第4話 第三部、「覚えのない幸福」
十二本の柱のうち、二本だけが色づいた走馬灯映画館の中。私は、座り込んで星空を見上げていた。スクリーンのように映像を映す星空は、私の知らない空だ。色は群青色で、夜のような色をしているにもかかわらず、昼間のように明るい。そして、昼間のように明るいのに、輝く星々ははっきりと見ることができる。天の川も星座もない星空は、幻想的だった。
そうしてまたぼうっとしていると、砂嵐の映像が再び像を結び始める。あれ、今回は覚えのない映像だ。映し出されているのは、たぶん青空。しかも、どうやらこれは窓ガラス越しの景色ではないらしい。そよ風がふく、さやさやという音。小鳥がぴいぴいと囀る音がする。
覚えのない映像に私は首をかしげる。けれど、ガラス越しではない景色にとても興味があったから、その映像を見ることにした。けれどこの映像は、今までのものとは違い、モノクロの映像らしい。せっかくなら、綺麗な青色の空を見たかったけれど仕方ない。私はじっとスクリーンを見つめた。
柔らかい芝生の上。小さな女の子が走っている。まだ拙く危なっかし気な足取りは心配だが、走っている本人はそんなこと気にもしていない。ころころと楽しそうに走り回っている。まだ短い腕を懸命に空に伸ばし、ひらひらと舞う蝶々を追いかけている。その蝶々は、図鑑にも乗っていないような不思議な青色をしていた。不思議なことに、モノクロ映像の中で、その蝶々だけははっきりと色づいている。
あれは、小さいころの私だ。でもどうして?私は外に出たことなどなかったのに。覚えていない、存在すらも怪しい走馬灯。今までとは少し違う映像。
外を駆けまわる小さな私は、きゃはきゃは楽しそうに笑っている。幼い子がよくやる、ぴょこんとした短いツインテールを、かわいらしいポンポンのついたヘアゴムで結んでいる。そして相も変わらず、不思議な色の蝶々を追いかけまわしていた。
「ほら、帰るわよ。」
不意に画角の外から、にゅっと腕が伸びてきた。その腕は、駆けまわる私を優しく捕まえて抱きあげる。
「まま!」
幼い私は、にぱっと笑って、その腕にしがみついた。細く、けれどしっかりと私を抱きしめる腕は、お母さんの物だった。
「今日はお夕飯どうしようかしらね。」
「おむらいす!おむらいすがいい!」
「わかったわ、オムライスね。じゃあ、卵を買って帰りましょうか。」
「はあい!」
私を地面に下ろしたお母さんと、幼い私は、しっかりと手をつないで夕暮れの中を帰っていく。私の知らない、両側に低木の生えた並木道。その道には、スーパーや洋服屋、ドラッグストアなど、私がガラス越しにしか知らないものがあふれていた。
しっかりとつないでいた、お母さんと私の手。きっと暖かかったんだろうな。記憶にない、ということがこんなにも悲しいなんて。私は、大きく成長した自分の手を見下ろした。今の私の手はやせ細っていて、骨がぼこぼこと浮いている。ケアなんてろくにしていなかったから、肌もがさがさだ。
記憶にない、あの走馬灯に映っていた私の手とは、全く違う。あの映像は、私の願望だった。夢と言ってもいい。ガラス越しではない、あたたかい体温を傍に感じて。道行く人と同じように、当たり前に日々を過ごして。家族と何気ない会話をして、しょうもないことで喧嘩して。そんな日々が、ガラスの中で飼われていた私の夢だった。
私はずっと寂しかった。家族と触れ合うのは、いつも冷たいガラス越し。家族ではない、他人行儀な医療関係者との毎日。前例もなければ治療法もない、私と同じ患者すらいない、奇妙な病。刻々と迫る命のタイムリミットに寄り添ってくれる人も、手を握ってくれる人もいない。
強がっていた。一人で平気だって、今までずっと一人だったからって、寂しくなんかないって。だってそうでもしないと、花があふれてしまう。そうしたら、私は死に近づいて、いずれは死んでしまう。ああ、花が嫌いだ。どうしてこぼれてしまうの、どうして私だけなの?ほかの誰でもいいじゃない。私である必要なんて、ない。
だって、どうして、でも、なんで。そんな言葉が、ぐるぐると頭を駆け巡る。
そして、その果てに。
「私、淋しかったな…」
そうポツリと呟くと、アクアマリン色に輝く柱の隣が、ぱっと光を散らした。
光が散った後の柱は、私が貯めこんでしまった寂しさの濃さを表すように、深い深い藤色に光っていた。
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