杯中蛇影
三鹿ショート
杯中蛇影
彼女は溌剌とした人間であるために、他者の人気を集めているということは理解していた。
ゆえに、私とは正反対と言うことができる彼女が私に対して好意を抱いているということを伝えてきた際には、夢かと思っていたが、彼女の唇の感触は本物だった。
それから私は、彼女に誤解されることがないようにするためにも、他の異性との接触を避けるようにしていたのだが、同じような行為を彼女に求めたことはない。
何故なら、私は彼女のことを信じていたからだ。
だが、友人の言葉が、私を惑わせることとなった。
「昨日、きみは彼女と共に宿泊施設の中へと消えていかなかったか」
「いや、私は一日中、自宅で仕事をしていたが」
「では、見間違いか。彼女のような良い人間が、恋人であるきみを裏切るとは考えられない。おそらく、きみと彼女に似ていた人間だったのだろう」
これまで私は、そのような目撃情報を聞いたことがなかった。
だからこそ、彼女のことを信ずることができていたのだが、友人の言葉を聞いてしまった今、私は不安に襲われてしまったのである。
それ以来、私は彼女の言動に対して、過剰に反応するようになってしまった。
友人と食事に行ったと聞けば、それは私以外の男性と行ったのではないかと考えてしまい、出張でしばらく会うことができなくなると聞けば、私が見ていない場所で私以外の男性と存分に愛し合うのではないかと震えた。
つまり、私は今までのように彼女を愛することができなくなってしまったのである。
それでも、疑念を抱いているということを彼女に知られることがないようにするために、己の言動には気を遣っていた。
そのためか、今のところ、彼女が私から離れようとする様子は見られない。
***
彼女に対する疑念は日に日に強くなっていき、やがて私は、危険な思考を抱くようになっていった。
それは、共に住んでいる家から彼女を出さなければ、私以外の男性と愛し合うことがなくなるのではないかということである。
しかし、疑念を抱いているものの、彼女を傷つけるような真似に及びたくはなかった。
彼女の愛情を独占するためとはいえ、彼女に惚れていた理由の一つである明るさを奪うようなことはしたくなかったのだ。
では、それ以外にどのような方法が存在するのか。
そのことに思考を奪われていたためか、私は暴走した自動車に気が付くことができず、目覚めたときには、見知らぬ病院の寝台に横たわっていた。
目覚めた私が最初に見た人間は彼女であり、彼女は私の意識が戻ったことに気が付くと、涙を流しながら喜びを露わにした。
その様子を見て、私は自身の愚かさを責めた。
これほどまでに恋人の回復を喜ぶような人間が、裏切り行為に勤しむことなど、考えられないのである。
私は彼女に対して、謝罪の言葉を吐いた。
彼女は私の謝罪の理由を、心配させたことに対するものだと考えたのか、気にしてはいないと、笑みを浮かべながら答えた。
やはり、彼女の笑顔は、この世で最も価値のあるものである。
***
その後、私は娘や孫に囲まれながら、穏やかな老後を過ごしていた。
裕福と言うことはできないが、充分に幸福だと言うことができる日々である。
不自由の無い人生だったが、それでも、彼女に対して疑念を抱いてしまったことについては、後悔していた。
わざわざ彼女にそのことを話すような真似に及ぶことはないが、罪滅ぼしとして、私は今まで以上に彼女に愛情を注ぐようにした。
その結果が、このような幸福たる人生である。
私が感謝の言葉を吐くと、彼女もまた、同じ言葉を吐いた。
***
「彼がこの世から去った今、これで堂々と、きみと会うことができる。互いに老いたが、会うことができなかった時間を埋めるように愛し合おうではないか」
「ええ、そうですね。このときを、どれほど待ち望んでいたことでしょう。ですが、これほど用心する必要は無かったと思います。彼は、この世から去るそのときまで、私のことを信じていたようですから」
「念には念を入れる必要がある。だからこそ、我々が身体を重ねるのは、彼と愛し合った翌日だと決めていたのだ」
「そのように用心せずに子どもが出来たとしても、それほど大きな問題は生じなかったと思いますが」
「何故か」
「何故なら、あなたは彼の兄ではありませんか。あなたと彼はよく似ています。だからこそ、子どもがあなたと彼のどちらに似たとしても、疑いを持つことはなかったでしょう」
杯中蛇影 三鹿ショート @mijikashort
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