26 試験
ノエルは、軽く深呼吸をした。まばたきをし、相手を視界の中央に据える。
準備はできた。ノエルは、目の前の棒立ちのアンヌに向かって駆け出した。
真っすぐ、臆することなく。堂々と待ち構えるアンヌに向かって、ノエルはナイフを構えて走る。
すぐにアンヌのもとへ辿り着くと、ノエルは容赦なくその刃を振るった。
油断したアンヌの懐には簡単に入ることができた。短いリーチのこと武器であっても、十分に殺傷できる距離。
捉えたのは、首。
素早い斬撃は易々とその急所を捉え、命を刈り取らんとしていた。
ノエルも手ごたえを感じていた。
いやむしろ、この程度だったのかと心の何処かで安心をした、のだが――
(――消えた!?)
吹き抜ける風。瞬間的な嵐が巻き起こり、もう気づいたときには何も残っていなかった。
前髪をかき乱すような、小さな風の渦。振りかぶられたナイフは、ただ空虚に、その空間を斬るだけだった。
そしてふと、後ろから聞こえる見知った声。
「隙あり」
――これはいわゆる瞬間移動。風の魔法の一つだ。
自身に突風を瞬間的に与えることによって、目まぐるしい速度で移動することができる。
瞬時的な魔力の調節と、精密な魔法技能、そして、そのような速度で移動しても姿勢が崩れないバランスと平衡感覚が要求される、非常に高度な魔術である。風の使い手を称するアンヌが、最も得意とする魔法。
この声に対して振り向いたときには、もう遅かった。
もはや質量を持った突風がノエルを襲い、その肉体が吹き飛ばされる。
それ自体にそこまで威力はない。だがノエルの体勢を崩すのには、十分すぎる性能だ。
「――っ!!」
右足を掬い上げるように吹いた突風は、ノエルの体をふわっと不自然に浮き上げる。
一瞬焦ったノエルだったが、咄嗟に体の姿勢を制御。ちょうど空中でひねりを入れて回転するような形となり、そのまま受け身を取って地面に転がる。
落下時の衝撃を吸収し、ノエルはそのままの流れでアンヌに正対した。
「ノエル様、私に対して真っ向勝負を挑んではなりません。なぜなら私は、狡猾な”魔族”なのですから」
「ああ……実戦なら死んでいたな」
「貴方が戦う相手は上級の魔族です。貴方自身も、魔族らしく狡猾に戦うのです」
「そうだな。今の俺は魔族だ」
ノエルは悔しそうに、しかし真っ直ぐな視線で、アンヌを捉えていた。
アンヌのアドバイスは極めて抽象的だったが、ノエルが人生で培ってきた戦いのスタイルを改めさせるには十分だった。
魔族相手には、狡猾でなければならない――これは騎士道精神にあるまじき考えだが、悪くはないものだ。
「ふふ、今のはノーカウントですよ。……そろそろ本気を出していただきましょう」
「そうだな」
ノエルは軽く深呼吸をして仕切り直すと、目尻を引き上げ、決意を再び固める。
そして彼は再びナイフを構えなおすと、両手を出して、アンヌを手招きする。
「安い挑発ですが、とても面白いじゃないですか!」
その意図を理解したアンヌは、今度は先手で攻撃を仕掛けることにしたようだ。
ノエルへ向けて、真っすぐと走り出したアンヌ。視線でその軌道を追うノエルだったが、彼女はまた突然消えた。
もう既に見た手口だ。予想はできた。だが問題なのは、その対処をどうするか。アンヌの気配に気づいてからでは到底間に合わない。
――後ろだ。
ノエルは最早その位置を視認もせず、魔法を叩き込んだ。
簡易的な攻撃魔法。殺すには弱すぎるが、アンヌを退かせるためにはこの魔力濃度の魔法しか間に合わない。
案の定ノエルが放った魔法は、アンヌの防御魔法によって弾かれてしまった。だが弾かれたということは、軌道に間違いはないということだ。
「魔力の流れでバレバレだ」
「素晴らしいです、ノエル様」
瞬間移動を使用すると、術者が移動した軌跡を描くように魔力の流れが大きく乱れる。大きくとはいっても、非常に僅かな時間の話なのだが、ノエルはその流れをある程度正確に感知することができるようになっていた。
彼は、この瞬間的な空間の魔力の乱れを正確に察知し、アンヌの移動後の方向を予測していたのだ。
ノエルはすかさず間合いを縮め、アンヌに対して蹴りを入れる。それに続いて拳を振るう。
アンヌは素早い動きで全ての攻撃を躱しているが、少しずつ後ずさりをしている。ノエルに押されている。
だがここで反撃が返ってくる。
「防御ッ!」
一瞬の隙を突いて、アンヌは攻撃魔法を打ち込む。
咄嗟の防御魔法を展開し、衝撃はすべて受け止めることが出来たが、今度はノエルが徐々に押されてしまう。
形勢逆転。先程獲得した間合いが、少しずつ少しずつアンヌに取り返されてしまう。数秒前とは、全く逆の立場に追いやられた。
(なら……同じ手口で……!)
ノエルは風の魔法を
体に瞬間的な強力な風を付与し、それを一気に加速させる。
――瞬間移動だ。
……正直言って見様見真似だが、ノエルのその動きは、ある程度アンヌの瞬間移動を模倣できていた。
目にも止まらぬ速さで空間を駆け抜け、数メートルほどの距離を一気に飛んだ。
ノエルはすかさず、アンヌの背中に攻撃魔法を複数撃ち込む。エネルギーの塊となった真っ白な球が、背後から襲う。
――が、アンヌは辛うじて防御魔法をまた展開。直接的なダメージは免れたが、衝撃でアンヌは後ろへと吹き飛ばされてしまった。
「勝負ありか?」
「まだです。……――雲よ」
アンヌが小さな声で呟くと、その体から魔力が溢れ出す。そしてそれは真っ白な煙となって、もくもくと莫大な体積になって溢れ出す。
(何も見えないな……)
その煙に加わるように、やがて吹き荒れはじめる風。どんどんとその風は強くなり、やがて天高くまで渦を巻きながら成長していく。髪も服も、ばたばたと音を立てて靡き始めた。巻き上げられた砂埃が目に入って痛い。
ノエルを囲むように吹き荒れる竜巻は、生み出した煙を巻き込みながら、ノエルの自由を奪う。かき混ぜられた真っ白な煙は、大嵐の中に立っているかのような感覚に陥り、方向感覚がどんどんと失われていく。
視界と音、そして行動の自由が奪われる。
これはまるで――風の牢獄だ。
(まずいな、どこにいるのかが検討もつかない)
完全にアンヌを見失ったノエルは、閉ざされた嵐の中、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
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