第9話 第七部、「絶望の果てに」

再び砂嵐の音がざあざあと響く、走馬灯映画館。鏡のような水をたたえた地面と、満天の星。幻想的なのにフィクションだとはっきりわかるその景色は、美しすぎてどこか恐ろしいものがあった。


そうやって、次の走馬灯が始まるまでボーっとしていたとき。


そういえば、私は死んだんだろうか?とふと思った。


走馬灯を見ているということは、私はまず間違いなく死んでいる。けれど、私の脳には死んだときの記憶が綺麗さっぱりない。それは、どうしてなのだろう?死んだときの記憶なんて、忘れたくても忘れられないはず。


そう考えたところで、私はハッとした。私は自分を守るために、いくつかの記憶を意図的に忘れていた、というのは走馬灯でわかった。それならば、死んだときの記憶も意図的に忘れているのでは?


知りたい。私の最後を、人生の幕が下りる瞬間を。最後くらいは、家族にも会えただろうか。誰かに惜しんでもらえただろうか。頭の中で、妄想が広がっていく。


砂嵐が収まってきた。次の走馬灯の映像が始まる。


今回の走馬灯は、モノクロだった。





けほ、こほ。乾いた咳の音が静かな病室に響く。喉をさすった私は、ふう、とため息を吐いた。一週間前にお医者さんに言われた言葉が、脳に張り付いたように離れてくれなくて、知らずのうちに息が詰まる。


「胸の花は、あと一回でも花をこぼせば咲いてしまうでしょう。」


その言葉とともに見せられたレントゲンの写真には、花開く日を心待ちにしている、柔らかそうで大きな蕾がはっきりと映し出されていた。百合の蕾ような形だけれど、薔薇の蕾みたいにたくさんの花びらが重なっているのが見える。美しいのに、この世には存在すらしなさそうな、奇妙な蕾だった。


「だから、なるべく花をこぼさないように努力してください。」


「わかりました。」


お医者さんはいつものように、こちらを見ることもなく去っていく。その後ろ姿を、私は黙ってベッドの上から見送った。そして私は今、同じようにべッドの上から窓の外を眺めている。雨はまだ降っていないけれど、そのうち降り出しそうなほど、どんよりとした灰色の雲が空を覆いつくしている。病室の空気も、どことなく湿っているような気がした。この病室は空調ですべて管理されているから、気のせいでしかないけれど。


私は晴れより、雨や曇りが好きだった。晴れていると、日光を浴びることになる。そうすると、私の胸元の花が育ってしまう気がして、なんとなく苦手だったのだ。花を大きく美しく育てるには、養分と日光と水がいる。私の花は、私の躰を養分に、私の血と涙を水分にして咲いていくから、日光が当たったが最後、急速に大きく育ってしまうように感じた。実際はそんなことはないんだろうけど。


ああ、なんだか今日は、無性に誰かに会いたい。たとえ他人行儀なお医者さんや、やる気のなさそうな看護師さんだってかまわない。欲を言えば、お父さんかお母さんに会いたい。部屋の外はどんどん暗くなっていく。


誰かに、冷たくなっていく私の手を温めてほしい。


この部屋は、寒い。空調のおかげで、湿度も温度も完璧だけど。誰も私に直接触れてはくれないし、誰も私の心を温めてくれない。幼いころから、嫌という程知っているのだ。手を伸ばしても、ガラスにしか触れない。涙は流せない。助けて、と言っても事務的な態度しか返ってこない。そして花をこぼすと、皆の目の色があっという間に変わる。研究者たちは、私がこぼす花を嬉々として奪っていく。お医者さんや看護師さんは、恐ろしいものを見る目で私を見る。


そして両親は、泣きそうな、嫌悪するような、複雑な表情でこちらをじっと見る。


もう嫌。もう疲れた。何度も思った。けれど死ねない。死ぬことは許されない。管理された生活では、発狂すら許されなかった。いっそ狂ってしまえた方が、楽だったかもしれない。心の感情の蛇口は、いつでもきっちり絞められたまま。少しでも栓をひねれば楽になれるのに、私を取り巻く環境がそれを許さない。


ねえ、私はどうしたらいいの?


途方に暮れた瞬間、眼からポロリと何かが落ちた。それは、真っ白なシーツの上にポトリと音もなく落ちる。それと同時に、映像がパッと色づいた。


それは、鮮やかな深紅のマリーゴールド。花言葉は「絶望」。


ああ、泣いてしまったな、咲かせちゃった。泣いては、いけなかったのに。


本当に?


本当に、泣いちゃダメだったのかな。私だって、泣いてもよかったのかもしれない。命を糧にして、その時その時の想いを精一杯、大切に大切に、咲かせてもよかったかもしれない。


もしも、それが許されるなら。


最期に咲く涙の花くらい、綺麗な花がいい。最期くらい、私自身も嫌ってきた、「私の涙」を好きだと思いたい。ぽとり、ぽとり。深紅のマリーゴールドばかりが真っ白いシーツに落ちていたけど、そこに違う花が混じり始める。そして、いつしか違う花が眦から咲き誇る。


いじらしい紫の可憐な花、撫子。花言葉は「純愛」。


深紅のマリーゴールドに、紫の小さな花が混じる。私が私を好きになりたい、そんな純愛がこもった花が、私の目から落ちていく。その後も私は、泣きつづけた。今まで我慢していた分を全部吐き出すように。


優しい黄色のキンセンカ。花言葉は「寂しさに耐える」。私はずっと、「寂しい」の一言すら言えなかった。わがままだって、思われたくなかったから、でも本当は淋しくて、寂しくてしょうがなかった。


真っ赤なユリ。花言葉は、「虚栄心」。見栄っ張りな私だった。いつだって、一人で平気だって、強がって。本当は、誰かに助けてほしかったくせに。


真っ白いゼラニウム。花言葉は、「憂鬱」。いつもいつも、何かを憂いてばかりだった。将来のこと、私の残りの命のこと。少しくらい、一度きりの人生を楽しめばよかったかな。


淡いピンク色のガマズミ。花言葉は、「私を見て」。誰かに、私自身を見てほしかった。奇病を患う可哀そうな子でもなく、人ならざる不可思議な子でもない、ただの私を。そうやって私に接してくれる人がいたら、私も辛くなかったかな。


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