第3話 第二部、「ある日の苦悩」
暫く砂嵐の映像をぼうっと眺めていると、再び星空のスクリーンが、形あるものを映し始めた。ざーざーと窓ガラスをつたう雨と、部屋に備え付けられたスピーカーからのわずかな雑音から始める、カラー映像。
ああ、あの時だ。一つ目の映像より少し前の、あの時。
あの時は、お母さんとの面会だった。私の病室は細菌やウイルスが入らないように密閉されていて、面会の為にガラスの壁がついている部屋だった。そして、外の誰かと会話するときは、私はマイクに向かって喋り、ガラスの向こうの人の声をスピーカーから聞いていた。そうやって、お母さんと話していたときのことだ。
「今日の体調はどう?また花が咲いていたりしないわよね?」
お母さんは弱弱しく笑いながら、冗談交じりにそういう。そんな問いをかけられたとき、私は決まってこう返すんだ。それ以外の答えを返せば、お母さんは泣いてしまうから。私は、お母さんを悲しませたくない。
「うん、大丈夫。今日は結構調子もいいんだ。お母さんが来てくれているから。」
「そう、よかったわ。じゃあ、そろそろ時間になってしまったし。私は行くけれど、淋しくなったらいつでも言っていいのよ。」
「うん、ありがとう、お母さん。」
パイプ椅子に座っていたお母さんが、ひらひらと手を振りながら立ち上がる。私はガラスの中から、同じように手を振り返す。にっこりと、できるだけ元気そうに見えるように笑顔を張り付けておくことも忘れない。そんな笑顔の私を見て、お母さんはどこか安心したような雰囲気とともにドアの向こうに消えていった。
ふう、と息をつく。気が気じゃなかった。症状はどんどん酷くなっている。前はめったに花が咲くことはなかった。無性に寂しくなることも、声を上げて泣いてしまいたいと思うこともなかった。けれど、今はもう違う。
暗くなった、夜のガラスに映る自分。痩せこけて青白くて、頼りない自分。四六時中健康状態を聞きに来る看護師さんやお医者さん。私のバイタルを記録し続ける、よくわからないディスプレイモニタ。うっすらと漂う、つんとした消毒液の匂い。
全部全部嫌いになってしまった。生まれた時から傍にあるもので、傍にあることが当たり前のものだったのに。少し前まで、ちっとも気にならないものだったのに。
今では、それら全部が私を追い詰めるように迫ってくる。そう錯覚してしまう。
どうしてだろう。息が苦しい。今まではこの部屋にいるときは、安心できた。生まれてからずっと過ごしている部屋で、この部屋が私にとっているべき場所だったから。それなのに、もうここは安心できない。敵だらけの知らない土地に、一人ぼっちで取り残されているような疎外感に襲われてしまう。
苦しい、苦しい。でも誰にも言えない。そんなことを知られれば、両親は私を心配するだろうし、お医者さんは新たな症状を躍起になって聞き出そうとするだろう。
思わず胸を押さえた。目からはとめどなくカモミールがあふれ出る。花言葉は「苦難の中で」。苦しくてどうしようもできない、私の心の内を表すのにぴったりだ。
ガラスの向こうの雨は、ますます強まっているようだった。
映像が途切れて、砂嵐の映像に切り替わる。ベッドの上で胸を押さえ、躰を丸めて泣く私が最後に映し出されていた。
そうだ。あの時だって本当は泣きたかった。花ではなく、涙をこぼして泣きたかった。嗚咽を漏らさないようにするのではなく、心の内を全部吐き出すくらいに大きい声を上げて泣きたかった。独りぼっちの夜ではなく、誰かの暖かい腕の中で泣きたかった。独りなのは、私にとって苦痛となっていたんだ。
そう気づいた時、朱色の柱の隣の柱がぽうっと光った。そして、先ほどと同じように柱に色がともる。
ともった色は、見ているだけで体が冷えていくような孤独を溶かし込んだ、眼が冴えるようなアクアマリン色だった。
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