何時か
堕なの。
何時か
外れた黒電話の受話器は机の下へと垂れ下がり、机の上の契約書から目を逸らす役割を全うしているかのように見える。蓋の開いた万年筆の先だけが影から逃れて鈍く光る。男が席を立ってからそう時間はたっておらず、契約書に記されたインクは乾いていない。
「主は、何を、」
ヴィランだかピカレスクだか、そんな分類に当てはまることは知っている。逆に言えば、それ以上の細かいことは何も知らない。ただ、決められたように主の元で働く存在が私だ。
人より微かに聴力の優れた耳は、ドアの前の足音をキャッチした。主のものでは無い。見知った足音でもない。警察か、何処かのクソガキか。後者であって欲しいと願ったのは初めての経験である。
呼び鈴の音にモニターを覗けば、やはり制服が見えた。警察である。家宅捜査だろうと、何となく思った。本当に、何となく。
「お入りください」
遠隔で鍵を開けて、裏口の窓から脱出した。別に捕まりたくなかったわけではないが、最後くらい主に会いたかったのかもしれない。体の軋む音を捉えながら、主が行くであろう留置所に向かった。
数日後であろう。私がそこに忍び込んだのは。夜の十二時。皆が寝静まる時間。足音を立てぬように主の独房に近づいた。
「主、ありがとうございます」
「そんなこと、言われる理由はないよ」
主は起きていて、私と目を合わせた。
「君が無事でよかった」
無事、なのだろうか。分からない。
「お前、何をしている」
警備員がライトを向けてくる。その眩しさに目を背けたのは主で、真っ向から見つめ返したのが私だった。その光る私の瞳孔を見て、警備員は何処かに連絡を入れた。
「主は私の全てでした」
「そう」
優しげなその眼に、酷く悲しくなったのは私で。主に会いに来なければ良かったと少しだけ思って。でもやっぱり会いに来て良かったとも思った。少しだけの延命治療より、主に会いたい。例え傷つけても。
「製造番号0129廃棄処分だ」
警備員に手を掴まれる。私みたいな、心を持ってしまったロボットなんて助けなければ、主は普通でいられたのに。助けた上に更に私のためを思ったのだろう。馬鹿な人だ。馬鹿で本当に、
「何時か、人間になりたい」
「巫山戯たこと言ってないで速く歩け」
警備員の言葉もどこか空に聞こえて、ただ、主にこの言葉が届いたかどうかだけを考えた。何時か、人間になったら、その時こそは人間として主のそばに居たい。どうかその願いが叶いますようにと。ただただ祈るばかりで。
何時か 堕なの。 @danano
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