第6話

 怠い、眠い、疲れた。そんな三拍子が揃ってしまえば仕事場以外での笑顔は一切なくなる。翡翠との合同撮影以来、仕事続きという事もあって身体は満身創痍だ。心臓の器が割れたように、劣等感に焼けた血が全身に広がる。底の無い空虚感は深呼吸をしても埋まらない。誰もいないリビングのソファーはいつもより硬くて、寝心地が悪かった。

「ただいまー」

 愛しい人の優しい声でさえ、耳障りに聞こえる。こんな情けない顔、彼女に見せたくない。そんな考えを壊すように、彼女は俺のところに一直線でやってきた。

「星弥、お疲れ様」

 それ以上言葉を紡ぐこともなく、彼女はひたすら俺の髪を梳いた。仕事の疲れも苛立ちも全てを溶かすような彼女の手に、さっきまで疎ましいと感じた声なのに聞きたいと思った。でも唇は思う様に動いてくれなくて。

「うん。おやすみ、星弥」

 ぎこちなく動いた口唇が伝えたかったのはそんな言葉じゃないんだ。気づいてよ、姉さん。

「───」

 魔法に掛けられたように落ちる瞼は俺の思考を夢へと誘っていった。


 朝日とは違う高い太陽は寝坊助を叩き起こしてくる。リビングには俺用の軽食が置いてあった。その隣に置いてある雑誌に手を取れば、ボクとアイツがあり得ないくらい微笑んでいる。姉さんの私物なのか、特集ページに一言付の付箋が貼ってあった。

『受け答え可愛い』『ぎこちない笑顔可愛い』と可愛いがインフレ状態だ。一方、翡翠に対しての付箋はハートマークが目立つ。明らかに色めき立った一言達。姉さんは小さい頃からずっと翡翠を見てた。翡翠に焦がれていることくらい知ってる。だって俺はずっと姉さんを見てきたから。

「腹立つ」

 リスの様に頬が膨らむくらい食事を詰め込む。手櫛で髪を整えて、洗顔してゆるいパーカーに着替える。ここに姉さんがいれば完璧なオフになるんだけどな。

 噂をすれば影が差すらしく扉の開く音がした。大学の講義が午前終わりだったのだろう。姉さんの嬉しそうな声が聞こえた。

「姉さん、おかえ......拾っちゃダメでしょ、それ」

「大学の講義がたまたま一緒だったから連れてきちゃった!」

 いや、姉さんも姉さんだけどコイツ何ホイホイ女の家付いてきてるの? 用心深くて姉さんを巻き込みたくないって王子面しておきながらこうやってパパラッチの目も気にしないで姉さんの誘惑にのるとか馬鹿なのコイツ。

「星弥、寝起き? 翡翠くんに紅茶淹れるけど星弥も飲む?」

「......うん。飲む」

 姉さんがパタパタとキッチンに向かえば、俺と翡翠はお互いの視線に悪意を込めながら向き合って座った。

「紅茶飲んだら帰れよ、本当。姉さんに纏わりつくとか何なの? ストーカーなの?」

「星弥もそろそろシスコン卒業したら?」

 先日の撮影の敗北感と俺の姉さんへの気持ちが馬鹿にされたようだった。乗り出して、皺一つ無いシャツの胸倉を掴む。

「俺は!」

「ちょっと、星弥!じゃれない!!」

 慌てた声に振り返れば姉さんがトレイにティーセットをのせていた。

「星弥」

 冷静な翡翠の声に俺の手はゆっくりと力が抜ける。これ以上、ここで言い合えば姉さんが慌てて紅茶を零して火傷しかねない。姉さんは翡翠に謝 ると、俺の隣に座り頭を小突いて紅茶を淹れ始めた。

「翡翠くん、この前の雑誌見たよ! 凄く格好良かった」

「頑張った甲斐があったよ」

 甘い林檎の香りがふわりふわりと部屋に漂う。姉さんの頬もそれみたく真っ赤で......何コレ、俺いないみたいじゃん。

 ころん

「星弥? どうしたの、眠い?」

「眠いなら部屋で寝ればいいんじゃないかな、星弥」

「狼の前に子うさぎ一匹を放り出せるほど非道じゃないから」

 見せつけるように、姉さんの腰に腕を回し膝枕を堪能する。姉さんは基本的に俺に甘いから疲れたと言えば何でもやってくれる。今だって、彼女の手はティーカップから俺の頭に移動していた。これなら翡翠もむやみに手を出せない。優越感に浸りながら俺はそっと目を閉じた。

「まぁ......今日は譲ってあげるよ」

 この時は、姉さんの柔らかさと心地よさで何も気づけなかった。だいたい姉さんフリークな翡翠が、俺の暴挙に対して文句言わないなんてありえなかったのに。付箋だらけの雑誌は、嘲笑う様に俺を覗いていた。

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