第二十八話 船越川が現れる
ダンテが就職するに際して、やはり、身分証明書もなく、自分名義の銀行口座を持っていないのは、雇い主としても困るらしい。それは、そうだろうと有江も思う。
公益財団法人日本宗教調世会の
別な場所を選べればよかったのだが、ダンテは梶沢出版を我が社のように案内し、昨夜、有江の耳に入ったときには、場所が決まった後だった。
しかも、約束の日時は、今日の午前十一時。
今朝、有江は、まず
問題は、
部長は、日本宗教調世会は、ダンテが書くストーリー上の法人であり、敵対する謎の組織だと思っている。血を流すことも
その組織にダンテが勤めることになったというのも、あまりにも嘘くさい。いや、本当なのだが、やはり、嘘くさい。
愛永とも相談して、部長には「モデルにした日本宗教調世会が、取材に応じてくれて、しかも来社してくれることになった」と説明することとした。朝から会社に来ているダンテにも、余計なことは話さないように釘を刺した。
有江は、部長に説明する。
「……というわけで、今日の十一時に事務の方が、わざわざ来社してくださることになったのです」
「それは、ありがたいことですね。登場する謎の法人を、悪く書きにくくなるデメリットはあるかもしれませんが、取材によって真実味が増すメリットを優先させた方がよいと、私も思いますよ」
部長は、有江の話に納得したようだ。
「今からでも間に合うのなら、彼女にケーキでも用意して差しあげたらどうですか。経費で落としますよ」
有江は、部長の提案に従って、いちごのショートケーキを調達してきた。もちろん、部長、愛永、ダンテ、有江の分も入れて五個買ってくる。
十一時、エレベータのガタンという音と共に船越川の姿が見えた。
有江は、ボロなエレベータを恥ずかしく思った。
すぐに打ち合わせ室に案内しようと有江は待ち構えていたのだが、どこにいたのか、部長の方が早かった。
「これは、わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ押しかけたようで申し訳ありません。はじめまして、私、公益財団法人日本宗教調世会の船越川と申します」
「梶沢出版の常磐道です。さあ、あちらの部屋の方へどうぞ。今、ケーキを用意させますから、ゆっくりしていってください」
「お構いなく」
有江は、遠慮する船越川を部長から引き離し、打ち合わせ室に案内した。
なぜ、取材に応じる側が「押しかけたよう」なのか、不自然な会話ではあったが、部長は気にしていないようだ。
打ち合わせ室には、ダンテが待っている。
給湯室では、愛永がお茶とケーキを運ぶ準備をしている。部長のケーキは部長のデスクに運び、隣の席の愛永と一緒に食べる段取りになっている。応接室に部長が入ってこられては手続きができない。
「船越川さん、こんにちは」
ダンテは、パソコンを打ちながら待っていた。
ダンテの正面の椅子を船越川に勧めると、有江はテーブルを回り込みダンテの隣に座った。
「ダンテさんと一緒にいらした方が、栃辺さんなのですね」
「はい、わたしが栃辺です。事情があって、ダンテさんの担当編集者として、住まいから通帳までいろいろと関わっていまして、ご迷惑おかけします」
「そんな、迷惑だなんて。今までオカルトティックだと敬遠されがちだった死後の世界、とりわけ『地獄』に関する調査研究については、財団としても行うべきだと思っていたところですので、ダンテさんの熱弁には心動かされるものがありました。こちらから、ぜひ、お願いしたいと思ったのですよ」
ダンテの説明とは、いささか違いがあるようだが、まあいいだろう。肝心なのは、この手続きをクリアして、ダンテを日本宗教調世会の内部に送り込むことだ。その上でダンテが自立してくれれば、なおよい。有江はそう思った。
「では、ダンテさんには、こちらの申立書と委任状に記入をお願いします。栃辺さんには、こちらの承諾書と給与振込依頼書にダンテさんが使っている銀行口座の記入をお願いします」
船越川は、バッグから書類を取り出しながら説明した。
愛永が、ケーキとお茶を持ってきた。
失礼しますとトレイを持って部屋に入ってきた愛永は、船越川の後姿を凝視している。その眼差しは、いかにもあなたを疑っていますと言わんばかりの鋭さだ。船越川が振り返り、視線が合う直前に普段の目つきに戻った。
「どうぞ」
愛永は、お茶とケーキを出し終えるとすぐに部屋を出ていった。
ケーキは大好物なのですよと船越川は喜んでいる。
ダンテと有江も、ケーキを食べながら書類に記入し、船越川に渡す。簡単に手続きも終わりかと有江は思ったが、期待を裏切るように次から次へとバッグから書類が出てくる。
「船越川さんは、前にも、どなたかと調査研究していたことはあるのですか」
書類に記入しながら、ダンテが船越川に尋ねる。
「いえ、日本宗教調世会は、東京の他にも札幌、名古屋、大阪、福岡に支部があって、私は半年前までは札幌支部に勤めていました。そこでも事務をしていましたので、調査研究は初めてですね。東京に転勤になって間もないので土地勘もありませんし、これで調査研究しろというのも少し乱暴な話ですよね」
図書館がどこにあるのかもわかりませんと船越川は笑った。
ダンテは七通、有江は五通の書類を書き終えた。
「ありがとうございます。これで、手続きを進めます。ダンテさんの最初の打ち合わせは、明後日の朝九時から事務所で行いますので、忘れないで来てください」
「わかりました。今も調査研究の章立てを考えているところですから、当日には、調査項目と日程まで詰められるようになっているかと思います」
ごちそうさまでしたと船越川が席を立つ。
ダンテと有江は、エレベータホールまで見送りにいく。様子に気づいた愛永が顔を出した。部長はいないようだ。
「部長さんにも、よろしくお伝えください」
船越川は、エレベータの中に消えた。
「彼女、怪しいね」
ケーキ皿を片付けながら愛永は言った。
「船越川さんは、西藤さんの事情を知っているかもしれない方ですから、これからダンテさんが探りを入れていく手筈です」
「私が部屋に入った時、膝に置いたかばんの中身が見えたのだけれど、中身はスカスカで、ダンテ先生の手続き書類しか入ってなさそうだったね。今日は、このためだけに外出しているみたい。それに……」
いつもながら、愛永の観察眼は鋭い。
「それに、いつ来るかとエレベータが開くのを見ていたのだけれど、彼女は、驚かなかったのよね。エレベータのあの振動と爆音に驚かなかったのよ。これって、驚きじゃない?」
有江は、愛永がそこまで観察していたことが、驚きだった。
「思い過ごしだと思いますよ。今日は、ただの手続きだけで、何も怪しいところはありませんでしたから。そのうち、秘密はわかると思います」
「アリヘイはおっとりしているからな、私が応対したかったわ」
愛永にそう言われると、有江は反論することもできなかった。
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