言の葉の樹

古部文月

1枚目 町と苗 (1)

 朝日の気配で目が覚めて、仕事着に着替える。仕事着と言っても職業柄、すぐに着替えられるラフなジーンズにシャツが定番になっている。障子を開けて縁側に出る。まだ朝霧に包まれる庭、朝露が僅かに差し込んだ朝日に照らされている。耳を澄ませば、どこからか聞こえてくる人々の声と木の葉が風に揺れる音。穏やかで爽やかな一日の始まりを告げる合図。


「行ってきます、先生」


 柔らかな笑みの奥にどこか寂しそうな表情で、部屋の窓辺に置かれた一枚の写真立てに微笑みかける。その中の写るのは優しそうに微笑む白髪の男性。


 綺麗な黒髪と胸元には梅の蕾が入ったガラス玉のネックレスが朝風にゆらゆらと揺れている。彼女は高々と空に手をかざし見上げると、軽やかに歩き出した。


 ここは「梢町こずえちょう」緑と人の活気溢れる町。公園や歩道脇、民家の庭と至るところに木々が植えられているのがこの町の特徴。そして最も大きな大木が、町の中心である丘の上に高く延びている。この大木がある丘の麓に「梢町環境保全所こずえちょうかんきょうほぜんじょ」と書かれた自立型のガラス看板と共に町同様、植物が張り巡らされた建物が建っている。レンガ造りの壁がお洒落な玄関口を抜ける。入り口横にある事務室の窓口に寄ると、奥に座っていた女性事務員が近付いてくる。


「おはようございます」


「おはようございます、栃さん。社員証の提示をお願いします」


 鞄から名前と写真の入った紐付きのビニールケースを差し出す。女性事務員は渡された社員証を受けとると、裏に記された葉を型どったQRコードを専用機で読み取る。


とち捺梅なつめさん。社員証の確認完了、ご提示ありがとうございます」


 返却された社員証を首にかけ、二階へ続く階段を上がる。上り終えると階段横にある部屋に入る。


「おはよう、栃。今日も早いな」


「おはようございます、檜葉ひばさん」


 話しかけてきたのは捺梅の上司である檜葉ひばしゅう。片手に珈琲の入ったマグカップと爽やかな笑顔。日に焼けた髪を茶色く染めた短髪と、百七十五センチの身長のせいか、まるで体育教師のように見える。


「栃、もう仕事は慣れたか?」


「ここに入れて二ヶ月、まだ全然ですけど、一日でも早く一人前のつむぎ師になれるよう頑張ります」


「そっか、でも毎日これだけ早く出社してるのは努力家の証拠だな」


「ははっ、ありがとうございます」


 ◇◇◇


 梢町、人と緑溢れる平和な町。かつてこの町は澱んだ空気と瘴気立ち込める死の町だった。木々は枯れ、動物の死臭が漂う町を見捨てて人々は次々と出ていった。それでも故郷を思いわずかに残る者もいた。町を再建させるため必死にこの地で生きようともがく住民たちのもとに、ある日何の前触れもなく一人の青年が町を訪れた。青年は住民の一人に小さな苗を渡し、こう言った。


『この苗は命を運び、育てる木。町の中心にこの苗を植え大切に育てれば、町は以前よりも豊かな地となるだろう。木が成長し、大木となったらその枝を切り分け、町中に植えなさい。そうすればこの地を蝕む瘴気は徐々に消えさる』


 住民は半信半疑ではあったが、言われた通りに苗を町の中心の小高い丘に植えた。そして青年は付け加えてこう言った。


『この木は瘴気を吸い続けると枝が黒く腐食する。黒化こっかした枝は、この木が選んだ人間に切らせ、根元に埋めなさい。決してこの木を燃やしたり、許された者以外は触れてはいけない。これを破れば木は枯れ、再び町は瘴気に包まれるだろう』


 青年はそう言い残し、町を去っていった。

 その後、住民は青年の言葉通りに木を大切に育てた。すると、町を覆っていた澱んだ空気も瘴気もみるみる薄くなり町は以前よりも活気溢れる町となった。

 住民はいつしかこの木を「言の葉の樹」と呼び、木を守り育てる人間を「つむぎ師」と名付けた。これがこの町の始まりとされる言い伝えであり、今なお続く人と自然のつながりの物語。

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言の葉の樹 古部文月 @hurube0707humiduki

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