第8話 手作り弁当の魅力

 国語教師が「チャイムが鳴るまでは教室の中にいろよー」と言い残して、教室から去っていく。

 

 ようやく四限が終わった。それも、五分早く終わるというおまけ付きで。

 

 そして何より嬉しいのは、四限は少人数の選択科目だったため、クラスの人数が減ったことで六花を取り囲んでの質問ラッシュが、鳴りを潜めていることだ。

 

「はあ〜疲れた〜〜」

 

 六花がぐっと大きく伸びをする。

 一日中、質問責めにされていたら、そりゃあ疲れて当然だろう。

 ついでに言えば、隣の席である俺も巻き添えをくらい、既にクタクタである。 

 

 それにしても……アレだな……。

 

 「んん〜」と伸びをする六花の、胸の辺りを見つめる。

 

 やはり……でかいな。

 

 今はブレザーだからいいものの、夏になり、薄手のワイシャツ姿で過ごすようになれば、より一層目立つことだろう。

 

 すると、ふと風賀美と目が合う。心なしか、ジトーっと、目を細めているような気がした。

 

 ……なんだか、嫌な予感がするなぁ。

 

「えーと、風賀美……?」

「もしかして今、ボクの胸見てた?」

 

 なるほど、どうやらバレていたらしい。

 これは……あれだ、死んだな。主に社会的に。

 

 ……いやいや。一旦落ち着け。

 俺が風賀美の胸を凝視していたのは事実だが、そんな証拠はどこにも無いわけだ。

 

 部長あたりが聞けば、呆れ返りそうだ、と自分でも思ってしまうくらいに酷い言い分を盾に俺は言い訳をする。


「……いや、見てないぞ? 本当に。マジで。一瞬たりとも」

 

「本当?」

 

 じっと、目を合わせながら、風賀美が顔を近づけてくる。

 

「……本当だ。なんだったら、神にでも誓おうか?」

 

 どうにか助けてくれエリス様アクア様……! いや、アクアは駄目だ…、絶対に碌なことにならない。

 

「んー、そこまで言われちゃったら、もう何も言えないかなー」  

 

 よし勝った。ありがとうエリス様。

 

「じゃあ、狭間くんはボクの胸に、全く興味ないんだ?」


 ……なんだって?

 俺は六花の問いに対して、嘘偽り無い本心を告げた。 


「…………ないな。全く。これっぽっちも。そもそもニンゲンのオスがなぜあんな脂肪の塊に執着するのかが一ミリたりとも理解できない」


 嘘偽り無い本心を告げた……‼︎(大事なことなので二度言わせてもらう)

 

「そっか……。狭間くんにだったら教えてあげてもよかったんだけど、残念だなぁ」

 

「教えるって、何を……」

 

 俺は、恐る恐る聞く。

 

「(ボクの……胸のサイズ)」

 

 六花がぼそりと、耳元で囁く。 

 

 胸の……サイズを……⁉︎

 

 いや、いかんいかん! これは罠だ……! 頷いたら最後、この事を学校中に言いふらされ、最終的に電気椅子か何かに座らされる羽目になるに決まっている……!


「……そうか……それは残念だったな……」

 

「ボクの胸見てたこと、今正直に言ってくれたら、教えてあげるんだけどな」


 六花は微笑みを……いや、もはやニヤニヤとした表情を浮かべていた。


 そして俺は今更ながらに全てを悟る。

 これは――あれだな。初めから全部バレてたパターンだな。


 ……ならばむしろ、最後まで嘘を突き通すより、ここで正直になった方が、人として清く、そして正しいのではないだろうか。


 そして俺は実に漢らしく、堂々と言った。

 

「――見ました」


「正直でよろしい」

 

 さあ、ビンタでもパンチでも目潰しでも、来るなら来い……!

 

「じゃあ、ご褒美あげなきゃね。ボクの胸のサイズは――」

 

 ……だが、その予想とは裏腹に、どういうわけか六花は俺に、本当にそのサイズを教えてくれた。


 彼女のプライバシーのため、具体的なサイズは伏せておくが、その大きさを示すアルファベットをA、B、C……と指折り数え終えた時には、実に、七本の指が折り畳まれていたとだけ言っておく。

 

 風賀美のその圧倒的な戦闘力に恐れ慄いていると、ようやく昼休みを知らせるチャイムが聞こえてきた。

 

「はあ、ボクお腹空いちゃったよ、ねえ狭間くん、お昼は――」

 

 風賀美が言いかけたところで、割って入る声があった。


「風賀美さーん! お昼一緒に食べよー!」


 いつの間にやら、別の教室で授業を受けていた生徒も戻って来ていたらしい。

 今風賀美に声を掛けた女子は、たしか、吹奏楽部の清水とか言ったはずだ。

 

「かざちゃーん、ウチらと食べようよー!」


 続けて、いわゆるギャルグループの女子、藤森が……。

 

「六花ちゃーん、私たちと一緒に……」

 

 今度はテニス部の橋……橋なんとかさん。

 

「かざがみ? さーん、ウチたちと……」

 

 この女子に至っては、確か隣のクラスじゃなかったか……?


 周りを見ると、風賀美の話を聞きつけてか、他のクラス、果ては他学年の生徒までが風賀美を一眼見ようと集まってきていて、場は混沌としていた。


 そしていつのまにか「バスケ部のマネージャー興味ない?」と、ちゃっかり部活の勧誘まで行う男子が現れ、今度は勧誘合戦が始まり、いよいよい事態は収集がつかなくなっていた。これでは昼飯どころの話ではない。

 

「あー……えーっと……」

 

 六花も対応に困り果てている様子だった。

 ――面倒なのは、ここで下手な断り方をしてしまえば、後々、風賀美と他の生徒との間に、禍根が残りかねないということだ。

 

 そうなればきっと、謂れのない悪評を流すような輩もでかねないだろう。

 ……本当に、人間関係というのは面倒だ。

 朝のHRの時のように、自分だけまたこっそりと抜け出してしまおう。そんな考えに至りかけていた時だ。

 

 風賀美と目が合った。

 

 ――まあ、そうだ。

 流石にこのまま見ているだけというのはあまりにも格好悪い。

 それに、風賀美六花は既に演劇部の部員だ。今更、他の部活に渡してなるものか。


 俺は、ため息混じりに息を吐くと、腹式呼吸を意識しながら、静かに息を吸い始めた。

 ……目立つのは嫌いだが、致し方ない。ここは演劇らしく一芝居打つ事にしよう。


『風賀美さん、入部の件でちょっといいかな?』

 

 混沌とした場の中でも、俺の声はよく響いたようで、風賀美に向いていた視線が全てこちらに向いた。当然、その視線はもれなく訝しげだ。

 

 ……全くもって不愉快だ。やっぱり、視線を集めるのは舞台上だけで十分だな。

 

 俺は、きょとんとした顔の風賀美にそのまま話続ける。


『入部の件で演劇部から説明があるから、お昼持って部室来てもらっても大丈夫?』

 

 この流れなら、風賀美は自然に教室から抜けることができるだろう。おまけに既に演劇部に入部していることも知らしめることができ、勧誘もなくなる。まさに一石二鳥だ。

 

「そうだったね、すぐ行くよ」

  

 風賀美も、言わんとすること察してくれたようで、弁当が入っているらしいバッグを持つと、すぐに席を立った。

 

 目論見通り周りからは「部活ならしょうがないかー」だの「もう部活入ってたのかー」という声が聞こえてくる。どうやら、目論見は上手くいってくれたらしい。

 

 さて、とりあえずこの場は凌ぐことができたが、風賀美は明日から誰と飯を食べるのか。

 

 まあ、今後のことは、それこそ飯でも食べながら考えることにしよう。

  

   ◇  

     

 教室を飛び出してやってきたのは教室棟最上階の一番奥。つまり部室だ。


 俺は、自分の定位置である、真ん中の列、最後尾の机の上にコンビニ袋をどさっと置きながら席に着く。

 中身もいつも通り、菓子パンとおにぎりだ。


「風賀美も適当に座ってくれ。なんならステージの上でもいいぞ」 

「ふふ、じゃあお言葉に甘えて」

 

 そう言って風賀美が座ったのは、俺の右隣だった。

 座る拍子に髪がふわりと揺れ、甘い香りがした。

 

「な、なんだってわざわざ隣に……」

     

「だって“好きなところ”、座っていいんでしょ?」 

 

 ……まあ、よく考えたら変に離れて座るのもおかしいしな。他意はないだろう……そうに違いない。


 俺は同様を悟られないよう、全神経を集中させておにぎりのフィルムを剥くことにした。海苔が千切れないようにするのがまた難しいんだこれが。

 

「その……さっきはありがと」

  

「……あー、あれだ、これから昼飯だってのにあれだけ囲まれて、俺も困ってたからな」

 

「なら、ボクのことなんか無視して狭間くん一人で抜け出せばよかったのに。……でも、キミはそうしなかった」

 

 ……確かに風賀美の言う通り、自分の保身を第一に考えるなら風賀美を無視するのが一番シンプルな方法だったろう。

 

「……風賀美はもうウチの貴重な部員なんだ。なら、戦力を減らさないために部員を守るのは当然だろ?」

 

「そう、なんだ……へへ、その……なんだか嬉しいなって……」

 

「そんなんじゃない、男子はこう言う時、格好つけないと死ぬ生き物なんだよ」

 

 なんだか気恥ずかしくなって、つい余計なことまで口走ってしまう。

 

「でも、あの時の狭間くん、本当にかっこよかったよ? さすが演劇部って感じだった」

 

「まあ、ああいうのは得意な方だ」

 

 そのせいか、最近部長が練習本番問わず、ノリノリでアドリブをするようになってきたような気もするが……。 

 

「狭間くんは、いつもここでお昼食べてるの?」


「ああ、稀に朝倉なんかと教室で食べる事もあるが……ほとんどここで台本のネタ考えたり、昼寝したりしてるな。だだっ広いし静かだし。中々贅沢なところだろ?」

 

「一人で?」

 

「…………一人で」

 

 なんだ、何か文句でもあるか?

 だいたいあれだ。昼休みってのは、読んで字の如く休むためにあるもんだ、教室とか言うあんなクソ騒がしい場所にいて休めるか。

 

 風賀美をちらりと見る。

 俺はてっきりぼっちだなんだと煽られることを想像していたのだが、帰ってきた反応は予想だにしないものだった。


「なら、これからは毎日こうやって狭間くんと二人っきりでお昼食べれるってことだね」

 

 風賀美は嬉しそうに笑っていた。

 ――その提案は、冗談じゃないとすれば確かに魅力的だが、事はそう単純ではない。

 

「……二、三日たてば、普通に友人もできるだろ。そしたら俺なんかに構ってないでそいつらと飯食った方がいいぞ」

 

 俺がそういうと、風賀美は、心底わからないと言った様子で首を傾げていた。

 

「どうして……? 他の人と仲良くする必要ってあるのかなぁ?」

 

「どうしてって……」

 

「他の人たちとかどうでもいいし、ボクは狭間くんと一緒に居られれば、それでいいんだけどな」

 

 ……やはりだ。

 薄々察してはいたが、入学式の一件があったからか、風賀美は俺に対して執着とも呼べるような感情を向けているきらいがある。大袈裟に言えば、ヤンデレ予備軍とでも言ったところだろうか。

 

 ……だが、それはきっと、素直に喜ぶべきことではない。

 俺なんぞに執着していては、ふと王子様への熱が冷めた時、彼女の周りには誰も居なくなっているのではないか、と思った。

 

「……少し、らしくないことを言うぞ」

 

 そうは言っても、彼女と出会ったのはつい一昨日。だからこれは、自分に言い聞かせているようなものだ。


「狭間くんらしく、ないこと?」

 

「風賀美、友達を作れ」


 風賀美はキョトンとした表情を浮かべた。


「明日は……いや、明日からは他の奴らと飯を食った方がいい」

 

「ボクは毎日ここがいいんだけどな」


「風賀美は……自分が目立つ方って自覚はあるか?」

 

「うん……あんまり意識したことなかったけど、あんな騒ぎになっちゃったらね」

   

「うちのクラスには、あからさまにイジメっ子だとか、女王様気取りみたいなやつはいないが。それでも、あまりにも付き合いが悪いと変なやっかみを受けかねない……だから、味方を増やすために、敵を作らないために、最低限の付き合いはしておくべきだ」

 

「そう、なのかな」

 

 風賀美は、どうにも腑に落ちないと言った様子だった。この方法ではダメか。

 

「……じゃあ、今度は逆に、クラス内に知り合いを作るメリットを今から挙げよう」

 

「メリット?」

 

 どうやら、少し風賀美の興味を惹けたらしい。

 

「クラスメイトと友好的な関係を築く最大のメリット、それは――」


「それは……?」

 

「――忘れ物借り放題、課題移し放題が待っている、ということだ」


 そして、クラスに友人がほぼいない俺は、仕方なく自力で課題を解く羽目になっているわけだ。

 

「それ……メリットでいいのかな……? それに、忘れ物も、課題も……できれば長太郎くんを頼りたいな、なんて」

 

「甘いな。俺はラノベ読みたさ、ゲームやりたさに唐突に欠席するからアテにならないぞ」


「ええ⁉︎」


「……さあ、俺が頼りない以上、これで風賀美はクラスに知り合いを作るしかなくなったわけだ」

 

 すると、風賀美は観念したのか、両手を軽くあげた。

 

「ふふ、わかった。ここは狭間くんに乗せられてあげることにするよ。確かに、長太郎くんを頼れないなら、他に友達を作るしかないね」

 

「乗せられたって……」

 

「ゲームやりたさに学校をサボるなんて、流石に嘘だってバレバレだよ?」

 

「…………ま、まあな」


 ……もれなく全て事実なのだが、どうやら風賀美は妙な勘違いをしたらしい、

 さーて、どうやら俺はしばらく学校はサボれなさそうだ。自制して購入するラノベとゲームの量、減らすかな。


「その……ありがと」

 

「大したことはしてないけどな」


「したよ。今だってボクのこと、心配してくれた。ボクのこと、守ろうとしてくれた」


「……部員、だからな」

 

 そう。手を貸した理由は風賀美が部員だから。

 決して、それ以上でもそれ以下でもない。

 俺はそう思うことにした。

 

「それでもいいよ」

 

 風賀美が微笑む。

 

「……おう」

 

 俺の生返事を最後に、会話が途切れ、妙な沈黙だけ部室を支配していた。


「狭間くんはさ――」


 風賀美の雪にように白い肌に、ほんのりと朱が差す。


「ボクのこと、かわいいって思ってる?」

 

 その視線はなんだか熱を帯びているように見えて、同時に俺の心臓が跳ねたのがわかった。

  

「なんで、そんな事聞くんだ……?」

 

「今日さ、みんながボクのことを、かわいいって言ってくれたけど、ボク、そういう自覚なくてさ、だからびっくりしちゃったんだ」

 

「そうか? 風賀美ならどこに行ったって人気者だろうに」

 

 まさか、朝倉の言うように、美醜感覚の全く異なる場所に住んでいたわけでもあるまいに。

 

「……それで、狭間くんは、どう思ってくれてるのかなって」


「……」

 

 そりゃあ、かわいいに決まっている。

 だが、それを本人に直接伝えられるかどうかはまったく別の話だ。

 そもそも女子に正面から「かわいい」と伝えるなんてのは、余程のイケメンにしか許されない芸当だ。

 そんなことが俺なんぞにできるわけがない。

 

 できるわけがない……のだが……。

 

 風賀美の潤んだ視線がグサグサと突き刺さる。

 ……ここで否定したり、なあなあにすれば、また昨日のように号泣されてしまうかもしれない。そしてできればそれは避けたい。

 ええい……! ままよ……!

 

「……正直、かわいい、んじゃないか……?」

 

「ほんと……?」

 

「ああ、少なくとも、日本人なら絶対そう答えるだろうな」


「むう……そういう一般論じゃなくて、純粋なキミの気持ちが聞きたいんだけどな」


「勘弁してくれ……」


 これ以上は、俺のノミ以下のメンタルが消滅してしまう。こちとらこれだけ冗談めかしてようやく言えたくらいなんだぞ?


「ふふっ、いいよ。許してあげる。……キミの気持ちは伝わったから」


 風賀美はご機嫌な様子で持ってきた弁当を開け始めた。どうやら、窮地は脱したらしい。


 小ぶりな弁当箱の中には、白飯に玉子焼き、タコウインナー、唐揚げ、プチトマト、レタスと、いかにもお弁当らしい面々が揃っていた。

 詰め方も綺麗で、手本のような弁当だ。

 

 風賀美が玉子焼きを一口かじる。

 

「うん、ちゃんと作れたかな」


「その弁当、自分で作ったのか? すごいもんだな」

 

「うん。一人暮らしだから一応、節約も兼ねてね。ボク、結構料理好きみたいだし」

 

「転校生の上、一人暮らしか……なんつーか、いろいろ大変そうだ」

 

「……うん。だから、あの日狭間くんに会えて、本当に嬉しかったんだ」

 

「……転校の理由って、聞いてもいいか?」


 風賀美はうーんと、少しばかり思案して答えた。


「ヒミツ、かな」

 

 ……秘密、ときたか。気になるところではあるが、そもそも、転校の理由なんて、大抵はかなりの訳アリだ。

 それに、いくら風賀美が友好的に接してくれているとはいえ、話すようになったのは昨日からなのだ、これ以上踏み込むわけには行かないだろう。


「そうか、秘密なら仕方ないな。……それにしても朝なんか時間ないだろうに、えらくよく出来た弁当だな」


「へへ、そんなに褒められると、なんだか照れるなぁ。……そうだ、狭間くんも食べてみてよ!」

 

「……いいのか?」


「うん、もちろん! どれが食べたい?」


 まさか美少女から手作り弁当を分けてもらえる日が来るとは、やはり罠だろうか。さては毒か……⁉︎

 ――なんて発想が真っ先に出てくるあたり、我ながら悲しすぎやしないか?

 

「……じゃあ、その卵焼き、一切れもらってもいいか?」

 

「うん、今日の自信作なんだ」

 

 ……さて、生憎俺の昼食は惣菜パン。当然、箸などはもっていないわけだ。

 普段であれば手づかみ上等なのだが、風賀美を前にそれをするのは少々憚られる。

 

 行く当てのない右手を宙に彷徨わせていると、目の前にピンク色の箸が差し出された。


「はい、あーん」


 あーん……? あぁん?

 もしかして俺は今、喧嘩売られているのか?

 

「やっぱりいらなかった……?」

 

 ……! そうか! 相手に食物を食べさせる際の合図としての「あーん」のことか……!


 可能性として除外していたせいで、本気で気づかなかった……。

 それにしても手作り弁当を分けてもらえる上、「あーん」など、にわかには信じ難い。何かの夢としか思えない。

 

 そこまでして俺に食べさせたいということは、やはり毒か…?

 だとすれば、彼女は俺を殺す為に派遣された暗殺者か……?

 

 ――などと、あらぬ方向へ思考を進めていると、風賀美の表情が段々と不安げな物へと変わっていった。


「そっか……うん、無理言ってごめんね……」


 そして彼女の瞳が潤んでいく。

 このパターンはマズイ……!

 

「いやいや、食べる! 食べさせてくれ‼︎」

 

 必死になりすぎて今日イチ声を張り上げてしまった。

  

「ホント……! じゃあ、はい……あーん」

 

「あ、あーん……」

 

 口内に黄色くてふわふわな物体が放り込まれる。

 すると、途端に口の中に玉子のまろやかな風味が広がった。

 

 ……ひたすらに甘い。


 玉子焼きが……ではない。いや、甘めの味付けなのだが、何より、美少女からこうして手作りの玉子焼きを口の中に放り込まれると言う状況が、何よりも甘い。

 甘すぎて、脳の処理が追いつかない。

 それゆえに。

 

「どう? 狭間くん」

 

 ――と、問われても。

 

「甘くて、うまい」

 

 ――それ以外の言葉は出てこなかった。

 

 流石に、感想としては素っ気なさ過ぎるだろうか。

 言葉で無理ならば、せめて態度で示そう。料理漫画よろしく、徐に裸になってオーバーリアクションをすれば伝わるだろうか。

 

 俺は、ネクタイを緩めながら、ちらりと風賀美の方へ目をやる。

 

「ふふ、ふふふふふふ♪」

  

 ――どうやら、裸にならずに済んだらしい。


「ねえ、狭間くん、気づいた?」

 

 頬をほんのりと赤く染めた風賀美が、自分の唇に人差し指を当てた。

 

 そして俺は、とんでもない見落としに気づいた。

 よく見れば、風賀美は一膳しか箸を持っていなかった。

 そして一膳しかない箸を使って「あーん」なんてすれば何が起きるか。

 

 風賀美は、先程までの愛嬌たっぷりの笑顔とはまた違う、蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「――間接キス、しちゃったね」

 

「ッ……!!!」


 風賀美が俺に向ける王子様への幻想。そんな物はすぐに消え去るだろうと、そんな話もしたが……。

 

 頼む、愛想を尽かすなら早く尽かしてくれ。

 ――さもなくば、いよいよもって、勘違いしてしまうだろうが。



 俺は、早鐘のように脈を刻み続ける心臓を抑えながら、切にそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る