マーマレードとルイボスティー
土釜炭
マーマレードとルイボスティー
今日は久々の休日だった。
何も予定の無い休日は、去年の夏以来だった。
約半年間も、私は何らかの予定を軸に生活をしていた。
社会人になってから十五年、いつでも予定があって、初めて充実を得るのだと思っていた。
事実、周囲の人々はそうした生活の中で楽しそうに過ごしている。
私が見る限りでは、そうなのだ。
会社終わりの飲みの席で、同僚の女性が、「何のために仕事をしているのか分からなくなる時がある」と話していた。
私は、「生活のためなのだから仕方のない事じゃないか。それこそが充実しているって事じゃないか」と言い、彼女はそれに笑みを浮かべていた。
しかし実の所、私も彼女と同じように思っていた。
あの夏からの半年間で、私の生活環境は大きく変わった。
こうして筆を取ったのも、久々に何か書きなぐりたい衝動に駆られての事だ。
何のために日々、あくせく働くのか。
ドラマや映画、小説で観る登場人物とはかけ離れた地味な生活。
そんな日々のどこかに、幸せと感じられる瞬間があっただろうか。
充実している、と思う瞬間があっただろうか。
人の死に立ち会う事が多い私は、同僚のメンタルケアに気を遣いすぎている。
自分の生活や孤独をごまかして、既婚の同僚と夜を共にした事もあった。
それが半年前の夏の休日。
さも、充実しているフリをして、他人に弱さを見せまいと必死だ。
今日は、たった一日の休みだった。
ベッドから起きてすぐに、昨夜書き終えテーブルに置いた退職願が目に入る。
スマートフォンを確認すると、同僚の女性からのメッセージが二通来ていた。
(寝ちゃった?)(また連絡するね)
リビングに行き、テレビをつけるとワイドショーが始まる所だった。
華やかだと思う。でも、帯番組に年中出演するのも大変だろう。
そんな事を思いながら浴室に行き、シャワーを浴びた。
サプリメントを水で流し込む。それから、朝食。
朝食は、目玉焼きに白米、納豆、味噌汁。それにプロテインを飲む。
ワイドショーでは、政治家のごたごたがずっと流れている。
外出の準備を始める。
リュックにティーシャツとジャージを入れて。
ファスナーを閉めると、そのリュックをソファの脇に置いて。
政治家の話題が一段落着くまで観た。
午前十一時、時計は指していた。
そこで、私は思い出した。先日、実家から母が送ってきた荷物を。
冷蔵庫に目が行く。
ジムに行く前ならば良いか。と、手作りのマーマレードが入った瓶を手にする。
きつく閉まった蓋を、力任せに開けると、縁のぎりぎりまで入っているマーマレードが手の甲に付いた。
甘く爽やかな香りが心地よい。
スプーンで小皿に取ると、果肉も入っているためか、取りすぎた。
スプーンを舐める。
口内の隅々を満たす甘さと香りが、深呼吸を促してくるのが分かる。
御茶請けになる。
そう思って、私は紅茶のあれこれが入った棚から、合いそうな紅茶を選ぶ。
ルイボスティーのパックを見つける。
あまり飲んだ事ないが、ここ近年、良くコンビニやスーパーなどで見かけるようになった。
味や香りの保証がないので、少し不安があった。
淹れてみると、少し癖があるものの、さっぱりとした飲み口で、マーマレードに合いそうだった。
小皿とマグカップを手にリビングに戻り、ソファに座る。
ネットフリックスを立ち上げ、適当に海外ドラマを選ぶ。
ホラーのようだったが、最初はなかなかコミカルな入りだ。
マーマレードを一口含む。
舌の上で、ジュレ状になった果肉が溶けるように広がっていく。
「うまい」
思わず声に出て、それから深呼吸をした。
あ、っと気づくと、私は天井を仰いでいる。
甘さの残る口内に、次は熱いルイボスティーを啜る。
思った通りだった。
口内の甘さをリセットし、鼻腔に入る湯気が頭の中を浄化するような。
そんな感覚があった。
政治家のごたごたの事など、忘れていた。
退職願の事も忘れていた。
同僚の女性の事も忘れていた。
この一時、この瞬間だけ。
実家の周りの風景を思い出した。
いびつな形のレモンが実る木と、正しく整えられた、この時期には何もない花壇。
しかし、芝は、きっと父が今でもしっかり手入れをしている。
あの庭で、思いっきり深呼吸をしたくなった。
実家に帰ろう。
私は決意した。
マーマレードとルイボスティー 土釜炭 @kamakirimakiri
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