百折不撓

三鹿ショート

百折不撓

 彼女を見ていると、己の矮小さを嫌でも自覚しなければならなくなってしまう。

 自身の能力の限界を決めつけ、努力することを止めた私に対して、彼女は周囲からどれだけ馬鹿にされようとも、その歩みを止めることはなかった。

 良い結果を迎えることができたことなどほとんど無かったのだが、それでも彼女は、諦めることはなかったのである。

 一度だけ、何故それほどまでに行動することができるのかと問うたことがある。

 私の問いに対して、彼女は口元を緩めると、

「機能が決まっている機械ならばともかく、我々は努力すればするほどに、良い未来を迎えることができるのです。たとえ何年後、何十年後になろうとも、続けていれば、何時の日か、そのときはやってくるのです。そのために、どれほど速度が遅くとも、私は歩み続けているのです」

 彼女の様子から、迷いなどといったものは感じられなかった。

 その眩しさゆえに、私は彼女を直視することができなかったのである。


***


 久方ぶりに再会した友人から彼女の話を聞かされたとき、私は信ずることができなかった。

 事実であるのかどうかを確かめるために彼女の自宅へ向かい、呼び鈴を鳴らすと、一人の女性が顔を出した。

 顔面の半分が隠れるほどに前髪が伸び、衣服は穴だらけで、身体からは悪臭を放っていた。

 私が名前を呼んだところ、相手が反応したことから、眼前の人間が彼女であるということは間違いない。

 だが、私の知っている彼女ではなかった。


***


 塵だらけの家の中を進み、他の場所よりも多少は片付いている居間に辿り着くと、彼女は茶を淹れてくれた。

 しかし、虫が浮いていたために、私は感謝の言葉を吐きながらも、茶を口にすることはなかった。

 私は変わり果てた彼女に対して、何故このような荒んだ生活をしているのかと訊ねたところ、彼女は言いよどむようなことはなく、淡々とこれまでの日々を語り始めた。

 いわく、彼女が歩みを止めたのは、学生という身分を失ってからのことだった。

 学生の時分に比べると、社会人というものは、様々な能力を必要とする。

 ゆえに、努力しなければならない事柄が急増し、彼女は目が回るような毎日を過ごすようになった。

 それでも彼女は歩みを続けようとしたのだが、ある朝、起き上がることができなくなってしまったらしい。

 職場に向かわなければならないと考えているにも関わらず、身体が動くことはなく、結局、彼女は一日中、寝床で過ごすこととなってしまった。

 翌日には改善しているだろうと考えたが、状況が変化することはなく、一日、また一日と無為に過ごしていき、やがてその生活は、当然のものと化した。

 両親が生活費を稼いでいるものの、何時までも頼ることはできないということは、理解していた。

 だが、彼女は自身の生活を変えることができなかったのである。

 その話を聞いて、私は申し訳なさを覚えた。

 それは、血が滲むほどの努力を続けていた彼女の生活が崩壊した一方で、それほど努力をしていない私が普通の生活を過ごすことができているからだった。

 このままでは駄目だと分かっていながらも変わることができないことに最も焦っているのは、彼女だろう。

 だからこそ、私がどのような言葉を吐いたところで、何の役にも立たないのだ。

 ゆえに、私はそれ以上彼女と会話することなく、彼女の家を後にした。

 一年後、彼女は、浴室で自身の手首を切った。

 私は、彼女のために、何かしらの行動をするべきだったのだろうか。

 黒々とした衣服に身を包みながら、私はそのようなことを考えた。


***


 その新入社員は、やる気に満ちていた。

 一日でも早く戦力となるべく努力していることは分かるのだが、実力が追いついていなかった。

 上司に叱責され、落ち込んでいる姿を目にしたとき、私は彼女のことを思い出してしまった。

 このままでは、この新入社員もまた、彼女のように思い悩んでしまい、自らの手でこの世を去ることになってしまうのではないか。

 思考が飛躍していると言われる可能性も存在するが、それでも、見知った人間が苦悶する姿を見たくはなかったのだ。

 私は煙草を片手に、新入社員に声をかけた。

 慌てて涙を拭い、努めて笑顔を浮かべた相手に、私は告げた。

「一人で悩んでいると、抜け出すことができない迷宮に入り込んでしまうものだ。良い助言をすることができるかどうかは不明だが、話だけでも聞こうではないか」

 新入社員は目を丸くし、しばらくは無言と化していたが、やがて悩み事を口にし始めた。

 それは、気にしても仕方がないような小さなことだったが、本人にしてみれば、この惑星ほどに大きなものなのかもしれない。

 私は新入社員に対して、立派でも何でもない、上辺だけの安い答えを口にした。

 しかし、そのような言葉でも、他者から告げられるということに意味が存在することもある。

 実際、私の言葉に対して、新入社員は嬉しそうな表情を浮かべた。

 彼女にも、こうしておくべきだったのだと、私は後悔しながら、紫煙をくゆらせた。

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百折不撓 三鹿ショート @mijikashort

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