第8話 第六部、「偽りの青空に。」
そう叫ぼうとしたとき、友人はケタケタと笑った。あいも変わらず首を左右にかくかく振って、人外じみた動きと風貌で、ただひたすらに笑っていた。そして、友人はかぶっていた麦わら帽子を、私に優しくかぶせた。いつの間にか、雲一つなかった空には、激しい雨を降らせる入道雲ができ始めている。
『そうやって、逃げててもいいんだよ?自分自身は何なのかも誰なのかも考えないで閉じこもっていても。でもそうしてるばっかりじゃ、君は一生変わらないから。』
ふっと笑うことをやめたかと思えば、そんなことを宣って。友人はくるりと私に背を向けた。友人が走っていく方角に、一本の飛行機雲ができていく。すぐ消えてしまう儚い雲は、昔私が手を伸ばした雲だった。まるで空に浮かぶロープのように、私を外の世界へ連れ出してくれると妄想していた雲。その雲は、友人の背中を追いかけていく。そして、私が近づくそばから消えてしまった。友人はどんどん遠ざかって、姿はついに地平線の向こうに消えた。
その瞬間に、私は思わず、その背中に手を伸ばした。声は、やっぱり出なかった。
友人が走り去った方角に、いつの間にか、立派な入道雲ができていた。飛行機雲は友人とともに、姿を消してしまったのに。私は一人、広すぎる新緑の上に取り残されていた。頭にある麦わら帽子も、冷たく冷えていた。
言い返そうと、叫ぼうとしたことは、きっともう誰も聞いてくれない。
絵の具で塗ったような、そんな青空は私の届けたい想いすらも飲み込んでしまったのだろうか。
「待って!」
という声もきっと今は届かない。
昔は、辿っていけばどこまでも行けそうな気がしたひこうき雲も、今は私を置いてどこかへ飛んでいくだけになった。
被っていた麦わら帽子を脱いで遠くの空を見上げる。
そこに大きく存在していた入道雲と、目が合ったような気がした。
青いばかりだった空は、いつの間にか暗い入道雲に覆われて、バケツをひっくり返すような激しい夕立が芝生を濡らしていく。私はそこでただ一人、麦わら帽子を握りしめて立ち尽くした。
目が合った入道雲が、私の代わりに涙を流して泣いてくれているみたいだった。
そこで走馬灯は終わった。スクリーンからは、土砂降りのざあざあという雨の音。独りで立ち尽くす夢の中の自分が薄れていって、そのまま映像はフェードアウト。砂嵐の中に消えていく一人きりの自分の姿は、それほど惨めじゃなかった。
この夢を見てから、私は自分自身を化物だと思うようになった。誰のことも信じないで、誰にも迷惑をかけないようにしようと誓った。
だって私は、普通じゃない。涙も流せない。感情だけがただ、眼から花開いて零れ落ちていく。そんな状態で何かに期待なんてしたくなかったし、できなかった。もしも何かに期待して、誰かに拒絶されてしまったら、裏切られてしまったら、きっと私は壊れてしまう。ただひたすらに花を咲かせて、言葉も話さないまま、夢の中の友人みたいに狂ったように笑顔を張り付けて。
そうなってしまうくらいならいっそ、と思ったんだ。
何も思わない、感じない。花を咲かせることもしない。感情は全部シャットアウトして、心を知覚しないようにする。そうやってマネキンみたいに病室でお飾りとして過ごす。そうすればきっと、誰も私を気にしなくなる。
治る見込みのない、死に向かうだけの、数多の患者の一人になれる。
それはきっと、化物の私が人間に紛れられる、唯一の方法だ。
だから私はこの、偽りの夢の青空に誓った。
「絵の具で作られた、夢の中の偽物の世界みたいに、私は私を偽る。悲しみも、苦しみも、感じなければいい。心なんて、捨ててしまう。そして、人のふりをして生きるの。化物じゃないって、思い込めるように。」
その思いを改めて思い出すと、柱がまた光る。
「願い」をともして若草色に光る柱のとなり。
独りよがりでまっすぐな思いのようなライムグリーンが、私が私を守ると誓った「決意」の色だった。
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