第3話 大春風

春一番の風が吹き始めた。冬の空気と言うものが、一切に洗いすすがれて行く、それは植物達にとっては芽吹きの季節または合図であり、雪の下にて静かに過ごして居た彼等は縁の下をを持ち上げるが如くえいやっと言わんばかりに此方の都合等お構いなしに伸び続ける。その過程を見るに早めに植木屋の仕事に逸る鋏に齧ってもらおうと少しばかり思わず考えたが、何分彼等が雪の中から切々と伸びる様を見て来た為、後生の悪い事はしたくないと成敗の日を先延ばしにした結果、見事鋏に噛み付かれる事は取り辞めとなった。まあ、この私に情が移った始末ではあるがそれが幸いしたのか随分と庭の草木の勢いが良い。内心庭の景色が沸き上がって存外に気に入ってはいるが、このまま降盛を誇る夏場に当たると家がどう成る事か些か心配で隣屋の敷地に木の枝が張り出しても困る。ただ、今更切らぬと申し開いた身分としては、いちいち鋏を出して自身が彼等を切る事に精を出したくなかった。第一その事で文筆を疎かにするのは致命的によろしくない。では、その植物を刈り取る様を筆に起こしてみては、何か書く段になって足しにはなるやもしれんとも考えたが、植木屋ならまだしもそれが余り高等な手段では無い様におもえた。その為今は彼等のご随意にしている。そんな因果な庭であるが、辛うじて庭の草木達は首の皮一枚で繋がっている。私もその様子を見て内心華やかだが、何せ庭に植えてある桃色の一等大きな房を着ける木が、特段盛り咲いたものであるから、件の枝が張り出しそうな隣屋に頭を垂れる形で無事に張り出してしまった。これには私も甚だ申し訳ないと此木と同様に頭を下げたが、以外にも隣屋の主人は此処までのものは見たことがないと感嘆していた風であったので計らずとも私は重ね重ね胸を反らせて帰る結果となり、やはりその満開の名に恥じぬ様は人目を引くのであろう道行く人々が、まるで見返り美人を見るが如く家の前を過ぎ行くのである。それでも余りある大きな房は此方でしか全体を見ることは叶わないそんな贅をこらした木を見つつ原稿を書いていると、件の木に何かが止まっていた。烏の様な頭に体には行者の装い…。烏天狗だ。文献や民話の中では見聞きした事はあるが、本物は始めて見る。さて如何にして接したものだろうかそう唸っていると、彼の者は腰に掛けてあった徳利を取り出し花房をしごいて蜜を取り出しその中に注ぎ入れた。ふうむ鳥達は花房目当てで存外にあの木が騒がしかったのは知っていたが、まさか行者の装い重ねて烏天狗が来訪するとは思いもよらぬ伏兵であった。ただ、彼の者がああいった精の付く物を口にして良いのだろうかと私は案じ、なあ、その木は存外繊細なのだ他所にいってくれまいかと言った。これは本心である。形の良い房が崩されてはかなわないからだ。しかし烏天狗は「主様は質の良い酒をご所望だ、故にこの様な見栄える花房ではないとまかり通らん。そもそも我は、繰武山の主二郎坊の使いで此処に来ている。あの御方は大層なザルでな、しかも我儘な事に酒の味にすらも兎や角言うときてる。近隣の谷にできる猿酒では辛過ぎると言われる次第で甘美な酒しか飲まぬ故此処迄足を運び入る事となったのだ」そう淡々と言われると、否が応でも合点いくしかあるまい私は余り房を傷つけない様にしてくれと念を押して家の中に引っ込んだ。仕上げなけばいけない原稿があるのである。それから暫くして原稿が一段落した折、木を見やると彼の者はいなくなっていた。用事がすんだのだろう花房を手に取ると形は崩れていなかった。ふむ、烏天狗か。私は思わぬ拾い物をした気分でいた。 完

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