第23話 六花の気持ち
目を覚ますと、目の前には真っ白な天井が広がっていた。
「知らない天井……じゃないな」
俺はつい最近、この天井を見たばかりだった。
微かに匂う薬剤の香り。間違いなく、ここは保健室だ。
……そうだ、俺は六花の転入届を取りに行く道中で、そのまま気を失ったんだった。
はっきりと思い出せる辺り、どうやら今回は記憶が飛ばずに済んだようだ。……あの後、六花はどうなったんだ?
俺は気が気でなくなって、たまらずベッドから抜け出した。
「あら、ようやく起きたの」
デスクチェアに座った中島がコーヒーをすすりながらこちらを向いた。
「俺、どのくらい寝てました?」
「二時間ってとこかしら。もう放課後だし、そろそろ起こそうと思っていたところだったわ」
壁に掛かった時計を見ると、時刻は既に十五時半を超えていた。
「それと、風賀美さんなら、ちょっと前に起きて部室に向かったみたいよ」
「ありがとうございます」
俺はそれを聞くなり、すぐに部室へと向かった。
◇
窓の外は薄暗く、しとしとと小雨が降っていた。
部活はとっくに始まっている時間にも関わらず、部室には他の部員の姿はない。
鈴木と六花だけがいつもの席にぽつりと座っていた。
「狭間くん!」
俺の入室に気づいた二人がこちらに駆け寄ってくる。
「長太郎くん! 無事⁉︎」
特に六花の詰め寄り方には鬼気迫る勢いがあった。俺は若干たじろぎながら答える。
「あ、ああ……大丈夫だ。記憶の方も、特には問題ない」
すると六花は、心底ホッとしたような顔をした。
「そっか……よかった……」
「……そっちは大丈夫なのか?」
「うん、ボクは平気」
「そうか……それで、他の部員は?」
「二人が倒れたことを伝えたら、今日はお休みになりました」
「……まあ演出家と主演がいないんじゃ、そうなるか」
他の部員には、迷惑かけることになっちまったな。
「ねえ長太郎くん」
六花が、さきほどよりも一段シリアスなトーンで話を切り出した。
「ボク、起きてすぐに転入届を取りに行こうとしたんだ。でも、そうしたら」
「――また頭痛が起きた、だろ?」
答えると、六花が目を見開く。どうやら、正解だったらしい。
「じゃあ、長太郎くんも……」
「ああ」
俺は部室に向かう際、転入届のことを思い浮かべながら職員室の前を通ろうとした。
だが、廊下に差し掛かった辺りで、先ほどと同じように、職員室に近づくたびに酷くなる頭痛が再び起きたのだ。
このまま進もうとうすれば再び気を失ってしまうと判断した俺は、廊下を迂回して部室に向かう羽目となった。
「……今回の一件で確信したことがある」
俺は一度深呼吸し、息を整えてから続けた。
「――六花が転入届を手に入れようとするのを、“何か”が阻止しようとしている」
普通に生きていれば言うことも、聞くことも無いだろう台詞だ。
その異様さを感じてか、二人が息を飲んだのが分かった。
鈴木が恐る恐る訪ねてくる。
「その“何か”って、一体なんですか……?」
「分からない……」
「分からないって……じゃあどうして」
「目に見えない力の正体を、どうやって知れっていうんだ?」
「目に見えない……力……?」
「そうだ。何らかの、俺たちをコントロールしようとする力が働いているのだと、俺は考えている」
自分でもおかしなことを言っている自覚はある。側から見たらどうかしているだろう。
「えっと……その……見えない力というのは……その、例えばそれは重力や磁力のような……」
「違うよ、実咲ちゃん」
鈴木の言葉を遮ったのは、六花だった。
「長太郎くんが言おうとしているのは、きっとそういうことじゃない」
「六花ちゃん……」
「教えて、長太郎くん。どうしてキミが、その考えに至ったのか」
六花の問いかけに、俺はゆっくりと口を開いた。
「“見えない力が働いている”――その考え自体は、俺が六花と出会った時から、頭の片隅で薄ぼんやり考えていたことだった。……なにせ、俺と六花が出会うことになった発端は、俺たちが『誰かに呼ばれるような感覚』を感じたからだ。そこから頭痛にスローモーションと、妙なことが立て続けに起これば、流石にオカルトやらスピリチュアルやら、非現実的なことも視野に入れざるを得ないだろ」
そもそも俺は、このクソッタレな現実では、そんな妙なことが起こらないからこそ、演劇部に入部したのだ。
だから、一度ならともかく、そんな事が連続で起きれば、この一連の出来事は繋がっていて、何か理由や原因があるんじゃないかと考えるのは、俺から言わせれば自然なことだった。
「鈴木。『転入届を取りに行く最中に頭痛が起きて、再び取りに行こうとすると、また頭痛が起きる』この状況を見てどう思う?」
鈴木がはっとした顔をする。
「六花ちゃんに、転入届を取りに行かせないようにしている……?」
「ああそうだ。俺はこの一件で、この頭痛には何らかの目的が……言い換えれば『意思がある』と、そう踏んだ。……となるとどうだ、入学式の時も、スポーツテストのときも、『六花を助けろ』とでも言いたげなタイミングで頭痛が起きているとは思わないか?」
それに、デートの時だって、俺が六花に告白するのを止めるかのようなタイミングで頭痛は起きた。
「……にわかには信じられませんが、狭間くんの話を聞いて、確かに頭痛が起きるタイミングには意図があると、私も感じました。……でも、それ以上のことは何も、想像すらで私にはできません」
「……ああ。だから、これからの調査はこの手の超常現象の方向にも視野を広げていくことになるんだろうな」
「うーん……」
鈴木は釈然としない表情をしていた。
「どうした?」
「いえ、なんと言いますか……関係性が見えてこないな、と思いまして」
「関係性?」
「はい。……六花ちゃんは『大阪から千葉に転校してきた可能性が高い』というお話でしたが、そこに頭痛は関係してくるのでしょうか」
「それは……」
考えてみれば確かにそうだ。
そもそも、六花はいつどんなタイミングで記憶を失ったんだ?
それに、六花のあの家や口座だって誰が準備を……?
「……なんだか色々なことが起きすぎていて、頭がこんがらがってきました」
一歩真実に近づいたかと思えば、その進歩を嘲笑うかのように新たな謎が行手を阻む。
一歩進んで二歩下がる。こんがらがってるのは俺の頭も同じだった。
「もう、やめよう?」
俺の思考を遮ったのは、先ほどから無言を貫いていた、他らぬ六花自身だった。
「やめる、だと……?」
「そ、そうですね。今日は色々ありましたし、一旦解散して、明日また――」
「ううん、そうじゃないの。……記憶探しは、今日限りでやめにしよう?」
仕切り直そうとする鈴木を、六花は容易く否定した。
――部室に、静寂が訪れる。
「……そりゃ一体、どういう了見だ……?」
「そ、そうですよ……それじゃあ六花ちゃんの記憶が!」
「…………もういい」
俯いた六花から、絞り出すような声が聞こえた。
「ボクの記憶なんかもういいよ‼︎」
それは、つんざくような慟哭だった。
俺は、六花がここまで感情的になるところを、初めて見た。
「……理由を、聞かせてくれませんか?」
鈴木が尋ねると、六花はゆっくりと顔を上げ始める。
慣れない緊迫した空気に、急速に口が乾いていくのを感じていた。
「……保健室で目を覚まして、隣のベッドで眠る長太郎くんを見た時にね、たまらなく怖くなったんだ。――もしも、このまま目を覚まさなかったらって」
「そんな大袈裟な……」
何気なく言った言葉だったが、俺は自分の発言を、すぐに後悔することになった。
「大袈裟なんかじゃないよ……」
六花の声は嗚咽が混じり、くぐもっていた。
「だって……だって長太郎くんは……ボクと出逢ってから何度も気を失って……こんどは記憶だって失ったんだよ⁉︎」
……そうだ。回復したとはいえ、俺が一時的に記憶を失っていたのは事実だ。
そしてなにより、六花と出会わなけば俺は、こんな経験をすることもなかったというのも、また事実なのだろう。
――返す言葉が見当たらなかった。
「今度は……今度は気絶じゃ済まないかもしれない! 今度は、全部の記憶が無くなっちゃうかもしれない! 今度は実咲ちゃんが被害を受けるかもしれない! そう思うと、怖くてたまらないんだ」
「六花ちゃん……大丈夫……大丈夫ですから……」
体を丸め、静かに嗚咽を漏らす六花を、鈴木が宥めるように抱きしめた。
「……記憶が無いって、とっても怖くて、とっても寂しいんだよ。自分の居場所はここじゃないって感覚だけが漠然とあって、ずっと胸に穴が空いているみたいなんだ」
それは、あの勉強会の夜でさえ六花が吐露しなかった、六花の本心。
いつだって明るくて気丈に振る舞っていた、六花の弱音だった。
「ボクはもう、少しだけ慣れてきたけど、二人には絶対こんな思いはして欲しくない。……ボクのせいで二人が同じ思いをするようなことがあったら……ボクは……ボクは……‼︎」
俺は今更自分の浅はかさに嫌気さしていた。
……何が、六花の記憶を探す、だ。俺は結局、何もできて無いじゃないか。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、六花の不安を増やしたけじゃないか。
――どうして、どうして六花なんだ……⁉︎
もしも六花から記憶を奪った誰かがいるのだとしたら、俺はそいつを絶対に許さないだろう。きっと、どれだけ殴っても気が済まないだろう。
「わかった――記憶探しは……少なくとも、当分は辞めにしよう。……いいな、鈴木」
「……はい」
――けれど、そんな碌でなしを探すよりも優先するべきことがある。
「……それに、そうだな。もしかしたら俺みたいに時間が経てば思い出す可能性だってある。一旦休憩してみるのも、いいんじゃないのか?」
「確かに、そうかもしれませんね。それに、もうすぐ発表会の本番ですし!」
気休めも、今の六花にはきっと必要だろう。
「……うん、二人ともありがとう」
――好きな相手の悲しむ姿は見たくない。誰だってそうだろう?
窓に目をやると、いつの間にか雨は止んでいた。
だがいまだ空には分厚い雲が掛かっていて、外は薄暗いままだった。
――それから俺たちは作戦会議を開くことのないまま、演劇交流会の本番を迎えることとなった。
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