。

 

「だったら! ……だったら、私と仲良くしてくれたのも、嘘だったんですか……?」

 

「それはっ……!」

 

 リッカの瞳が大きく揺れた。

 

「ノートに書いてあった通り、確かにリッカちゃんは長太郎くんのことが大好きです。……でも、ノートに私のことは書いてありませんでした! なのにリッカちゃんは私なんかとも仲良くしてくれました! それは、本当のリッカちゃんの気持ちで、リッカちゃんの意思なんじゃないんですか‼︎」

 

「ボ、ボクは……!」

 

 鈴木は、叫び続ける。

 

「それに……そうです! ノートにリッカちゃんが演劇部に入る事は書いてありましたか! 演劇部の練習、つまらなかったですか⁉︎ 退屈でしたか……⁉︎」

 

「違う……! 楽しかった……‼︎ 部長も、みんなもとっても優しくて! 楽しくて! いきなり入ったボクが主役になっても嫌な顔ひとつしなくて! お姫様みたいなドレスも着れて! すごく……! すごく幸せだった‼︎」

 

「それは……それはリッカちゃん自身が、自分の心で感じたことなんじゃないですか! リッカちゃんの意思じゃないんですか‼︎」

 

「……っ!」

 

 リッカが、息を詰まらせた。

 

「確かに初めはノートに書かれた設定通りのリッカちゃんだったかもしれません! でも……ノートの設定はきっと、あくまで本能みたいなものなんです!」


「本……能……?」


 その思いも寄らない言葉に、リッカは不意を突かれたようだった。


「はい。誰だって生まれたての頃は本能に従って生きます。……でも、そこから友達ができて、仲間ができて! 一緒に出掛けたりして! そうやって色々なことを経験して、他の誰でもない自分なっていくんです!」


 鈴木は、息も絶え絶えになりながら、話し続ける。


「だから、今のリッカちゃんはもう設定通りに生きるキャラクターなんかじゃありません! ……現実に生きる一人の人間、久城高校の演劇部所属で、私の掛け替えのない友達のリッカちゃんです‼︎」


「そっか、そうなんだ……」

 

 ――気づくとリッカは、両目から大粒の涙を流していた。


「ありがとう実咲ちゃん……! 確かにこれはボクの……ボクの意思だよ……‼︎」


「はい、他の誰でもない、リッカちゃんの気持ちです……! だから、狭間くんの事が好きな気持ちだって、本当のリッカちゃんの気持ちです……!」


 それを聞いたリッカが上を向いたのはきっと、涙がこぼれないようにするためだろう。

 

「――ああ、やだなぁ、消えたくないなあ」

 

「心配しないでください! 私と狭間くんと、それから朝倉くんもいるからには必ず打開策を見つけて見せます! だからそれまで、大変申し訳ないですが、ムイカさんの意識には、まだ眠ってもらったままでいます!」

 

 鈴木がこんなにはっきりと意見を主張するところを、俺は初めて見たかもしれない。

 今の鈴木を見てると、ただぼうっと突っ立ってるわけにはいかないと、活力が湧き上がってくる。 


「――ああ、リッカのためなら神でも悪魔でも……魂でもなんでも売ってやる」


「図書館の本で駄目なら、今度は古本屋さんをあたってみようと思います! 必ずリッカちゃんの助けになるような本が見つかるはずです!」


 そんな俺たちの言葉をよそに、リッカはただ、ゆっくりと目を伏せるのみだった。


「ありがとう長太郎くん、実咲ちゃん。――でもごめん、それはきっと無理だ」


 そのただならぬ雰囲気に俺は“まさか”と思った。


「リッカちゃん、どうして――」


「今朝から、頭がジクジクするっていうのかな……。変な感じがあったんだ……でも、長太郎くんの話を聞いて分かった。……ボクの中の彼女が……六花むいかがもう、目覚めようとしてる」


 それは、今この状況で、最も聞きたくない言葉だった。


「……そして、彼女が目覚めたら最後、ボクは……風賀美六花りっかは、この世界から消えるんだろうね」


「そんな……。いえ……いえ……‼︎ まだ出来ることはあるはずです!」


 リッカは静かに首を横に振った。


「自分のことは、自分が一番分かってる。……多分もう、いつムイカが目覚めてもおかしくない。……ううん、きっと本当なら、昨日の夜、既にムイカは目覚めてたはずなんだ。……だから多分、ボクが今こうしてここにいるのは、奇跡みたいなものなんだよ」

 

「そんな……」

 

「……そうだ、実咲ちゃん、長太郎くん。一つだけ、ワガママ言ってもいいかな」

 

 ワガ……ママ……?


「は、はい、なんでしょうか…?」

 

「この体からボクの人格が消えたら、今度はムイカが目を覚ます。……でもそうなったとき、二人がムイカを好きになってくれるかは分からない」

 

「そんなこと……!」

 

「“ない”って、絶対に言い切れる?」

 

「わ、私は……」


 鈴木が酷く狼狽えていた。きっと俺と同じ考えにすぐ行き着いたのだろう。


 少なくとも俺は、ムイカを嫌いになれないとは言い切れない。

 ……決してムイカに罪はないことはわかっている。

 むしろ彼女は、ある日突然意識を乗っ取られた、純然たる被害者だ。


 だが、頭ではそう理解しても、「お前さえ目を覚まさなければリッカが消えることはなかった」と、いつかそう思ってしまう気がしたのだ。


 理屈で納得していても、心はきっとそうじゃない。


「ボクは二人に、そう思われたくない。……だってムイカの体はボクの体だ。ムイカの半分は、ボクなんだ」


「そんなことしません! もしも……もしもリッカちゃんがムイカさんに変わることがあっても、そうしたらまた、ちゃんと話して友達になります! 絶対に、約束です!」

 

「ありがとう。――でもやっぱりきっと、人はそんなに単純じゃない」


 ――そうだ。人は驚くほど簡単に人を嫌いになれる。俺は、それを知っている。

  

「だからお願い」

 

 リッカは微笑むと、その身体能力を持って軽々と屋上フェンスの上に飛び乗った。

 

「リッカちゃん……?」

 

「やめろ‼︎」

 

 今にも自分が消えかねない状況と、リッカが俺たちに向ける膨大な感情。それらを爆弾のように抱えたリッカが次にどんな行動を取るか。悟った俺はすぐさまリッカの元へと走り出した。

 

 クソみたいな世の中を生きる、クソみたいな捻くれ者の俺だから、きっと気づけたことだ。

  

「――――ボクがボクでいるうちに、死なせてくれる?」

 

 ふわりと、リッカがフェンスの外側に身を投げ出した。

 

 その行動には一切の躊躇いがなかった。

 

「リッカちゃんっ……‼︎」


 鈴木の悲痛な悲鳴が響く中で、リッカの身体は宙に浮き、地面に叩きつけられようとしていた。


 ――――俺の身体が、再び勝手に動きだした。




「させるかあああああああああ‼︎」




 俺は、自分でも驚くほどの速さでフェンスをよじ登ると、勢いに任せ宙に身を投げ出した。

 

 思えば俺は、リッカと出会ったその時から、次々と起こる出来事に、流され、翻弄されるばかりだった。

 たった一度だって、自分の意思で行動を起こしたことはあっただろうか。

 ……いや、俺はいつだって受け身になってばかりだった。


 ――なら、今がその時だ。


 好きな女子のためなら、一度くらい、必死になってみやがれよ、狭間長太郎……‼︎


 俺は空中で、落下していくリッカに向かって手を伸ばす。リッカは信じられないものを見たような表情だった。

 

「来い! スローモーション‼︎」 


 叫ぶと同時に、言葉通りに視界がスローモーションになる。


 ――来た……!


 今までリッカを二度も救ってきたスローモーション。

 この現象が一体何なのかは、朝倉を持ってしても結局分からずじまいだった。

 ただ一つ言えることは、この『能力』は、俺とリッカの命を繋ぎ止める力になってくれるということだ。今は、それさえ分かっていればそれでいい……!


 ――届け‼︎

 

 伸ばした右腕は、リッカの手をガッチリと掴んだ。

  

 ――まだだっ‼︎


 スローとなった世界の中、俺はもう片方の手で校舎に沿うようにして生えた大木の枝を掴む。


 瞬間、腕が引きちぎれるような痛みに襲われた。


 クソっ! スローだから痛みの持続時間も数倍かよ……!


 人間二人分プラス自由落下エネルギー。これほどの負荷を受けてすぐに手を離さなかっただけ奇跡だろう。

 

 だが、苦難はまだ終わっていないらしい。

 左手で捕まっていた木の枝に、ミシミシとヒビが入っていくのが見えた。

  

 現在の高さは校舎二階相当か……。やるしかないよな……!


 俺はリッカをしっかりと抱きしめると枝から手を離した。

 そして、自分の体が下敷きになるようにリッカを強く抱きしめる。


 やがて、俺の体は地面に叩きつけられた。

 

 落下の衝撃を合図に、スロー状態は解除され、世界は元の速度を取り戻す。

 あちこちが痛い。全身ボロボロだ。……だが、命はある。

 俺も……リッカもだ。

  

「リッカ、大丈夫か……?」


「んん……」

 

 俺の体にのしかかるように倒れていたリッカが目を開き起き上がる。

 リッカの無事に安堵すると同時に、俺はある違和感を抱いた。 


 瞳が……“黒い”……? 

  

 そう思った途端のことだ。リッカは俺の胸ぐらを掴み上げ、思い切り木の幹に叩きつけた。

 

「カハッッ……‼︎」

 

 あまりの衝撃に、息が止まった。

  

 リッカの瞳は、敵意……いや、殺意の籠った目で、俺を睨みつけていた。

 

 纏っている雰囲気が、今までのリッカとは明らかに違っていた。

 そして、その印象を裏付けるかのように、純白だった髪はまるで真っ黒なシミがひろがっていくかのように、ありふれた黒髪へと変わっていった。 

 

 ――それが意味することに気づいた途端。血の気が引いていくのを感じた。

 

「うちはリッカやない……ムイカ……風賀美六花むいかや……‼︎」


 目の前の彼女は、流暢な大阪弁でそう言った。

 

 ――ムイカが、目を覚ましたのだ。 
















 ――六花りっかはもう、いないのだ。
















 ……なんだよ。

 ちゃんと別れすら言わせてくれないのかよ……。

 

「おい、なんとか言えや、狭間長太郎……!」


 ……けれど、目覚めたムイカは俺に悲しむ時間を与えてはくれない。


 だが、それは俺への当然の報いだ。 

 

 ――目の前にいるのは、俺からリッカを奪い去った憎き相手などではない。

 他ならぬ、俺自身によって人生を狂わされた被害者なのだ。

 

 いいか俺……そこだけは絶対に履き違えるんじゃねぇぞ。 


「ウチがこないな事になったワケ、あんたのせいやったんやな」

 

 だから俺は、もう目を逸らさないと決めた。


「……ああ」

 

「あんたが、六花りっかなんて紛らわしい名前付けたからウチは巻き込まれた……!‼︎」

 

「……リッカとの会話、聞こえてたんだな」

 

「……ああ、リッカの記憶は全部ウチも覚えとる。入学式の時も、スポーツテストの時も、勉強会の時も、……ドリミーの時も……‼︎」

 

 ドリミー……智子氏と真央氏が自分のことを忘れていると知った時。ムイカはどんな気持ちだったのだろう。

 

「アンタの書いたノートのせいで千葉に転校する羽目になって!」


 拳が飛んできて、左頬を殴られる。


「智子も真央も、うちのこと忘れてしもた!」

 

 今度は右側。

 

「オカンとオトンもきっとうちのこと忘れとる!」


 次は左側。


「きっと他の友達もそうや!」

 

 次は右側。

 

「みんな! みんなウチのこと忘れてしもた‼︎」

 

 左側。

   

「お前のせいでウチの人生めちゃくちゃや……!」

 

 そして、やがてムイカは両手を俺の首に当てがうと、徐々に絞める力を強めていく。このままにしていたら、きっと彼女は本当に俺を殺すだろう。

 

 以前の俺ならばひょっとすると、異世界転生できることを夢見ながら殺されることを選んだかもしれないが……今は、事情が変わった。


 俺はまだ何とか動く右手で、ムイカの手首を掴む。


「……悪いが、ここで殺される訳にはいかない……その体で……リッカの体で、人殺しをせる訳にはいかないんだよ……!」

 

 カチリと、脳の枷が外れるような感覚がした。

 さっきまであんなに酷かった腕の痛みが今はもう感じない。

  

「うおおおお……‼︎」


 俺は両手を無理やり動かすと、ムイカの手首を掴んで無理やり引き剥がす。

 

「抵抗……すんな……!」


 しばらく力は拮抗していたが、ムイカもさらに力を込めてきたことで、引き剥がした腕は再び俺の首元に伸び、首を絞めてくる。

 

 ……まずい、とうとう意識が朦朧としてきた。

 それに、もう腕に力も入らない。

  

 ――すまん、リッカ。


「――やめてください‼︎」

 

 ようやく駆けつけてきた鈴木の表情は、驚愕の色に染まっていた。


「“実咲”……」

 

 ムイカが呟くと同時に、首に伸びていた手が離れた。

 

「ごほっ! ごほっ!」

 

 俺は地面に崩れ落ちると同時に、久しぶりにまともに空気を吸うことができた。

 鈴木がもう少し遅く来ていたら、俺は本当に死んでいただろう。

 

「狭間くん! 大丈夫ですか!」

 

 鈴木が駆け寄ってくると、俺を必死に揺らしてきた。

 

「や、やめろ……死ぬ……」

 

「す、すみませんすみませんっ‼︎」


「――なんやねん……」  


 ムイカの呟きを聞いた鈴木は、戸惑いながらも俺を守るように前に出た。

 その小さな背中が、今はやけに頼もしい。

  

「……その、ムイカさん……なんですよね」

 

「せや……あの子は……リッカはもう消えてもうた」

 

「そう……なんですね……」

 

「実咲も、リッカを消したウチが憎いんやろ?」

 

「ムイカさん……」

  

 鈴木がムイカに頭を下げた。

 

「――改めまして、鈴木実咲といいます。ムイカさん、私と友達になってください……!」

 

「……はぁ?」

 

 ムイカが、困惑の声を上げる。

 

「え、えっとその……と、友達になってください!」

 

「……聞こえとるわ。でも、なんで今そないな事言うねん。……リッカのアホがウチのこと嫌うなって言ったからやろ? 内心ではウチのこと憎たらしい筈なのに、よく言うわほんま」

 

 ムイカは吐き捨てるように言うが、鈴木は一歩も退かなかった。

 

「……ムイカさんのこと、憎いだなんて思ってません」

 

「嘘や。だってアンタ、さっき屋上で『ムイカにはもうしばらく寝ててもらおう』とか言ってたやろ」

 

「言い、ました。でも……でもっ……‼︎」

 

 鈴木の目に涙がみるみるうちに溜まっていき、ボロボロと泣き出した。

 

「ずみばぜん……! 私……! リッカちゃんのことで頭が一杯で……! もうリッカちゃんに会えないと思うと、悲しくて、寂しくて、胸が張り裂けそうで……! でも、それはムイカさんだって同じだって、気づいたんです。……ムイカさんも、すごくすごく、悲しくて寂しい思いをしたんだって」


「アンタ……」


「でも、考えてみても、私には力になれることなんてなにもなくて……だから、せめて友達になれば寂しさも減るんじゃないかって、そう持ったんです。……リッカちゃんが、私なんかと友達になってくれたように」

 

 『ムイカの友達になりたい』。そんな鈴木の願いは、リッカの願いを叶えると同時に、間違いなく鈴木の本心でもあるのだろう。


「殴るなら! ……長太郎くんじゃなくて、私を殴ってください! 倒れないように頑張ってたくさん耐えます! きっと、ちょっとは気分も晴れると思います! でも、命を奪うのはダメです! 多くの人が……なによりムイカさん自身が不幸になってしまいます。……それさえ分かっていただけたなら……さあどうぞ!」


 そう言って鈴木は両手を思い切り広げた。後ろからじゃその表情は分からないが、鈴木のことだ、きっと目でも瞑っているのだろう。

 

 だが、すぐにはムイカの返事は返ってこなかった。怪訝に思った俺はよろよろとその場で立ち上がる。

 ……クソ、口の中が血の味しかしねぇ。


「……おい、鈴木を殴るくらいだったらこのまま俺を殴り続けろ」  

「は、狭間くん、何言ってるんですか! 危ないですよ!」


「危ないのはどっちだ馬鹿」


「ば、馬鹿じゃないです! 私は狭間くんを守ろうと……」


「それが馬鹿だって言ってるんだよ。傷でも残ったらどうする」


「傷が残るくらい、どうってことありません!」


「どうってことある!」


「ありません!」


「ある!」


「ありません!」


 いつのまにか俺たちはムイカを余所に、無益極まりない言い争いをしていた。




「――はあ……アホくさ」




 そんな応酬を止めたのは、意外にもムイカ本人だった。


「……せや、こういう奴らやったわ」


 ふいにムイカの口元がゆるみ、その表情は次第に笑みへと変わっていった。


「あ、アホですか……?」

 

「せや。実咲は勉強はできるけど、アホや」

 

「そ、そんな! ひどいです!」

 

「――――リッカは、アンタのそういうとこも大好きやったよ」


「リッカちゃんが……? でも、どうしてそれをムイカさんが……」


 鈴木の疑問に俺は答える。


「ムイカは、リッカの中からこっちの事を覗いていたらしい。……それに、リッカの気持ちだって分かってたんだろ?」


「まあ、そういうことや」


「……そんなことが、あり得るんですね」


 すると、ムイカが気まずそうに目を逸らして言った。


「……それにウチも、実咲のそういうところは気に入っとる。せやから、殴っても気分悪なるだけや」


「ムイカさん……」

 

 そうなると、やっぱり殴られるのは俺になるわけだ。


「……俺をまた殴り始める前に一つ、試して欲しい事がある」

 

 俺は、鈴木が時間を稼いでくれている間にとある可能性に気づいていた。

 

「友達でも親でもいい。誰か知り合いに電話を掛けてみてくれ」

 

「何言うとるん、そないな事してもウチのことなんか皆忘れて……まさか!」


 ムイカがスマホを耳に当てがってからしばらくすると、彼女は大きく目を見開いた。

 ……きっと、電話が繋がったのだ。

 

「――智子? 真央もおる……? うん、転校先でも、ぼちぼち上手くやっとる。その、すまん、連絡先全部消えてもうて……。なあ智子、ドリミーの時――。せや、あれウチや。……イメチェンみたいなもんやったけど、もう戻ったで。……うん、じゃあ、また」


 通話を終えたムイカは、しばらく口を開けたまま呆然としていた。 

「覚えとる……。智子も真央もウチのこと覚えとる……!」

 

「狭間くん! どういうことですか?」


「ムイカが目覚めたことで、失われていた記憶が全て戻ったんだ」


 それに、事件を解決すれば大抵の事は元に戻る。物語ってのは、大概そういうものだ。


「……ウチ、自分の意思で千葉に転校した事になっとった。ドリミーの時は、名前も雰囲気も違ったからウチだったって気づかなかったって……」


「二人が失っていた記憶の辻褄合わせの結果、そういうことになったんだろうな。……これで、殺すのだけは勘弁してくれると助かる」

 

「……こっちこそ、その、すまん。つい頭に血がのぼってもうて……」


「……気にすんな」


「……あんただって元々は、自分の妄想を一枚ノートに書き込んだだけや。……それがこんなことになるなんて、誰だって想像できん」


「……無理して気を遣わなくていい」


 空を仰ぐと、憎いくらいに澄み渡った青空が俺の目を眩ませた。

 

 校舎裏の時計は八時二十分を指していた。そろそろ登校する生徒が増えてくる時間だ。


 いくら校舎の裏手とはいえ、誰かに見られる可能性も上がってくるだろう。


「――部室に帰ろう」


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