第一章 恋しない?

 家近くの公園のベンチには、いつも通りの廣井ひろいさんが居た。ベンチの背面にだらしな~く、もたれかかっている。というか寝ている。


「こんばんは、廣井さん」

「んぁ?」


 僕の呼びかけに気がついたのか、廣井さんは眠りから覚めて、僕の方を向いた。ミディアムの黒髪がさらさらと揺れて、彼女はくまの出来たその顔を覗かせる。


「や、よーくん」


 新しい煙草を咥えた彼女は、それに火をつけた。真夜中に輝いたそのあかいハイライトが、辺りの闇を押しのけて、同色に照らす。

 僕はそれを横目に見つつ、彼女の左隣りに座った。


「眠いなら今日は、」

 止めます? と言いかけて、僕は口をつぐむ。

「いえ、やっぱなんでもないです」

「止めな~い。私も逃げたいから」

 現実から。

「…そうですね。僕も逃げたいです」

「あんがとね、心配してくれて」

 そう言い、にへらと笑いながら、彼女は僕の頭を撫でた。

「…撫でないでください」


 引きこもり大学生のお姉さん、廣井ひろい雨夜あめよと僕、不登校中学生の春瀬はるせ陽一よういち


 僕らは毎日、深夜十一時に、この公園に集まっている。目的は現実逃避。まあ、ただ二人で一、二時間ほどだらけて喋るだけなのだけれど。

 でも僕らは、この時間を大事にしている。人の心に触れる時間として。


 社会は心というピースで出来ている。生き物は生き物と、心と心で嵌まりあって、社会というパズルを作っていく。多少のピースの歪みは抑えて、我慢して、周りに合わせて社会パズルに適合する。

 だが余りにもピースが歪んでいて、パズルに嵌まれない者が存在する。

 それが僕ら、社会不適合者だ。


 ピースは、繊細な硝子細工がらすざいくで出来ている。無理矢理、周りのピースに嵌まろうとすればするほど、周りも自分も傷つける。削り削られ、ヒビが入り、最終的には壊れてしまう。


 僕らの心は歪みすぎていた。無理矢理嵌まろうとして、自分の心が壊れてしまうくらいなら、社会パズルから外れてしまった方がマシだ。

 そうして、逃げた。


 だが、逃げた先でこう思ってしまった――社会に嵌まれない人間に、価値なんてないんじゃないか?

 だった。パズルに嵌まれないピースは不要だ。さらに言えば、捨てられて、ゴミ箱の中で孤独に死ぬのを待つ運命だ。


 だから僕らは社会不適合者同士、その孤独を埋めるように、心で嵌まりあって、触れ合って、お互いに必要とし合って、『社会から外れた僕らに、価値などない』という現実から逃げている。


「そろそろやめてください」


 しばらく撫でられていた僕は、流石に恥ずかしくなってきたので、廣井さんの手を払った。


「うへ、払われちった」


 少しの沈黙が流れる。シャワシャワという蝉の悲鳴だけが僕の鼓膜を震わせる。その音に、僕はさっきの蝉を思い出して、少し気分が悪くなった。

 涼しい風が吹く。僕が気分の悪さを取るようにその風に浸っていると、廣井さんが不意に呟いた。


「…んね、あの……恋、しない?」


 ぶん、と僕はすごい勢いで廣井さんの方を向いた。


「…マジですか?」

「ま、マジ」

 彼女は何故か、そっぽを向いた。

「なんでですか。なんで恋したいんですか」

「いやさ…お互いが一番必要と思い合える仲、恋人じゃん? イージーに自分に価値があるように思えるじゃん? 現実逃避にぴったりじゃん?」

「それは、まあ、そうですけど」


 恋か…、と考え、僕は少し眠い頭を覚ますように夜空を仰いだ。

 イージーに自分に価値があるように思える――というのは、僕にとってなかなか魅力的な言葉だった。

 暫く考え、僕は恋をしてみることに決めた。


 はぁ、と、僕は溜息をく――素直にそれを了承するのは恥ずかしいからである。


「まあ、いいですよ」

「やた」

「でも、恋するって言っても、具体的には何するんですか」

「あ」


 あはは…と苦笑いながら、廣井さんは新しい煙草を口に咥える――あ、コレ何するか考えてないな。というか吸いすぎじゃないか? 僕が来てから四本目だぞ…ヤニカス。

 息を吐くように灰色を排出した廣井さんは、頭に電球を浮かばせ、チカチカと点滅させるように考え込む。


「お」

 ぴかっ、と電球が付いた。

「まずはお互いについて知ろう!」


 ――絶対今考えたやつじゃん。


「いや、僕ら結構長い付き合いじゃないですか。あなたについて知らない事なんてほくろの数くらいしかないですよ」

 流石に誇張である。

「それは私も知らない。他になんか聞きたいことないのかよ」

「思いつきません」

「ひねり出せ。うんこみたいに」

「男子小学生ですかあなたは…質問、僕からですか?」

「うん」


 えー僕から? と言いながら、僕も頭に電球を浮かばせ、チカチカと点滅させる。何故かトイレが頭をよぎったが、無視した。


「あ」

 ぴかっ、と電球が付いた。

「なんでお酒飲まないんですか? 現実逃避三天王さんてんのうと言えば、酒、たばこ、異性じゃないですか」


 一年以上、廣井さんと会っているが、彼女がお酒を飲んでいる所を見たことがない。たとえお酒に弱くても、現実逃避が出来るなら彼女は喜んで飲むはずだ。


「ククク…奴は三天王の中でも最弱……」


 ふざけないでください、という目を廣井さんに送る。

 気付いた彼女は咳ばらいをして、すっとその表情に暗い影を落とした。


「本気で現実逃避したいときとかには使うけど、嫌なのを思い出しちゃうからね。それに、私めちゃくちゃ強いからなかなか酔えないし。普段の現実逃避には使えないかな」

「…そうですか。ごめんなさい」


 僕はこれ以上、踏み込むのを止めた。同じ社不しゃふだからか、廣井さんがそれを言いたくないと思っているのがひしひしと伝わってくる。


「…次、廣井さんですね」

 僕は、表情を翳らせていく廣井さんを止めるように呟いた。

「質問、ひねり出してくださいよ」

「うん」

 彼女の表情が少し、元に戻る。

「何で不登校になったの?」

「えぇ…」


 さらっとえげつない質問をされた僕は、困惑の声をつい漏らしてしまった――人には踏み込まないでと言うくせに(言っていないけども)、人の過去にはずかずかと踏み込むのか…。


「…まあ、もう、別に、言ってもいいですけど」

「聞かせて?」

 それは、真面目な声色だった。


 不登校になった経緯――実はあまり憶えていない。だが、取るに足らない記憶だった訳ではない。強すぎたのだ。余りにその記憶のストレスが強いものだから、僕の脳が勝手に忘却したのだろう。

 もやのようなものが記憶にかかっているが、それでも強い不快感を覚える。それほど酷い過去だ。


「…中一の頃、急に怖くなったんです」

「…なにが?」

「同級生が」

 身体がすっと冷え、身体が震える。

「なので、逃げました」


 なんで怖くなったかは、よく憶えていません。多分、アイツが僕を傷つけるから、怖くなったのかもしれませんね。


 と、上手く発音の出来ない口で僕は伝えた。


「ふーん…」

 と、廣井さんは鼻を鳴らした。その反応はどういう感情なのさ。


 しばらく、沈黙が僕らに降りる。というか、なんで現実逃避しに来たのに現実見なきゃいけないんだよ。


 廣井さんは、溜息混じりに口から灰色を吐く。僕はそれを目で追った――そういえばこの前、廣井さんはこんなことを言っていたな。「煙草の味は現実逃避の味! 味わうことで、心に溜まった現実のストレスが煙として口から排出されるのだ!」んなわけねーだろとか思っていたが、この灰色を見ていると本当にそう思えてくる。


 透明な夜空に、灰色な現実が浸蝕しんしょくしていく。夜空に散らばる数多の輝点に、現実の膜が掛かり、穢される。


 ――なんか、嫌なこと思い出しちゃったせいでストレス溜まったな。


「廣井さん」

 僕は、考えていたことを漏らすように呟いた。

「煙草、吸わせてください」

「…よーくんは未成年でしょ?」

 社会不適合者が法律を語る。

「廣井さんの質問のせいで現実見ちゃって、ストレスが溜まりました」

 僕は少し不機嫌そうに言う。

「吐き出させてください」

「ダメでーす」


 廣井さんは、指で作ったバツを僕に向けた。


「今はまだね」

「…んじゃ、いつならいいんですか?」

「よーくんが、大人になった時だね」


 待てません。という思いを込めて目線を送る。


「え~? 待てない~?」

 廣井さんは、にまにまとにやける。

「んじゃあ、私と付き合ったらいいよ」

「じゃ、付き合ってください」

 廣井さんの動きが一瞬止まる、僕の言葉に狼狽えたようにも見えた。

「相思相愛になんなきゃダメでーす」

 くすくすと笑い、彼女は煙草の火を携帯灰皿に押し付け、消した。


 僕はその様子に少し腹が立って、顔をしかめる。


「んじゃ、指切りげんまんしよっか。条件達成したら一緒に吸ったげる」

「意味ないのでやりません。どうせ相思相愛にはなんないので」

「ダメ。強制」


 廣井さんは僕に小指を差し出す。仕方ない、と僕は溜息をき、彼女の小指に自分の小指を掛けた。


「よし! ゆーびきーり――」


 聴きなれたその曲に合わせ、彼女はリズム良く小指を振る。

 ふと、彼女の顔を見た。


 ――トクン…。と心臓が鳴る。

 瞬間、蝉の悲鳴も、彼女の歌声も、小指の動きも、煙草の煙も、僕以外がハイスピードカメラで撮った映像のようにスローになった。


 廣井さんは美人だ。切れ長の瞳に長い睫毛まつげ、鼻筋はすっと通っていて、細くて綺麗な口元にほくろが一つ。全て合わさって、大人の、美人なお姉さんという雰囲気を醸し出している。


 小指を楽しく揺らし、長い前髪から覗かせた顔立ちはまさに、その大人っぽさだったが、それに滲む表情は――その顔らしい大人のお姉さんでも、いつもらしいだらしなさでも、さっき見せた翳りのあるものでもない。


 少女のようにあどけなく、乙女のようにはにかみ、少しでも触れたら壊れてしまいそうな表情が、滲んでいた。


 その表情を見た瞬間、僕は彼女がとても、愛おしく思えた――恋だ。


 ――ドクン…。また心臓が鳴る。

 その鼓動の音色はまた、感情の色に染められていた。それは喜び? 違う。不思議? 違う。切なさ? 違う。それとも――いとしさ?


 違う。


 それはだった。昔、同級生から感じたそれと、全く同じものだった。

 それに気付いた時、僕は自分の硝子細工こころが熱を帯びて、ぐにゃり、と、形が歪んでしまった気がした。


 この約束から、僕の中で廣井さんが、なった。

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