第二章 怖い。

 いつも通り、廣井さんはそこに居た。やっぱりベンチにだらしなくもたれかかっていて、やっぱり煙草を吸っている。

 でも僕は、いつも通りではなかった。彼女が怖いからだ。


 彼女はミディアムの黒髪をさらさらと揺らし、そこから見えた黒い瞳が僕を見つめる。それに、僕は思わず震凓しんりつしてしまった。


「や、よーくん」

「こ、こんばんは。廣井さん」


 ザワザワと心が騒ぐ。落ち着かない。怖くて顔が見れない。

 頭が真っ白に染まって、今までどう接してきたか分からなくなる。


「よーくん」

「…は、はい」

 震える唇で、何とか返事をする。

「昨日からさ、様子、おかしくない?」

 声からしか判断できないが、心配してくれているようだ。

「どしたん、話聞こか?」

「…聞き方が、性器丸出しですよ」


 力を振り絞ってなんとか、いつも通りふざける。お茶を濁すように。

 だが、応えは沈黙である――無駄だったようだ。


「なんで、顔見てくれないの?」

「…い、いやぁ」


 また話を逸らそうと、僕は、なんでもないよ、とでも言うように、あはは…と苦笑した。

 すると、横から廣井さんの、はっ、という息を呑む音が聞こえた。


「え? まさか…」

 恐らく、彼女は何か納得したように手を打った。

「なるほど、そういうことか」

「え、ちょ、近付かないでください」


 彼女の気配が、僕に向かって近付いてくる。


 ――怖い。

 動悸が激しくなり、ドキドキと僕の身体を震わせる。


「顔良く見せて」

 そのあどけない声色に、彼女が更に恐ろしくなっていく。

「い、今、顔見られたくないです」


 ――恐ろしい。

 冷や汗が全身から溢れ出してくる。それが僕の体表から熱を奪い、まるで冬のように肌寒くなった。


「いいから、ね?」

 肩に廣井さんの手の感触が走る。びくり、と僕の身体が反射的に震えた。

「や、止めて…」


 ――どっかに行ってしまいたい。

 肩を引っ張られて、廣井さんの黒い双眸が僕の顔を映す。


「むふー」と、彼女はにまにまと笑った――その表情、その声色、触れたら壊れてしまいそうな、硝子細工がらすざいく


 ――触れたくない。


「私のこ、」

「怖い…さ、触らないで」


 絶対に言ってはならない言葉を、僕はこぼしてしまった。

 瞬間、真っ暗闇に放り出される。何も感じない。五感からの情報を、僕の脳が拒絶している。


 感覚が、だんだんと取り戻されていく。


 聞こえる。蝉の悲鳴が。

 味がする。ねちゃりと気持ち悪い唾の。

 嗅ぐ。ほろ苦い煙草の匂いを。

 触れる。僕の膝に、何かの水滴が。


 見える。彼女の顔が。


 シャワシャワと蝉が鳴いている。蒸し暑いからだ。その蒸し暑さは、サウナと肩を並べると言っても過言ではない。彼女も、そんな暑苦しさに汗を――違う。

 汗じゃない。涙だ。

 泣いている――違う。泣かせた。


 ――あ、まただ。


「ご、ごめ、ごめんなさ――」


 ――パリン。と、彼女の心が割れる音がした。


 ピースは繊細な硝子細工がらすざいくで出来ている。無理矢理、周りの心に嵌まろうとすればするほど、周りも自分も傷つける。

 削り削られ、ヒビが入り、最終的には――。


 心が、壊れてしまう。


 そうして、僕はまた、から逃げた。


 ――パリン。と、もう一つ、心が割れる音がした。

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